須田光彦 私の履歴書23
宇宙一外食産業が好きな須田です。
最初の設計事務所は1年と決めて入社しましたが、その1年で吸収できることは吸収しまくろうと考えておりました。
毎日設計に関する色々な常識と知識を得られ、経験が増していきます。
そのどれもが今この瞬間にしかないと考え、自分に戒めて新人の生活を送っていました。
この1年間で、イトーヨーカドーのスーパーとして持っているノウハウも知ることが出来ました。
これは今では、新たな土地に新店舗が出店する際に、マーケティングの一環として近所のスーパーに立ち寄ることで活用しています。
スーパーでは、青果・鮮魚・精肉・惣菜という並び方と、青果・精肉・鮮魚・惣菜という並び方がありますが、この並び方の違いは近隣住民の平均所得の違いによって決められます。
この並び方を見るだけで、出店エリアの世帯所得の大体の目途が立ちます。
精肉コーナーだけでも最初に豚肉が来るか牛肉が来るのか、小間切れかステーキ肉かで所得水準を見分けることが出来ます。
所得水準と消費動向の関連性を40年前のイトーヨーカドーは既に統計を取っていました。
勇退した鈴木会長がまだ副社長だったころです、常に時代の先端を走っている方でした。
イトーヨーカドーの仕事を通じて、沢山の業種業態を経験させていただきました。
惣菜屋さん以外にも、豆腐屋さんと漬物屋さんで日本一の売上を実現することが出来ました。
どちらもイトーヨーカドー内での、製造・販売を持ち込みました。
イトーヨーカドーの厨房で大豆から豆腐を作り、新鮮な野菜を漬物にしました。
豆腐屋さんは特別に朝4時に入店できるようにイトーヨーカドーに交渉して、機械警備の仕組みを変えていただくサポートもしました。
豆腐屋さんは4時に仕事を始めないと、オープンまでに出来たての豆腐を店頭に並べることが出来ないので、特別な許可をとりました。
漬物屋さんは野菜を漬ける樽が大量に必要なので、バックヤードに専用の冷蔵庫を置かせていただく交渉をお手伝いさせていただきました。
どちらも、工場で作った商品ではなく、このお店で作った作り立てのものを提供しましょうという理念のもと、それ迄では考えられないことを実現しました。
最初は、イトーヨーカドーの店長もバイヤーの方も無理、前例がない、人を割けない、システム的に無理、スペースが無い、特別扱いできないと、まぁ考えられるだけの反対意見を伝えてきましたが、数か月かけた交渉の結果、全てクリアーして結果を出すことが出来ました。
イトーヨーカドーの関連企業に、ヨーク物産という会社があります。
今は7&Iフードシステムズという会社に吸収され、デニーズなどと一緒になっていますが、フードコートにあるポッポというお好み焼きとソフトクリームとラーメンを出す、フードコートにもってこいの業態を運営しています。
その業態を、必ず担当したイトーヨーカドーの店舗では設計することになっていました。
フードコートに出店するほかの業態を含めて、フードコートのコーディネートのようなことも行っておりました。
それぞれの業態の印象を変えること、店舗の並びで売上が左右するので、どの並びが一番消費者に価値を提供できるかなどを、入社数か月後にはさせていただきました。
このポッポの仕事で、厨房のノウハウをとんでもなく構築することができました。
5坪程度の非常にコンパクトな区画の中に、お好み焼きとラーメンとソフトクリームなどいくつもの要素を組み込みます。
右手と左手の使い勝手を決めて、上も下も全てを活用しなければ、必要な機器も要素も詰め込めません。
この経験が、厨房のコンパクト化のノウハウを私に授けてくれました。
もう一つ、このヨーク物産さんはマニュアルが、大好きな会社でした。
パートの主婦の方々が主戦力です、誰でもできるシステムを構築するためには、マニュアル化が必須です。
このマニュアル化で、担当者と何度大喧嘩したことか。
ついでに、何度ヨーク物産から会社にクレームが来たことか。
そのたびに私は所長に怒鳴られていました。
ヨーク物産の担当者が引き渡し間際の現場に来て、マニュアルと違うと言い出します。
数か月前から設計を行い、許可を得て工事をしているにもかかわらず、マニュアルと違うと言い出します。
そこで、そのマニュアルはいつできたかを聞くと、昨夜と言います。
昨夜決まったマニュアルが、この現場に反映される訳がありません。
でも、決まったことだ、今後はこの新マニュアルで運営をするから変更せよと言われました。
施工サイドと打ち合わせをして、変更したこともしなかったことも色々でした。
でも、ここでマニュアルの本質を、あり方と運用の鍵が何かを学ぶことが出来ました。
元々イトーヨーカドーはマニュアルが素晴らしくて、あらゆることがマニュアルで管理されています。
それでなければ、あれだけの大きな組織には成長しなったと思います。
後々ドン・キホーテのお手伝いをさせていただくこともありましたが、ドン・キホーテもしっかりとマニュアルで管理されていた素晴らしい会社でした。
この経験から、マニュアルの在り方と運用方法、トレーニングで伝えなければいけない最も重要なことを知ることが出来ました。
今ではスタッフ教育にも、おすすめのやり方にも、おすすめのセールススクリプトにも、スタッフ募集にも活用させていただいております。
飲食業は人が介在して、商品の製造と販売があり、商品と対価の交換以上の価値を提供することの重要性は、何十年どころか数百年不変であると言えます。
貨幣経済が発展していく過程で、伝え方も商品の作り方も、人の扱い方も色々なことは進化成長していますが、人が介在して、商品の製造と販売があり、商品と対価の交換を行う、この仕組みだけは不変と言えます。
飲食業で最も根幹をなす大事なことを、16からの現場経験とこの1年の経験で掴み取ることが出来ました、そう自覚しております。
少し話題を変えますが、こんな経験をしました。
入社して秋になった頃、あるスタッフの方がご自身の親戚の子が来春就職が決まったが、初任給が11万5千円だと、今時こんな安い給料の会社はありえないと、ひどい会社だと話していました。
その時私と同僚は11万で働いていましたので、私たちが務めているこの会社よりも、給料が5千円も高い良い会社だと伝えました。
それまで、仕事を教えていただいて給料までもらえて、不満を言う筋合いではない、丸儲けと思っておりましたが、プロとして生きていく限り、提供するサポートと対価について、考え直さないといけないと、この出来事から学びました。
会社を経営するうえで、スタッフを雇用するうえで、最も大事な売上と雇用条件に関して、自分の稚拙さを知った瞬間でした。
この時は、ムカッとして言い返しただけですが、後々考え直すと自分が提供するサービスの価値と価格を決めることの重要性を学びました。
年が明けて、少し仕事が緩くなっていた時に、退職することを所長に伝えました。
ありがたいことに、引き止められたことは嬉しい誤算でした。
退職はすんなりとOKが出るだろうと、引き止められることはないだろうと、過去の蛮行からそう感じておりましたので、嬉しい誤算でした。
次の会社が決まっている訳ではありませんでしたが、次のステージに上がることだけは決めていました。
ありがたいことに次の会社のご紹介があり、スムーズに移行できましたが、いよいよ会社を退職するタイミングで、所長が私を飲みに誘ってくれました。
これまで所長と飲み行くことも、会社で飲みに行くこともなかったので、初めての経験でした。
会社の近所の居酒屋に入って飲みだしましたが、ここで初めて所長の若かったころの、修業時代のことを話してくれました。
大手の設計事務所に勤めていたこと、そこで修業して独立したこと、昔はジープに乗ってやんちゃしていた時代もあったことなどを話してくれました。
この席で、所長が話し出した言葉に、ボソッと言った一言に私は一瞬戸惑いました、
それは、
「オレ、人を一人、殺してるんだよね 須田君にはそうなって欲しくなんだよね」
一瞬なんのことなのかわからず、所長は元犯罪者で私の中に犯罪者の姿が見えるのか、どういうことなのか、真意を聞きなおしました。
すると、以前に東北地方のある街にイトーヨーカドーが出店する際に、地元の企業にお声がけして入居募集を行いますが、1社どうしてもイトーヨーカドーに出店したい企業があったそうです。
でも、その企業の扱っている商品とビジネスモデルが、ショッピングセンター向きではなくて、所長は強く反対をしたそうです。
しかし、押し切られて出店することになり、若かった所長は設計を担当したそうです。
予想通りオープン後の業績は芳しくなく、その経営者は経営難を苦にして、自殺してしまったそうです。
この時に、もっと強く反対をしていれば彼は死ぬことは無かったと、この結果は自分が強く反対しなかったことが原因であり、自分が殺したようなものであると話してくれました。
そんな大事な話を今辞める時に話すのではなく、もっと前に出来れば入社の時に話していただければもっと違った1年になっていたかもしれないと考えていました。
この所長の言葉は、今も大きく強く私に残っています。
自分自身も倒産破産を経験し、死ぬことばかりを考えた3年間があります。
経営者にとって会社経営は、全身全霊を傾けて行うもので、自分自身と一心同体の感覚があります。
ですから事業の失敗を、自殺という形で幕引きしたかった気持ちは強く理解できます。
この時所長が私に言ったことは、繁盛店をたくさん作って、幸せな経営者をたくさん生み出しなさい、決して自分のような経験をしないようにと伝えられました。
この時の教えは、今も強烈に残っています。
この会社に来たこと、この所長に出会ったことの意味がこの時理解できました。
今は勇退してもうこの会社は残っていませんが、この時から15年過ぎた時に私と同期の二人でご挨拶に伺い、人生2回目の食事に行きました。
なぜか所長が、餃子屋さんがいいと言い出して、3人で近所の餃子屋さんで食事をしました。
私が退職する時に、伝えてくれたのことを覚えているのか聞いたところ、覚えていらして初めて他人に伝えたことだったと言ってくださいました。
今でも戒めとして残っていることをお伝えしましたが、少し安堵しているような、まだ疑っているような、ちょっとお茶目な所長でした。
最初の設計事務所を退職して、次の事務所に転職します。
4月入社でしたが、3月からアルバイトで現場のお手伝いに駆り出されました。
ここで初めて坂田さんに会います。
六本木の現場に向かう車の中で、初めて坂田さんと交わした会話は、
「須田君って、お好み焼き作ってたんだって?」
「いえ、お好み焼き屋は作りましたが、お好み焼きは作っていません」
「おっ しゃべりが生意気だね!」
これが初めての会話です。
確かに私は、偏屈で生意気ですよね。
この時から、坂田さんが53歳の若さで、癌で亡くなるまで、誰よりも深く強い繋がりが始まりました。
私の人生で、最も長い時間を過ごしたのは、坂田さんです。
私の師匠であり恩人です。
私は坂田さんに出会えただけで、人生のある部分では大きな成功をしたと思っています。
それほどに思わせてくれる方でした。
私の設計力は坂田さんのおかげです。
年齢は坂田さんを追い越してしまいましたが、記憶に残っている坂田さんを追い越すことは、きっと一生かかっても不可能なことに思えます。
次の会社での出来事が、私の基礎を作ってくれました。
坂田さんがそこに居てくれたおかげで、形作られていきました。