須田光彦 私の履歴書17
宇宙一外食産業が好きな須田です。
高校も卒業間近となり、親とも色々と話をしました。
母親は、大学に進学してほしいと言っていましたが、私にとって4年も学校に行くことが無駄に思えて、専門学校を出てすぐに働きたいことを伝えましたが、大学進学を言い張り譲ってくれませんでした。
なので、仕方なく1校だけ受験しました。
工業大学ですが、当然落第します。
落第して、専門学校しか行けない既成事実をつくるために、受験しました。
受験は、本当に答案用紙に名前しか書きませんでした。
名前だけ書けば入学出来た高校受験でさえ答えを書いたのに、大学受験は名前だけしか書きませんでした、というか本当に問題が難しくて降参してしまい、名前だけでいいやと思ってしまいました。
この時の上京は、姉のアパートに泊まらせてもらいました。
確か1週間くらいはいたと思います、受験は2日間だけでしたが、春になって上京するので東京を知っておこうと思い自分がいく専門学校と専門学校のある原宿あたりを散策しました。
表参道に入ったあたりでアンケートをとっていました。
声を掛けられるままにアンケートに答えていくと、映画の鑑賞チケットを買うことにいつの間にかなっていました。
典型的な詐欺でした。
受験の名目で上京して最初に出会ったことが、詐欺の勧誘でした。
そんなものは買わないことを伝えると、アンケートをしていたヤツの態度が一変してすごんできましたが、当時はそんなことは平気だったので、「あ~ こうやって人を騙すのかぁ 注意しよ!」と、学習していました。
つべこべ言っていましたが、ほっといてその場を離れました、追ってくるかなと思いましたがもう次のターゲットを狙っていました。
ブラブラ歩いて青学の前に差し掛かったところ、面白いお店を見つけて入りました。
トレーナーやTシャツのプリントショップでした。
私でも知っている有名大学のサークルやスポーツチームのオリジナルTシャツが掛かっていて、オリジナルのデザインを持ち込んでくれればプリントすると、店長らしきおじさんが説明してくれました。
面白いなぁ、東京はこんな商売があってお店が成立するんだと思っておじさんの話を聞いていましたが、私は突然そこでアルバイトで使ってくれないかとお願いしました。
4月になったらデザインの専門学校に入るために上京するから、アルバイトをさせてほしいとその場で懇願しまし。
おじさんは、いぶかしげに私を見ていましたが、一つ提案されました。
「春になって君が本当に上京したら、もう一度来なさい。上京して落ち着いてからでいいから、もう一度来なさい」 と、言われ簡単なメモ書きを渡されました。
「よし! 採用決定だな! これでもう東京での稼ぎ口は見つけた、これでなんとかなる!」
本気でそう思っていました。
自宅に戻ってから、改めて両親と話しました。
受験は失敗したこと、専門学校に行くことを伝えて、母も渋々了承しました。
母親はいずれ北海道に戻ってきてほしいと言っていましたが、父は何も言いませんでした。
私は最初から北海道には戻る気が無いこと、そもそも東京に居続けるかもわからない、将来的に海外に行くことだってあると伝え、兎に角もう帯広に戻ることはないことを伝えました。
上京の準備をしましたが、親に準備をお願いしたのは布団だけでした。
それ以外の必要なものは全て自分で稼いだお金で賄いました。
入学金など進学に必要な資金を出してもらったので、それ以上はもうお願いする訳には行かないので、アルバイトで稼いだお金で賄うことにしました。
320円の時給でも3か月以上働くと40万くらいは貯められます。
実家暮らしの恩恵を最大限に活かして、全額貯金しました。
この時初めて銀行口座を作りました。
毎月の仕送りもありますので銀行口座を作りに行き、そこにアルバイト代を貯金していました。
なんやかんやと必要なものを取り揃えて、残ったのは1万円札5枚だけでした。
5万円だけ持って上京しました。
上京する日、いつものように母が仕事で7時前に出勤し、8時過ぎには父が出勤しましたが、いつもの朝の通りでした。
息子が家を出る日だというのに、何もなく淡々と普段の生活通りでしたが、それが良かったです。
下手に声をかけられるよりも、いつもの通りしてくれてたことに安堵しました。
この時、感じたことがあります。
家を出るとき鍵を閉めたその瞬間に、
「親の死に目には会えないな、覚悟をしなきゃな」
瞬間的に、言葉が降りてきました。
実際にそうなりました。
母の死に目には間に合いませんでしたが、危篤を聞いた時に、帯広を離れる日の朝に感じた通りだなぁと感じながら札幌に向かったものです。
当時姉はお付き合いしている方がいて、姉とその方が羽田まで迎えに来てくれることになっていました。
上京一発目に姉の彼氏とご対面です、むちゃくちゃ照れ臭かったのを覚えています。
彼氏はすごくいい人で、初対面から仲良くしていただけ、私も好きになりました。
上京して住むところは学生寮でしたが、この寮は色々な学校の生徒が入居する寮で、川崎の元住吉にありました。
成り上がりに地名が出てきますが、「おっ このあたりだったのか」と思ったものでした。
お昼過ぎに東京についたのでお腹がすいていて、武蔵小杉駅前のラーメン屋さんに入りました。
彼氏が気を使ってくれて、「北海道の味噌ラーメンのお店があるからそこに行こう!」と、連れて行ってくれました。
姉が、「光彦、帯広の味噌ラーメンとは違うからね、そこだけは言っておくよ!」と、変なこと言いました。
意味も分からず、それよりも空腹を何とかしてほしくてそれどころではありません。
母が言っておりましたが、高校生の頃私は1日1升の米を食べていたそうです。
ほっておいたらもっと食べたと言っていましたが、兎に角いつも腹を空かせていました。
その店に入って味噌ラーメン大盛とご飯と餃子を頼みました。
餃子はシェアする予定だったと思いますが、ほぼ一人で食べてしまいました。
味噌ラーメンは帯広ではどこに行ってもおいしい商品です、おいしくないところがないと断言できる最もポピュラーで安心な商品です。
その認識でいたところ、味噌汁よりも薄いスープのそうめんみたいなラーメンが出てきました。
勿論、山盛りの野菜も乗っていません。
「これ、味噌ラーメン?」「間違ってない?」と、姉に聞いてしまいました。
「だから言ったっしょ! 帯広の味噌ラーメンとは違うよって!」
理解しました、商品を見て、しっかりと理解しました。
この時、この瞬間に、「東京はおいし物がないんだ、お金の問題ではなくおいしいものは食べられないんだ、それでも人口が多いので商売は成立するんだ、偽物でも何とでもなるのが東京なんだ!」と、強烈に認識しました。
美味しい食事はあきらめよう、ここは修業の場だ、おいしいもんを食べるために来たわけじゃないと、決心がつきました。
このラーメンに衝撃を受けて、東京での生活を覚悟出来ました。
その後、寮に送ってもらい姉とは別れて、自分の部屋に案内されました。
4畳半ほどの狭い部屋でしたが、それで十二分でした。
デスクもあり、ファンシーケースもあって洋服も掛けられます。
押し入れもあり、先に届いていた荷物と親が買ってくれた布団が入っていました。
荷物をほどいて整理すると、すぐ夕食の時間になりました。
初めて食堂に行って、同じ寮に入っている連中と対面しますが、顔を見た瞬間気の合う奴合わない奴がすぐにわかりました。
この寮で、今でもかれこれ40年付き合っている親友に会うことになります。
青森と広島と沖縄の奴らですが、それぞれ地元も違い言葉も違い体感温度が違います。
4月の東京は私にとっては真夏の気温で、沖縄の奴には真冬以下でした。
朝帯広の家を出るときは氷点下10度くらいで、東京は既に20度に近い気温、一気に30度も気温が上がると汗だくです。
一方那覇から来た彼はセーターをきてジャンパーを着て、それでも震えています。
お互いに「お前はおかしい」と言いながら、仲良くなりました。
この寮のご飯が殺人的にまずくて、何を食べても醤油の味しかしなくおまけにしょっぱくてまいりましが、ご飯はおかわり自由でした。
日曜日は寮のご飯が出ない日で、厨房を開放してくれます。
友達数人と300円ずつ出し合い、5人いたら1500円なりますから、そのお金を握りしめて近所のスーパーに買い出しに行きます。
スーパーのオリジナルブランドの5食入りの袋麺が189円くらいで売っています。
それを2つと少しの肉と野菜を買って、ファミリーサイズのコーラを買ってきます。
寮に戻って私が料理しましたが、そのラーメンが死ぬほどおいしかったものです。
調味料は好きに使ってよいので、鶏ガラスープの素と出汁の素を入れて、もやしと肉をたんまり入れて、大鍋で作ったインスタントラーメンを、男5人であっという間に食べてしまいましたが、それが初めての日曜日の出来事でしたが、同じような日曜日が1年続きました。
専門学校が始まって、久々に学校が楽しくなりました。
中学3年の夏までのサッカー部以来の楽しい学校生活です。
毎日学校で出る課題が面白くて、こうやって学んでいるとデザイナーになれるんだ、毎日知識がたまっていくことと、手がどんどん動くことの喜びを感じていました。
最初は、手が自分の意志の通りに、動いてくれません。
鉛筆でまっすぐな線を引く練習をするんですが、直線が全く引けません。
それがひと月ぐらい毎日やっていると、直線が引けるようになります、4月の終わりには何とかなっていましたが、意識と感覚と神経の関係だと思います、ほぼ直線が引けるようになってきました。
ゴールデンウィークになって多くの寮生は一時帰宅しましたが、私は勿論帰れませんし帰る気もありません。
困ったのは食事です。
寮も休みで食事が出ません、寮生もいないのでいつもの作戦でお腹いっぱいになることもできません。
そこで、姉に助けを求めました。
姉が住んでいる駅までの片道の電車賃しかありません、携帯電話もないころですから、姉が帰ってくるまでアパートの前で待っていました。
どう見ても不審者でしたが、待つしか方法がありません、空腹は限界を超えそうです。
夜になって仕事を終えて姉が返ってきましたが、当然驚きます。
ただ、飲まず食わずで8時間以上はそこに居たと思いますが、そこを察してくれてすぐにご飯を作ってくれましたが、やっと生き返りました。
3,000円をもらって次の日帰りました。
元住吉についてすぐにスーパーに行って一番安い袋麺を買って、これでゴールデンウィークを乗り切る計画を立てました、もうすぐで仕送りもありますから何とかなると計画します。
なんとか初めての魔のゴールデンウィークが終わって、学校にも慣れてお金の管理が少しできるようにもなって、あの青学前のプリントショップに行きました。
アルバイトの約束を取り付けている、あのプリントショップです。
あれから1か月以上が過ぎていますが、一度約束をしているので安心しきっていきました。
お店に入ると、芸能人かと思えるほどの美人の女性がいて、お店じゅうに彼女の香水が充満しています、そのことに圧倒されてしまい、違った意味で勇気が必要になりましたが声をかけて、3月に来た時にここにいたおじさんと約束したこと、本当に上京して落ち着いたらもう一度来るように言われたことを伝えましたが、あれほど美人だった彼女が一瞬にして、まるで腐ったゴミでも見るような目でこちらを見てきます。
3月に来た時におじさんが渡してくれたメモを持っていたので、それを見せて何とか理解してもらえました。
そこで、初めて会社に連絡をしてくれましたが、人生で初めての視線を浴びて、「あぁ~ 東京ってこういうこともあるんだ みすぼらしい奴とか変な奴と見られることになれないとダメだな こんなことでへこんでいたらダメだな こんなことで負けてたら夢はつかめんな」と、教えてもらえました。
お姉さんが電話で、「社長いますか? お店になんか変な子が来てて、社長と約束したって汚いメモ書き持ってきてて、社長に替わってぇ~」と。言っています。
変な子と言われてしまいましたが、それよりもあのおじさんは社長だったんだと、轟いていました。
今思えば当たり前ですが、人事権を持っているから上京したら再訪するようにも言えたと思えますが、18歳の変な子にはそこまで理解できません。
社長に電話が回されて、お姉さんが受話器を恐る恐る渡してくれました。
挨拶をして話をしようとした瞬間、社長は開口一番「お前本当に来たのか! 本当に上京したのか!」と、受話器の向こうで叫んでいましが、当然、美人のお姉さんにも聞こえています。
それを聞いて、騙されたと思い、怒りがこみ上げてきて、
「約束したじゃないですか!俺はちゃんと約束守って来ましたよ!」と、電話口で怒鳴っていました。
隣で、美人のお姉さんが怯えていました。