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須田光彦 私の履歴書21

宇宙一外食産業が好きな須田です。


23歳まで色々な仕事に従事して、飲食業のことと飲食業を支える業種のことを一通り学んで、体得してきました。

東京に来るときに、決めていたことに年次計画がありました。

5ヶ年計画を立てていました。

18からの5年で東京に慣れよう、下積みの下積みをしようと、そして、23からの次の5年で下積みをして、28からの5年で独立のための下積みをしようと決めていました。

少なくとも15年は、下積みとして辛抱しようと思っていました。

30過ぎまでには独立をしたいと思っていたので、5ヶ年計画で歩んでいけば遅くとも32までには何とかなると、何とかすると決めていました。

最初の5年は、もし大学に行ったとしたのならば19から22まではまだ学生です。
その時間は自由に学生の様に過ごしても世の中が許してくれる、1年浪人したと思えば5年は大きな時間では無いので、自分だけに投資をしようと決めていました。

ですから、23歳までに納得できるまで飲食業に関することと、支えてくれる業種のことを存分に学ぶことが出来ました。

今までの記事には書かなかった仕事も沢山やりました。
短期で行ったことが沢山あります。

その中に非常に変わって仕事をしたことがあります。

六本木の路上で、深夜にアクセサリーを売る仕事をしたことがあります。

夜間の専門学校に行っている時に、随分年上のちょっと変わったクラスメイトがいて、彼に誘われて指輪を売ることになりました。

上野とかにあるアクセサリーのパーツ屋さんに行って、指輪の部品を買ってきます。

その部品を自分たちで組み立てて指輪を作ります、ほとんどがシルバー製で大きな石をいれます。

原価は5,000円もしませんが、それをなんと5万ぐらいの値段をつけて、六本木の路上で売ります。

夜のお店にお勤めの女性と、そのお客様のおじさまがなぜかお店にやってきます。
お店といっても道端にフェルトを敷いているだけの店です、夜は閉店している六本木交差点の脇の後藤花店の前でした。

決まっているかのように、女性が指輪に興味を示します。

手に取って綺麗とか欲しいとかを言い出します。
すると、必ずお客様のおじさまが値段を聞いてきます。

50,000とか30,000とかと言うと決まって高いと言って文句を言ってきますが、そこで、何を言っているんですか、これはアメリカのオレゴン州のパワースポットで採取された希少な石を使っていて、日本では中々入手が出来ない非常に価値の高いもので云々かんぬんと、さんざん能書きを垂れます。

相手も酔っているのでだんだんと面倒くさくなってきて、解かったから少し負けろと言い出します。するともうこちらの術中にはまっています。
勿論女性に買ってあげる欲目もありますから、これで売れるわけです。

上野の部品屋さんから買ってきた5,000円の手作りアクセサリーがです。

しょうがないなぁ 特別ですよと言いながら、50,000を38,000でいいですよとか言って、売りつけます。

1週間だけこのアルバイトをしましたが、毎晩10本ぐらい売っていました。


一晩で30万にも50万にもなります。

深夜まで売っていましたが、店じまいの頃に集金にやってくる、非常に怪しい人がいました。
アルバイト代は売れた額の15%でしたが、集金に来た人曰く私は歴代で1番売ってたそうです。

こんなに売った奴は今までにいなかったと言っておりました。

後々理解したのですが、六本木の深夜に路上でそんな商売をできることが異常なことです。

路上を管理している特別な団体があり、そこの売り上げとなっていました。
今では完全に摘発されるようなことです、すぐそばには麻布警察署もありましたが、なぜか特殊な商売が出来ていました。


それに気づいてすぐにそのアルバイトは辞めましたが、そのおかげでセールスのノウハウとテクニックを体得することが出来、まとまったお金も手にすることが出来ました。

このセールスのノウハウは、今ではアルバイトスタッフのおすすめのフォーマットに形を変え、私のビジネスのセールスに活かされ、後々会社員時代に高級品を扱うことになりますが、そこに遺憾なく発揮されることとなりました。

ビジネスで最も大事なセールスを、私は六本木の路上で会得することが出来ました。

その他にも六本木ではディスコの黒服をはじめ、いくつかの仕事をやりました。
六本木は特別な経験を沢山した、私にとってはちょっと別格なエリアです。

話は戻りますが、それまで勤めていたレタッチの仕事を辞めることを社長に伝えて、設計事務所を探し出します。

自分が卒業した専門学校の学生課に行って、応募が来ている設計事務所を紹介してもらいます。

決めていたことは、飲食店専門の設計事務所であること。
小さな事務所であること。

この2点です。

飲食以外は全く興味がなかったので、飲食店も設計していますという設計事務所は見向きもしませんでした。
飲食以外の余計な仕事をさせられることが嫌で、そこだけは絶対に妥協しませんでした。


誰もが気にする待遇面は全く興味がありませんでした。

これまでと同様にお金をいだいて仕事を覚えさせてくれるので、ギャラが出るだけでありがたいと思っていましたので、額は一切気にしていませんでした。

いくつも応募がありましたが、飲食店専門のところは全く無くて、一つだけ飲食専門の設計事務所がありました。

その事務所は、イトーヨーカドーの飲食部門を専門に設計している事務所でした。

青果・精肉・鮮魚・惣菜の売り場とバックヤード、専門店街のテナントとレストランフロアーのテナントとフードコート内のショップなど、兎に角イトーヨーカドーのフード関連の仕事を一気に扱う事務所でした。

もう、飲食店の設計ができるならと、そこ一本に絞って応募しました。


面接の結果採用されましたが、初任給は額面で11万でした。

西国分寺から駒沢に引っ越してきて家賃が6万でしたが、手取りで9万と少しの給料です。
当然暮らしていけませんが、給料が高かったレタッチの仕事のおかげで引っ越し費用を差し引いても50万くらいの貯金はありました。

月9万の生活で足りない部分は貯金を切り崩しながら、なんとか生活していました。

実は当初から、この事務所には1年で辞めると決めて入社しました。
次の設計事務所に転職するための、あくまでも足掛かりと決めて入りました。

ですから、1年で盗めるだけ盗もうと思い、設計に関連することは全てどん欲に吸収していきました。

その当時の自分に対するイメージは、カラカラに乾燥したスポンジでした。

どれだけ水を与えてもどんどん吸収していく、そんな自己イメージでいました。

以前のnoteの記事にも書きましたが、初仕事は惣菜屋さんです。
初仕事で、全国1位の惣菜屋さんを作ることになります。

それまで飲食店で働いてきた経験と、セールスを行ってきた経験から、販売の仕組みを変えてデザインを販売することに特化したものにしたところ、全国1位の結果をクライアントに提供することが出来ました。


所長は、なぜ設計1年目のスタッフが1位を獲れたか不思議がっていましたが、それまで飲食店で働いて、厨房の仕組みもホールでのおもてなしも経験し、セールスをしてきた観点から言うと、自分としてはある意味当然と思っていました。

この案件は、イトーヨーカドーの営業時間中に工事を行い、大きな音が出る工事や危険な工事は夜間工事になるものでした。


毎晩のように夜間工事に立ち会い、実際に自分の図面から本物のお店になっていくさまが嬉しくて嬉しくて、やっと高校生のころから夢見ていたことが、今目の前で現実として展開していることに、感動をしていました。


今迄この時のために修業をしてきました、色々な仕事をしてきました、沢山の出会いがありました。

多くの専門家と大ベテランが、デザイナーでダメだった時のためにと言って、本気で真剣に沢山のことを教えてくださいました。


専門学校で賞を貰おうが、夜間の専門学校で学生相手にレクチャーしようが、全てはリアルではない出来事です。

初仕事は小さな惣菜屋さんでしたが、リアルにその物が出来上がっていきます。

多くの職人さんが、どんどん図面を確認しながら仕上げていきます。


本当に感動しました。


完成した日の朝、一人で泣きました。


オープン前の仮囲いの中で、カウンターをなでながら一人泣いていました。
うれしくて涙が止まりませんでした。


16から一途に思い描いていたことが現実になった瞬間です。
涙が止まりませんでした。


10時になって保健所の検査があり無事に営業許可が出て、午後になって消防署がきて検査がありました。

そこもパスして、そのあとに施主検査があって無事にOKを頂きました。

夕方にパートの方々がきて仕込みを始めます。

次の日、朝8時くらいにイトーヨーカドーに行ったと思います。
もう、お店を手伝う気満々で行きました。

でもすっかりと準備は整っていて、総菜が次々と並べられていきます。
イトーヨーカドーがオープンして初めてのお客様がお店を見て綺麗になったとか、買いやすい見やすいとかと言って褒めてくれます。

お店の方や惣菜屋さんの社長への社交辞令もあったとは思いますが、その一言一言がうれしくて、私一人が涙目になっていました。


初めて惣菜が売れた時は、お店のスタッフと一緒になって、

“ありがとうございました”と、大声で挨拶していました。

深々と自然と頭が下がりました、心底嬉しく買っていただいたことに深く深く感謝しました。

気持ちはもうお店のスタッフそのものでした。

惣菜屋さんの社長さんがそれを見ていて、

「なんだ、須田君はウチのスタッフみたいだな」と、大笑いしていました。


夕方までいて事務所に戻りましたが、所長に業務報告をしながらこみあげてくるものがあり、必死にこらえながら報告をしたことを覚えています。

この初仕事から1年間、多くの案件を担当させていただきました。

1985年、バブルが少しずつ始まりかけている頃です。
大きく時代が動き出すそんなころでした。


でも、一方でこの事務所では、自分自身の礼儀知らずでとんでもなく稚拙なことも沢山露呈してきました。

常識では考えられないことを、沢山やってしまいました。

何度所長に怒られたか、数知れません。

今では、アルバイトスタッフを教育するまでになれましたが、このころは非常識の塊でした。


次回は、恥ずかしい経験を公開したいと思います。
この世間知らずの部分は修正されることなく、ここから3年ぐらい引きずることになる、その序章でした。

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