須田光彦 私の履歴書④
宇宙一外食産業が好きな須田です。
3歳で屈足から帯広に移って、祖母の家に居候させて頂いていましたがやっと新築の官舎も完成して、引っ越しをしました。
私は人生で4歳くらいまでが一番楽しかったです。
断言できます。
毎日が楽しくて楽しくて、目が覚めると今日は何をして遊ぼうかとそればかり考えていました。
本当に毎日ワクワクしていました。
バシャールに教えてあげたいくらい、本当に毎日ワクワクでした。
家の周りには自然がいっぱいで、屈足に居た時よりも世界が断然と広がりました。
牧場はありませでしたが、野球場が4面取れるほどのグランドが近くにあって、このグランドも営林局の施設でしたが、そこで毎日遊んでいました。
ちょっと奥に行くと林があり、その林を抜けると農家が何軒もあり製材工場もありました。
工業団地にも面していたので、車の修理工場などの工場も沢山ありました。
当時の帯広は冬には1.5m以上の降雪がありました。
冬になると、グランドにスケートリンクを近所の人が総出で作っていました。
帯広はスケートが盛んな土地でオリンピック選手が何人も出ている場所です。
このスケートリンクは近所の子供たちの格好の遊び場でした。
私は、帯広に引っ越した3歳からスケートをやっていました。
小学校になるころにはクラスで一番早い生徒でしたが、理由は3歳から始めていることだったと思います。
雪が降るとリンクの雪かきをしますが、雪を捨てる場所が無いので、リンクの中央部分に除雪した雪を捨てますが、するとリンクの内側に雪の壁が出来ます、高さは優に2mを超えます。
子供の身長の倍ほどの高さですが、よく冬の夜に気所の子供がみんな出て来て鬼ごっこをやりました。
スケートは同じ方向にしか滑れません、進む方向は決められています。
鬼は前を滑る子をタッチして捕まえますがバックは出来ません。
ここで追いかけっことなるわけですが、カーブで一瞬だけ鬼の視界から消えることが出来ます。
この消えた瞬間に雪の壁にダイブして壁と一体化して隠れます、すると鬼が目の前を通りすぎて、もう捕まらなくなります、こうやって難を逃れていました。
翌日朝にリンクに行くと雪の壁には子供の形をしたへこみが雪の壁にいくつもあり、それを見てみんなで笑っていました。
雪合戦もよくやりましたが、帯広の雪はパウダースノーすぎて雪玉を作れません、雪が固まらないんです。
息を吹きかけると飛び散るほどのサラサラ具合です。
天気のいい日の少し溶けた雪を探して雪玉を作って雪合戦をやりますが、ルールは「石入れ無しね!」です。
実は、雪玉に石を入れるとよく飛びますし、コースも安定します。
ルールは石を入れるなと言いながら、みんな石を入れていました。
この石の入った雪玉で雪合戦をしていましたが、当然顔にあたると皮膚が切れます。
そもそも半分溶けて凍っているような雪玉なので、そもそも顔にあたると切れてしまいますが、このころの雪合戦は流血は当たり前でした。
真っ白い雪に血しぶきを飛ばして遊んでいました。
真っ白な雪原に落とし穴も作って、よく友達を落としもしましたし、かまくらを作って友達を集めて遊ぶんですが、順番に一人ずつかまくらを抜け出してかまくらの裏に隠れて、みんなでかまくらを潰して最後の一人を生き埋めにする遊びもやっていました。
命がけで遊んでいました。
私も一度死にかけています。
冬の夕方、友達と遊んでいましたが、遊びで両腕を雪で固められて、丁度十字架に張り付けになったような状態で、放置されてしまったことがあります。
単純な遊びだったのですが、夕方から気温が一気に下がって行きます。
気温が下がる前で氷点下10度、下がり出すと一気に氷点下20度を下回ります。
朝は氷点下30度になるのが普通の帯広です。
その寒さの中で、腕を固めていた雪は氷になって子供の力では到底崩すことは出来ません。
濡れた手袋の中で手はどんどん感覚が無くなり東証になる一歩手前です。
雪の上に寝ていますので体温はどんどん下がって、尋常じゃないほど震えて来ます。
大体冬は4時になると暗くなりだし、危険な状態になってきます。
その状態で30分ほどだと思いますが放置されて、死を考えることとなり恐怖から助けてほしくて必死で叫んでいました。
すると、子供の尋常じゃない声を聞いて母親が助けに来てくれました。
大人の力でも凍ってしまった雪は中々壊せません、それほど硬くしまっています。
母も必死で固まった雪を蹴って壊して私を救助してくれましたが、あのまま放置されていたら確実に死んでいました。
あの当時は、そんなことも、流血も、骨折程度も、問題にも大騒ぎにも勿論警察沙汰のならない、おおらかな時代でした。
大雪が降ると除雪車が入って除雪してくれますが、捨てられた大量の雪で雪山が出来ます。
格好のミニスキーのコースになって、雪山の頂上から何本もコースを作って遊びました。
雪山は家の高さよりも高かったので6mぐらいはあったと思います。
ある日6年生の子と3年生の子が雪山のてっぺん争いで喧嘩をしました。
年上の子が馬乗りになって小さな子を殴っていたところ、雪山の頂上から二人とも滑り落ちて、下にいた子は肩を複雑骨折したことがありましたが、それでも大事にはならず、ごめんなさいの一言で全て収まっていました、それほどおおらかでもあり命がけで遊ぶ時代でした。
春になると雪解け水であたりは小川だらけになります。
父は修理工の職人だったこともあって、家には大工道具が一揃えありました。
4歳ごろに父から鉈をもらって、その鉈を刀の様に腰にぶら下げて林から木を切って持ってきたり、近所の製材工場に忍び込んで乾燥させている木を盗んできては、鉈で削って木刀を作って理もしていました。
弓矢を作って雀を撃ったこともありました。
矢の先端には釘をつけていたんですが、ある時本当に雀に当たってしまって雀を殺してしまったことがあり、大泣きしたこともあります。
勿論穴を掘って雀を埋めましたが、そんな酷いことも遊びの一つでした。
春先は、船を作って雪解け水の川に流して遊ぶのが大好きでした。
この鉈を貰ったことで、切ることの楽しさを知りなんでも切るようになりました。
鉈の次は小刀、その次はのこぎりと次々と刃物好きになっていきました。
木で何でも作ることで、立体的な想像力もついたと思います。
クリエイティブな才能がここで開花したと今では思いますが、当時は楽しくてしょうがありません。
船を作ってレースをしたり、雪解け水の川に友達を突き落としたり、少しだけ解けた氷混じりの雪で友達の顔を後ろから羽交い絞めにして洗って、顔中血だらけにしたり、そんな遊びばっかりしていました。
近所の川に行ってカエルの卵をとって来るんですが、卵を取ろうと前かがみになっている友達を後ろから蹴とばして卵が浮いている川に蹴落として卵まみれにしたりと、本当に野生児そのものでした。
そんな毎日でした。
ワクワクしないわけがありません。
この官舎に引っ越したことで、色々な私の原型が出来上がって行ったと思います。
ここで出会った一つ上のお兄ちゃんがいて、私はそのお兄ちゃんが大好きで、今でも大好きなままですが、その人の影響で後々サッカーも始めるようになります。
シゲちゃんというお兄ちゃんで、今は帯広で大工さんをやっていますが、本当に毎日一緒に遊んでいましたが、私は確実に金魚のフンでした。
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