【考えるヒント】 人は変わらないのに映画が変わった
映画はすっかり巨大な産業になってしまった。
しかし、売れるということは大切なことだ。たとえば21世紀になる頃から、アカデミー賞の作品賞の候補は、はっきりとレベルが落ちた。候補になるべき作品が取り上げられない大きな理由は興行収入である。では、興行収入の良い作品とはどんなものか。話題になっていること、分かりやすいこと、この2点に尽きるだろう。皆が観るから私も観るという行動原理の人は意外と多いものだし、皆が観にいくためには分かりやすくなければならない。「ハリー・ポッター」や「ワイルド・スピード」あるいはMARVELのような映画が重宝される時代だ。ちなみに、パルム・ドールもここ20年はダメである。
これは資本主義における仕方のない流れである。YouTubeにせよTikTokにせよ、とにかく分かりやすさが求められている。著名な文学や映画が「3分で分かる」なんて動画や本が流通する時代だ。3分で分かることで事足りるような人は、40歳になっても12歳のようなことしか言わない。
では、人間は太古から技術とともに変わってしまったのだろうか。僕はそう思わない。現在でもギリシア悲劇やシェイクスピア、あるいは今昔物語集の説話を下敷きにした物語は、人の心を打つものだ。つまり、人間の本質は変わらないのに、それを表現する方法が変わったのだ。デヴィッド・リンチ監督に言わせれば、wild at heart and weird on top (心は野生のままなのに頭がおかしい)である。
より分かりやすく、という近頃の傾向は良いことのように聞こえるが、この分かりやすさとは即席という悪い意味である。ラーメンを作ると言ってカップヌードルを出すようなものだ。つまり、近頃の興行収入で成功した映画で表現される愛とはインスタント愛だし、インスタント友情やインスタント家族の映画があふれている。NetflixやAmazonは、"優れているかもしれないがウケなさそうな映画"を自社で製作して配信しているが、これは素晴らしいことである。「アイリッシュマン」もこの方式である。電通や東宝はその存在自体が映画の障害になっているのだが、日本人は大企業崇拝教カルテル派の信者なので、邦画がご覧の有り様でも問題ないのだろう。
ある人物の本質を描くなら、その者をじっと見つめるに限る。120分もの間、見つめていたいような人物を描くためには、小手先の脚本ではなく、書き手の人間力が必要だ。では、そのような脚本があったとして、予算がつくだろうか。世知辛いものだ。「オッペンハイマー」のような物理学者を見つめた映画に予算があれだけ当てられたのは、ノーラン監督というブランドに群がる観客が多いことをスタジオは知っているからだ。では、ノーラン監督はなぜブランドになったのか。「ダークナイト」の監督だったからだ。「ダークナイト」という作品はヒース・レジャーという不世出の俳優の快演によって支えられた、マイケル・マン監督の「ヒート」のパクリ、出来の悪いリミックスに過ぎない。本人が「ヒート」を何度も観たことを認めている。ところが、白人で、まだ老人ではなく、客を呼べる監督として、映画会社はノーランをブランド化した。しかし、こうした世の中なのだから、監督のブランド化は必要なことである。なぜなら、ほとんどの観客は映画を年に2本くらいしか観なくなっているのだから、さあこの作品を観てください、とスタジオが金をかけて宣伝する映画が年に2本必要なのだ。もうかつてのように、多くの人が劇場へ足繁く通う時代ではない。
僕は若い才能に期待して、特にホラー映画はあれこれと観ているのだが、やはり良い映画に出会うことはなかなかない。New Hollywood と呼ばれる1970年代の映画ばかり観てしまう。人間は変わらないのだから、もっとちゃんと、じっと人物を見つめてみろと、最近の映画には言いたくなる。
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