【考えるヒント】 アルトマン、あるいは信頼できない語り手
ピカソやアインシュタインのような人物は、それまでの技法に飽き足らず、新しい地平を切り拓いた。表現すること、あるいは記述することの可能性を広げ、モノを見るための新たなレンズを用意したと言えるだろう。ハリウッドにおいて映画の撮り方を模索し続けた監督といえば、maverick (異端児、一匹狼)と呼ばれたロバート・アルトマンだと思う。タランティーノやイニャリトゥなど、現在活躍している著名な監督たちがその影響を受けたことを公言している。
アルトマンはもともとヒッチコック監督に才能を見出され、1960年代の後半から精力的に映画を撮り始めるのだが、この時期は New Hollywood (いわゆるニューシネマ)と呼ばれる映画の"流行"と重なっている。ベトナム戦争への反対、あるいはそれまでの主流派とされる表現への反発、というカウンターパンチのような運動はアメリカだけにとどまらず、たとえば昨日の大島渚監督もニューシネマに当たる人物である。こうした流行のなかで、反発のための反発にならず、アルトマンは唯一無二とも言える受けなさそうな独特の世界をスクリーンに残した。
今回のnoteはアルトマンの映画をもとに、映画の方法論について徒然なるままに書くので、アルトマンなんか観たことないよ、という方でも問題ない。
さて、「ロバート・アルトマンのイメージズ」という1972年の映画がある。原題は Images だ。スザンナ・ヨーク主演の本作は、夫の浮気を疑い始めた妻が、統合失調症のような幻覚に悩まされ、やがて症状によって実生活に支障をきたす、という映画である。
まず、こうした精神疾患を主人公に取り入れ始めたのは、20世紀になった頃の文学である。なぜこうした手法を使うのかというと、それまでの"頭がハッキリしていて嘘をつかない"という主人公のあり方を壊せるので、物語の表現として斬新であり、筋書きや演出の幅が広がったからである。もちろんフロイト以降の精神医学の発達とも無関係ではない。そうして哲学や文学の界隈では、理性ドーン、のような主流派のちゃぶ台をひっくり返す機会を得た。プルーストやタルコフスキーのような"意識の流れ"であったり、ガタリやフーコーのような無意識や狂気といった側面を持ち出してきたり、みんなで新しいことをやろうとしていた。これには Gott ist tot! (神は死んだ)と書いて梅毒でぶっ倒れた男が非常に大きな影響を与えた。
さて、アルトマンは精神を病んだ患者を撮るような手法を用いて、しかし先行する「サイコ」(ヒッチコック)や「反撥」(ポランスキー)とは異なり、もう何が現実なのか分からなくなるような、もっと言えば、現実なんてものは初めから存在せず、全てが妄想ではないのかという、もはや荘子の次元に突入していた。
劇中でも、もう死んだはずの男と会話やセックスをし、挙げ句の果てに刺し殺し、観ているこちらも初めのうちは"これが現実かな"と確認しているものの、やがて"現実というものはそもそも妄想と何が違うのか"と覚醒してしまう。
つまり、映画というフィクションの中の"現実感"とは一体なんぞや、という問題意識を全力で叩きつけてきた映画だ。そのために精神疾患の"症状"をたとえとして持ち出してきた訳である。
近頃はこうした手法のことを unreliable narrator (信頼できない語り手)と表現することが流行っている。この言い回しも、New Hollywood の頃にアメリカの著述家が言い始めたことだ。言い換えれば、この表現の裏側には、理性は reliable (信頼できる)という暗黙の了解がある。なぜなら、人は神の子であり世界は神が創ったからだ。ところが、そうした感覚もまた欧米か!と言いたくなる。僕に言わせれば、語られたことは全て unreliable である。この世にそんなに信頼できる語り手が多いだろうか。「羅生門」になること必至が人間ではないのか。だからキューブリック監督は、どの映画でも主人公をことごとく unreliable な者として描いたような気がする。
アルトマンの挑戦状にアンサー映画を撮った監督はいるだろうか。アルトマンのファンだと言うイニャリトゥは「バルド、偽りの記録と一握りの真実」でかなり良い回答を出したのではないだろうか。いずれにしても、こんな客にウケないテーマで映画を撮るなんて、バカバカしくて大好きである。