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【日本語教師ゆいの自己紹介】失敗続きの新卒まで→日本語学校勤務→オンライン教師になるまでのお話
はじめまして、ゆいです。ここでは、私のプロフィールを書いていこうと思います。
今やっているのは
・日本語オンラインレッスン(週2回)
・地域日本語教室開設の企画に参加
年子育児の傍らこの3つに取り組んでいます。
私の目標は、「育児をしながら日本語教師として個人で稼ぐ力をつける」ということです。
出産前は、日本語学校の非常勤として半年、常勤として2年働きました。その時はかつてから目指していた日本語教師の仕事を精一杯やって、当たり前にこれからも働いていくのだろうと思っていました。でも2016年の秋、病気で倒れて1週間入院したことをきっかけに「このままでいいのだろうか」と考えるようになりました。
病気、けがなどで働けなくなったら、収入は当然ながら0です。働きながら、奨学金を返している私にとっては、無収入は大ダメージなのです。
そして、その後ももやもやを抱えながら仕事をして、妊娠がわかりました。2019年5月、退職することになり、またもや収入は0になりました。
そこから、これでは子どもの将来も、毎月の生活費も、奨学金を返すのも…と色々なことが不安で毎日頭から離れませんでした。
ですが現在は、少しそんな不安が和らいできています。在宅でオンライン教師として教えていこうと決意できたからです。
2019年6月からオンラインで教えはじめ、月収は1.5万になりました。まだまだ少ない額ではありますが、雇われることなく自分で稼いだという事実は、私に自信とやる気を与えてくれました。
前置きが長くなりましたが、ここに至るまでの私の今までを書いていこうと思います。
内向的で平凡だった学生時代
もともと、内向的な性格です。小学生の頃から、人前に立つことが苦手で、大勢の中にいるとフリーズしてしまうような人でした。
例えば、先生に当てられたくなくて、目を合わせないとか、そろそろと手を挙げるとか。当たってしまったら最後、手は汗でいっぱい、頭は真っ白。誰かが「発表するときなんて、みんなじゃがいもだと思えばいいよ」なんて言ってきたけど、いやいやいや無理やろ。みんなが見ている…!無理!という感じ。
そして、大勢のグループで話しているときも、とりあえずにこにこしておいて「そうだね~」なんて言って話を合わせていて、いざ話を振られるとキョドってしまうようなそんな人でした。
だからそんな自分が将来、教壇に立つ日が来るなんてこの時は思いもしませんでした。
「日本語教師?金にならないぞ」と言われ悔しすぎた高校時代
高校時代まで、普通に勉強して、部活をして、友だちと遊んで本当に平凡に生きてきました。
夢とか、やりたいことはその時までは何もなくて、とりあえずいい学校に行って、いい仕事をしてお金を稼ぎたいと思っていました。
というのも、私のうちは母子家庭だったからです。毎日休みなく働く母の背中を見ていたし、祖父母にいつも面倒を見てもらっていたので早く恩返しをせねばと思っていました。その時の私のしたかったことは、早くいい会社に入って家族を楽にすることでした。
でも、そんなふわふわとした思いから、なぜ「日本語教師」という職業を目指そうと思ったのか。
それは、高校3年のときに行った初めての海外での1週間がきっかけでした。この記事で詳しく書いています。
しかし、夢を見つけた矢先、当時の担任に猛反対されました。
「金にならないぞ」と。
せっかく見つけた夢に対して、そう現実を突きつけられたのが、あまりにショックでした。でもそのおかげで反骨精神がメラメラと出てきたんでしょう。絶対に見返してやる。そう思って、日本語教育課程がある大学へ進学しました。
辛くて辞めたいと泣いていた大学時代
どんな学びも会得するまで、楽しいことばかりではないと思います。興味、関心があって選んだ日本語教育課程も、辛くて辞めたいと何度も思い、よく泣いていました。
学内併設の留学生センターがあったのですが、特にそこでの研修は想像以上に厳しいものでした。
しかも、教授から、毎回真っ赤になって返ってくる教案とともに何度も叱られ、「これはどんな意図で発話しているの?」「ちゃんと考えてるの?」そうたびたび聞かれては答えられず、目の前で泣いてしまう弱っちい自分でした。
もちろん模擬授業を通して、留学生と接したことや、ベトナムでの1か月の研修など楽しい経験もたくさんありました。しかし、教案がうまく書けなかったり、授業で質問されて答えられずパニックになってしまったり、授業がうまい先輩や同級生と比べたり…「私には日本語教師ってやっぱり向いてないのかな」と何度も思ったものです。
私の大学の日本語学科は、1・2年生に日本語の基礎を学び、3・4年で4つあるコース(日本語教育・日本文化研究・日本語発信・大学院進学)にわかれるようになっていました。
そこで、もちろん日本語教育コースに進んだわけです。周りには一緒にがんばる仲間もいました。(日本語科約80人中15人くらいだったかな。) しかし、4年生になって残っていたのは、私含めて5人ほどでした。この4つのコースは必須コースではなかったため、3年生の実習で辛いから辞めるわと離脱していく人がなんと多かったことか。
2013年12月。もうすぐ大学4年生というころ、一斉に就職活動が始まりました。
私は日本語教育実習の真っ盛り。2014年3月にベトナムでの研修が終わって帰ってくる頃には、もう就職活動が終わりつつある友人も多々。
猛烈な不安が襲いました。教授には大学院に行かないと学部卒では生活できないと思うと言われたり、周りがどんどん内定をもらったりして、自分の進路を完全に見失ってしまったからです。
あんなに決意して進んできた日本語教師への道を自分で引き返そうとしてしまいました。「ほら、みろ」と高校時代の担任の顔が浮かんで唇を嚙みました。
そして、秋。某ビジネスホテルに内定をもらいました。
心ここにあらずの新卒時代
2015年、新卒で2回も転職してしまった私は完全に自己肯定感や生きる意味を失っていました。
ホテルはたった4か月で、そのあとのパン屋も1年で辞めてしまいました。
今思うと、これらの仕事は合っていなかったなと思うのですが、当時はどこかで働いていないと生活できない…それだけのモチベーション。確かに働いてお金をもらって、母子家庭でも奨学金があっても払っていけることができたし、学生時代よりも少し豊かになりました。
しかし「好きな仕事」ではなかったんでしょう。やりがいもなく、仕事だからがんばるけど、なんだかうまくいかず常にもやもやして失敗ばかりして叱られていました。でも、どこか他人事のような感覚で、心ここにあらずでした。あかん新卒でしたねほんと。
日本語学校時代、人生初の入院生活
2016年の秋。勤めていたパン屋を辞め、抜け殻のようになっていた私は、ふらっとハローワークに赴き、そこで日本語学校の求人に出会いました。「これしか今の自分には道がない」藁にも縋るような気持ちでもう一回、日本語教師を目指そうと思ったのです。
非常勤として働きながら、本屋でのアルバイトの日々。生活は楽ではなかったし、1年目で授業は自信がないし、学生になめられて講師室で泣いてたし、教案が書けなくて徹夜して寝不足になってたし…今思うとやっぱり大変な日々でした。
でも、授業数をこなしていく中で、学生との対話を楽しめるようになったり、少しずつ自分の授業に自信が持てるようになってきました。
そんなときでした。通勤中、駅の構内で倒れたのは。
子宮内膜症で入院しました。1週間の入院が決まって体が思うように動かない中、働けないってこんなにも辛いんか。そう初めて思いました。
出産で退職したら空っぽになった
そこから月日は流れ、非常勤から専任になり、2年ほど働いたとき、妊娠がわかり、退職することになりました。慣れてきたころだったし、続けたいと思っていましたが、職場が家から1時間かかること、子どもを預ける環境がないことが理由で育休をとることはできませんでした。
大切な息子が生まれることはうれしくてたまらなかったけど、同時に育児だけの生活になることに不安もありました。そして、夫は何も変わらないのに自分のキャリアだけが置いてけぼりになるのが耐えられませんでした。
という思いがあって、息子が生まれる前からカフェトークでオンライン教師として活動を始めました。この記事にも書いてあります。
空っぽになった自分をなんとか埋めようと、必死になっていました。
そこで日本語学校時代の入院生活を思い出しました。
生きていれば病気、けが、妊娠、出産、育児で仕事を辞めたり、セーブしたりして思うように働けなくなってしまうことがある。そして、会社に属している限り、自分で仕事を調節するのは難しいのだと。
ホテルにいたときも、パン屋でも、日本語学校でも、残業は当たり前、自分の体調は二の次で、とにかく仕事漬けだった日々。これから育児をする中で、このような日々と育児を両立するのは自分にはもう無理だと思ったんです。
カフェトークでオンライン教師を始めて、最初は、月収約8000円と雀の涙のような金額でしたが、家にいながらして、息子の成長を見守りつつ仕事ができたことに感動しました。
息子が生後半年になったころ、突発疹になり背中にたくさんの発疹ができてしまいました。初めてすごく辛そうな息子を見て、焦って病院に連れて行ったことを思い出します。
そして、つかまり立ちを始めた頃からけがも多くなり、何度も病院に駆け込みました。ソファから、いすから、机から落ちて頭を打ったり、唇を切ったり…どんなに気を付けて見ていても一瞬の隙で予想外の動きをする…育児って大変という言葉では本当に言い表せません。
そんな時、会社にいたら?すぐ対処できただろうか。
そう頭をよぎることがありました。だからこそ、決めました。「育児をしながら、自分で稼ぐ力をつけていこう」と。
現在の私と目標
現在は1歳のわんぱく坊主と、今年4月に生まれた寂しがり娘(背中スイッチでいつもギャン泣き)の年子育児に奮闘しながらオンライン教師をし、収入アップを目指して活動中です。
乳幼児の育児では思うようにレッスンは入れられず、まだ月収は1.5万と少ないですが、それでも産前に感じていた大きな不安は小さくなってきました。
日本語学校時代の収入を超えることを一つの目標に、自宅で2人の成長を見守りながら、自分の思うような仕事ができるように邁進していきます。
Twitterやnoteで今後も発信して自分と同じように「育児をしながら自分らしく在宅で働きたいママ日本語教師」の方の参考になればと思っています。