down the river 〜雲上の記憶③〜
時間が止まる。
よく使われるこの表現がユウの身に起こった。
いや、今まで何度も経験したこの感覚をこれほどリアルに、強烈に感じたのは初めてのことかもしれない。
「…ユウ何を言ったんだ?今…」
「…。」
「ユウ?」
「ヒデ…。」
最初に何を伝えればいいのか、何を伝えれば全て伝わるのか、そしてどうやって伝えれば浦野からの守秘義務を果たせるのかを回転の遅いユウの脳はフル回転してそれを考えた。しかしどうにも考えは及ばない。
「ヒデ…お前は口が堅い人間だと信じてる…。」
「口が堅いかどうかは内容による。先生と生徒がセックスをするってんだ。何か事情があるんだろ?違うか?」
「あぁそうだね、事情…事情っていうのかな…。」
「口を滑らせたとはいえこうして俺にポロっと漏らしたんだ。その事情を聞こうか。俺は基本的に口は堅い。だけど不正や悪事が関わっているなら俺は黙ることはできないな。」
「タハハ…手厳しいね…。お前には、お前には話すべきか…。こんな話で俺達の絆が壊れるのはごめんだからな…。ただ、1つ約束してくれよ。」
「なんだ。話せよ。」
「浦野先生を突き落とす事だけは止めてくれよ。」
「突き落とす?」
「浦野先生は今…幸せの絶頂だ。そこから叩き落とすことは止めてくれ。叩き落とすなら俺を叩き落とせ。」
「ん、…まぁ…そこは…うん。いい…いいだろう。さぁ…話すんだ。」
ユウは話した。全てを洗いざらい話した。そこに関わる敬人との関係、浦野との関係、全て肉体を通しての取り引きだった事も全て話した。浦野は自らの身体をユウに捧げる事で出世の足がかりを捉えた。ユウは浦野を抱く事で自分の性別を得た気になっていた。そこに邪心は存在せず、ただその取り引きを行なっただけだという事をユウは迫島に力説した。
「わかってくれたか?これが俺だよ…。これが俺って人間だよ…。どうしようもねえだろ?」
「…。」
「お、おいヒデ…?」
「わかんない…な…。」
迫島は立ち上がると、換気扇のダクトを見上げた。
涙が落ちるのを堪えている様に見える。
涙声になっているので恐らくそうなのだろう。
「ヒデ…。すまない…俺はもう病気だ…。そんな腐った人間なんだよ。すまない。」
「お前は…何でも俺の上を行きやがる…。」
「え?」
迫島は出血寸前と言える程に拳を強く握り締めている。
「え?じゃない。お前は俺の欲しいものを全部持っていきやがる…。」
迫島はそう言うとしゃがみ込んでいるユウの胸ぐらを両手で掴むと凄い力でユウを立ち上がらせた。
「う、うわぁ…う…ヒ、ヒデ…。え?」
「お前に何がわかる!!作詞のセンス!楽器を覚えるスピード!更にはベースのアレンジのセンス!そして俺には出来ないし出せない…人の心を揺さぶる切ない歌声!!どれも俺が出来ないものだ!そして俺が欲しいものだ!!そして!?しまいにゃなんだ!?俺が憧れていた先生と取り引きでセックスしただと!?恋愛じゃねえ!取り引き!?取り引きだと!?身体で取り引き!?てめえ!!ふざけんなよ!!そしてなんだ!?高校まで俺の上を行きやがった!!殴らせろ!!てめえ!!おい!!ユウ!!こっちを向け!!このゲス野郎!!」
初めて見る迫島が激怒する姿にユウは膝から崩れ、腰を抜かしてしまった。
涙を流し、真っ赤に充血した瞳をグルグルと動かし、喉元に喰い付いてきそうな距離の近さにユウは完全に萎縮してしまったのだ。
「う…う…。」
「何とか言え!!このゲスが!!ええ!?ふざけやがって!!」
「も、も、も…」
「んだぁ!?なんだ!!ユウ!!」
「も…もう…殴ってくれよぉ…できればもう…勢いで殺しちゃってくれよぉ…ヒデぇ…もう…死にたいよ…。」
「ユウ…!て、てめ…ッ…!」
「もう…この身体も、この心も嫌なんだよ…。なんでこんなことしか考えられないんだよ…俺は…。」
ユウは迫島から目を背けて大粒の涙を流した。
「こうやって全部失うんだよ…信用も…夢も…友達も…抑えが効かないこの性欲のせいで…。せっかく手にしたヒデっていう親友でさえもこうやって傷付けちまう…。もう嫌なんだよ…。なぁ…ヒデ…許してとは言わないし言えないよ…だからもう気の済むまで殴ってくれよ…あわよくばもう殺してくれよ…。」
「君達?なぁにやってんの?迫島くん胸ぐら掴むとか物騒ですね。」
「…!お、尾田さん…。」
尾田の登場に迫島は少し怯んだが、未だその手をユウから離そうとはしない。
「迫島くん?手を離して下さい?」
「尾田さんは…尾田さんに…俺の気持ちなんかわかりませんよ!!」
迫島は精一杯の怒声を辺りに響かせた。
すると尾田はゆっくりと迫島の元へ近寄ると優しく微笑んだ。
ユウの心を鷲掴みにしたあの優しい微笑みだ。
「迫島くんの気持ちは正直わからないけど、暴力はいけないよ?ね?俺で良ければ話を聞くよ?さっきまであんなに息ピッタリだった新田くんの胸ぐらを掴むとかありえないでしょ?どうしたの?」
尾田は更に迫島へ近寄ると迫島の右手首をまるで野球グローブの様な右手でガシリと掴んだ。
「離しましょ?ね?迫島くん。」
「ヒゥッ!!」
「ウワッ!」
物凄い握力に驚き、迫島は悲鳴を上げてユウから手を離した。
そして迫島が離れた事でユウの目に尾田の恐ろしい目が飛び込んできた。余りの恐ろしさにユウも悲鳴を上げてその場から飛び退いた。
「3日後には君達はライブをやるんでしょ?こんなことしてちゃだめですよ。何があったかは僕は聞かないし聞く権利は無いけど、とりあえず暴力はやめて話し合いましょ?ね?」
「でも!尾田さん!こ、こ、こい、こいつ!」
迫島はまだ興奮が冷めない様だ。
「暴力で解決しようとすんのは人間じゃねえ。その辺の虫と変わらねえんだよ。虫でもちゃんとてめえの巣の中じゃ仲良くできんのによ。おい、こらガキぃ。お前は虫以下か?」
尾田の口調がまるで多重人格の様に変わると同時にライブハウスの中からの音がピタッと止み、辺りに不穏な静寂が訪れた。
そして迫島の興奮は一気に氷点下まで冷却され、その冷たさに震えが襲ってきた。
「あ、…あのあのあの…あののの…その…。」
迫島が何か弁解しようとしているが言葉にならない様子だ。
「ライブハウスの裏でこんな事やってたら通報されちゃってお店に迷惑かかるでしょ?ただでさえこういう場所って結構目の敵にされやすいんですから。しかも!君達は来月から新高校生。今問題起こしたらまずいでしょう。」
口調が戻った尾田が優しく迫島を諭し始めた。
・・・
「だから…」
「そもそも…」
「生物って…」
「すなわち…」
「極めて大事な…」
壁際に横並びで座ったユウと迫島は、延々と尾田から説教を受けていた。
人を見た目で判断していたユウは尾田の意外性に驚きを隠せなかった。
理論的だが、決して頭ごなしな言い方はしない。そして様々な角度から切り込んでくるので反論しずらい。しかも怒鳴り散らす様な事もせず、優しい言い方だ。
口調が変わった尾田は本当に別人の様だった。
ユウは尾田の顔色を伺いながら迫島の顔を横目でみた。
迫島の目は下を向き、歯がカチカチと鳴っている。
尾田という人間に完全に恐怖している様だった。
「…というわけ。わかりましたか?」
ようやく尾田の説教が終わった様だ。
「迫島くん。」
「は、はい。」
迫島はビクッと身体を反応させた。
「何があったかわかりませんけど…一方的に君に言ってしまって申し訳なかったですね。何か言う事はありますか?聞きますよ?」
「な、何にもありません。暴力を使ってねじ伏せ様とした事は事実ですから…。」
「そう。わかってくれたならいいですよ。本番までにしっかり2人で話し合う事。いいね?」
「は、はい…。」
「新田くんもだよ?」
「も、もちろんです…。」
「まったく、迫島くんは血の気が荒いなぁ…。」
尾田は煙草に火を点けるとその場から静かに立ち去った。
尾田が姿を消すとユウは立ち上がり、迫島へ話を切り出した。
「俺は…お前が…その…そんな気持ちだとは知らなかったんだ…。かと言ってヒデから見たら許される事じゃないんだろうけど…。それと俺はお前の先を行ってるなんて微塵も思っちゃいないよ。音楽の楽しさだってヒデが居なきゃ知る事なんてなかっただろうし、全てヒデに教わった事だ…。だからそんな風に考えるのはよすんだ…。」
ユウの言葉を最後まで聞いた迫島はノソリとゆっくり立ち上がって、ユウとは反対方向の雲がかかった月の方を向いた。
「はぁ…。好きだったんだよ…な…。浦野先生…。綺麗でさ、厳しいけど、優しいところもあって…。かわいいところもあってさ…触れたい…少しでもいいから触れたい…吐息だけでも感じたい…そんな…そんな思いだったんだ…俺は…。」
迫島はため息混じりに話始めた。
「励ましてくれたんだよ…。何にも無い俺を…音楽を頑張れってな…行き詰まったら何でも話においでってな…。音楽の事はわかんないけど、話はいくらでも聞くよって…。浦野先生が通り過ぎる…その残り香だけでも…俺は…俺は…」
ユウは心が八つ裂きにされる様な感覚に陥った。
逆の立場だったら果たして自分は正気でいられるかどうかもわからない。
吐息だけでも感じ取りたい、残り香だけでも感じ取りたい、そんな切ない恋心を持っている親友と呼べる人間を差し置いて、取り引きでその親友の想い人と身体の関係を持つとは自分という人間は悪魔そのものではなかろうかと激しい自責の念がユウを襲った。
『な、なんて苦しいんだ…なんて痛みだ…。人の心の痛みがこれ程苦しくて…痛いものだなんて…。でも…でも…でも…でも…。』
ユウは苦しむ自分の顔の下にもう一つの顔が表に出ようとしている事に気がついた。
親友が感じ取るだけで満足していた浦野の吐息の向こう側をユウは味わった。
親友が感じ取るだけで満足していた浦野の残り香を遥かに通り越して、足の裏から臀部、性器、胸元、脇の下まで浦野の全てにおける香りを堪能済みだ。
親友が知らない浦野の声、表情、身体の中の温もりをユウは知っている。
その事実と汚く淀みきった優越感がユウの裏側から襲ってきた。
『止めろ…勝手に笑っちまう…止めろ…勝手に…勝手に声が出ちまう!耐えろ!耐えるんだ!一体なんだ!?この…この感情は…!』
「グ…グフ…グフブブ…ブゥ…フシュウ……ケフ…」
ユウは歯を思い切り食いしばり耐えようとするが、歯の間から息と涎がはみ出て妙な音が辺りに響いてしまった。
「なんだ?ユウ…なんだよ!!何か言いたいのかよ!」
迫島はユウの異変にすぐに気が付き、問い詰めた。
「うわぁああああああっははぁ!!ヒデ!!ヒデ!殴れ!今すぐ殴ってくれ!!俺を殴ってくれえ!!早く!早く殴ってくれ!頼むよ!」
『笑いは誤魔化せたか!?ヒデは気がついてないか!?だ、大丈夫か!?殴られた方が絶対楽だ!も、もう耐えられない!!』
ユウは怒鳴り散らして笑いを誤魔化した。
誤魔化すというより迫島に救いを求めていた。
汚い自分を、悪魔の様な自分を、懲らしめてほしいと、ボロボロになるまで殴って戒めとしてほしいと懇願する様な気持ちで大声を上げたのだ。
「はぐぅっ!?えぶっ!」
迫島の右拳がユウの水月を僅かに外れた下腹に食い込んだ。
「ユウ…ごめん…お前が持ちかけた話じゃないんだもんな…。浦野先生みたいな人に身体使って取り引きを持ちかけられたら乗っちゃうのは当たり前だよな…。ごめんな…でもやっぱり悔しいし、悲しいよ…。だから一発だけ殴らせてもらったよ。ん!」
迫島は更に右拳をユウの腹にめり込ませた。
「エ゛フぅッ!!」
ユウはくの字に曲がった身体を更に曲げて苦悶の表情を浮かべた。
「ユウ…許してくれ…悪かった…。はぁ…失恋…て言うのかな…コレ…。まぁしょうがないな…たぶん俺なんて相手にされなかったろうし。あ〜あ!いいなぁ…。モテる奴は…ハハハ…。」
迫島は悲しそうに笑うとユウの下腹に食い込んだ右拳を抜き去った。
「ヒデ…謝らないで…グフ…ゲフ…なんならもっと殴ってくれよ…」
「殴らないよ。俺とお前はパートナーだ。違うか?」
「ヒデ…ごめん。謝らせてくれ…。」
ユウは膝を地に付けると間髪入れず額も地に付け、土下座の体勢を取った。
「止めろよ。ユウ。顔を上げて立つんだ。俺とユウはパートナーだろ?早く立てよ。立って一緒に尾田さんのところに行こう。きっと心配してる。」
「あぁ…ただ…もう少しこうやってさせといてくれ…。頼む…。」
「わかったよ…いいよ…ユウ。なぁユウ…お前も言ってくれよ。俺とパートナーだって。」
「あぁヒデ…。俺のパートナーはヒデ以外あり得ねえ…。」
地を向いたユウの顔と、そのユウを見下ろす迫島の顔は2人とも恐ろしいほどに醜く歪んだ笑みを携えていた。