down the river 第三章 第一部〜不浄④〜
浦野は不穏な気配に美しい顔を歪ませたまま婚約者とアパートの部屋と向かって行った。
「かわいいよなぁ…本当に…。でもよ、こんな古ぼけたアパートに婚約者連れ込んで大丈夫なんかな。可憐なお嬢様かなぁなんて思って付いて行ってこんなアパートだったら俺なら爆笑しちまうよ。」
ユウは煙草を消すと浦野のアパートの脇にある自動販売機へと向かった。
ユウはため息を1回つくと冷たい缶コーヒーを購入した。
「さと美を痛ぶってスッキリしようとしたんだけど婚約者様が来たならしょうがないよねぇ…。」
ユウはニヤニヤしながら独り言を言うと冷たい缶コーヒーを一気飲みした。
そして煙草を咥えると火を点けずにアパートの裏へと回った。
浦野のアパートの裏手には小高い丘がある。
その丘には地元の大手企業の団地が建っていて浦野のアパートを裏から見下ろす事が出来るのだ。
しかもおあつらえ向きにその団地は近々閉鎖が決定しており入居者はほとんどいない。
ユウは息を切らしながら浦野のアパートから1番近い団地の3階踊り場に登ると位置関係を確認した。
「ハハッ!マジかよ!見えるじゃん!ハハッ!よぉしよぉし…。」
ユウはいやらしい顔をして浦野の部屋を凝視した。
「さと美は窓開けてやるのが好きだもんな。ハハハ…。時間だけ決めとこう。あんまり遅いのもお母さんから怒られるしな。やらねえならやらねえでいいや。ゆっくり煙草でも吸うか。」
ユウは咥えていた煙草に火を点けてゆっくりと吸い込んだ。
陽は沈み、火照りに火照った身体は冷却され、ニコチンがユウに更なる落ち着きを与える。
「ふぅ…って俺なにやってんだか…。」
もう殆んど人が住んでいない団地の中、蜘蛛の巣とそれに引っ掛かった小さな羽虫達がフィルターとなり薄暗くなった照明にユウは軽い恐怖を覚え、身体の火照りは逆に冷えとなってユウを襲った。
そしてその冷えと静寂はユウの恐怖心を更に加速させていった。
「か、か、か…帰ろかな…ハハハ…バカバカしい。」
ユウは煙草を吸い終えると階段を降りようと振り返った。
「…。」
振り返ったその瞬間、ユウの耳の奥に微かに浦野の喘ぎ声が響いてきた。
「…!」
ユウは慌てて元の位置に戻り浦野の部屋を見ると、窓が開いている。
そしてその窓から一組の男女がもつれ合うのが見える。言うまでもなく浦野とその婚約者だ。
浦野は外へと顔を向け、後ろから婚約者が浦野の肩を抱き、首筋に唇を這わせている。
「マ、マジか…。こりゃ…ツイてる。もうちょい近くで見たいな。」
ユウの目的は達成され様としていた。
ユウは慌ててアパートの裏の斜面へと移動した。
窓から浦野の美しい半裸体が半分出ていて、後ろから差し込んでいる部屋の明かりがより妖艶さを際立たせている。
ユウとの距離は10m程度だ。
「う…うん…だぁめ、そんな悪戯したらぁ…首くすぐったいよぉ…」
ネチャネチャとした浦野の猫なで声が薄っすらとユウの耳に否応なしに入ってくる。
『え…ち、違う…え?違う…違うよ…?』
ユウの耳はすぐに違和感を覚えた。
何度も耳にしたユウとの情事における浦野の声ではない。
愛されている喜びに満ちた大人の女の声だ。
『さ、さと美だ…よな…』
ユウの目には間違いなく浦野の半裸体が見えている。そして薄っすらと見える顔も間違いなく浦野の顔だ。
「もぅ…意地悪しないで…焦らさないで…」
『さ、さ、さと美…。』
「さと美は悪い女だからお仕置きしてんの。まだまだ焦らしちゃう。」
婚約者の声は大きく、ユウにはしっかりと聞こえてくる。
「悪い女?どう、…ど、どうして?」
「若い若い思春期の男の子を虜にしちゃってるんだから。…さと美の✕✕✕が丸見えだ…相変わらずな匂いだね…フフ…」
「相変わらずってなによぉ…。あなただからこんなとこまで見せてるのよ?あなた以外見せた事無いのに…匂いなんか嗅いじゃだめ!そ、それに勝手に虜になってるおこちゃまなんて知らないわよぉ!!」
『あ…あ…さ、さ…さと美のどこだ?…あの婚約者はどこを触ってどこの匂いを嗅いでいる?俺が知らない匂いか…?…し、知らない…なんで…さ、さと美…さと美…。』
婚約者と愛し合う浦野は本当に幸せそうだ。
そして声色が本当に別人の様だ。
「ハァハァ…」
ユウは息を切らしているが欲情によるものではない。
『な、なんだ?この気持ちはなんだ?え?く、苦しくて、なん、な、なんか緊張してる様な…貧血みたいな…』
「あ…ん!ち、ちょっと!」
もたれ掛かっていた窓の柵から浦野は婚約者から引き剥がされるとユウの目が届かない部屋の中へ引きずり込まれた。
そして浦野と婚約者の2人は荒い息の中何かを呟き合うと、いよいよセックスが始まった。窓は開けっ放しになっており部屋の明かりも消していない。もはや角度によっては丸見え、角度は関係なく丸聞こえだ。
ユウの耳にも否応なしにその声は飛び込んでくる。
『なんだその絶叫は…今…何をされている?なぜそんなに幸せそうな声をしている?』
ユウはその場にうずくまってしまった。
『今…全てを見られてるんだ…さと美は…俺が見た事が無い、触った事が無い、見た事が無い…そんな身体のどこかと!表情を!』
「ハァハァハァハァ…ハァハァ…く、苦しい…。なんだこの胸の苦しみは…!」
ユウは自分の声が辺りに響いたことすら気が付いていない。
しゃがみ込み、地面についた尻が夜露で濡れていく。
その不快感すら今のユウには感じ取る余裕は残されていない。
「グギギギ…グググ…クシュ…」
ユウは口の端に白い唾液の泡を溜めて、歯ぎしりをした。そして頭の中は浦野の言葉で埋め尽くされる。
〜あなただからこんなとこまで見せてるのよ?あなた以外見せた事無いのに…〜
〜あなただからこんなとこまで見せてるのよ?あなた以外見せた事無いのに…〜
〜あなただからこんなとこまで見せてるのよ?あなた以外見せた事無いのに…〜
「グググ…!ぐあああああ!!!」
ユウの絶叫が響き渡った。
ユウは濡れた尻を上げると斜面を一気に駆け下りた。
「ぐああ!うぉわぁああ!!」
ユウは首を左右に見苦しく振り、駅を目指して不格好に走り始めた。
自転車が停めてある駅前の駐輪場まで徒歩であれば10分弱だ。
「ハァハァ!さ、さと美が!さと美の!さと美ぃ!何で!こんなに!辛くて悲しいんだ!!」
ユウの目から滝の様に涙が溢れている。
「あいつに…あいつに…見られてる!さと美の…さと美の…俺しか見ていないはずのモノを!」
ユウが不格好に走るその道には居酒屋客が溢れ始めている。
ユウの見苦しいその姿に後ろ指を指している者もいる。
「俺しか…」
頭の中では理解していた。
ユウの心の中では理解していた。
自分のものではない、自分だけの女じゃない、自分が全ての女じゃないということはしっかりとケジメを付けていたつもりになっていた。
しかし実際目の当たりにしたその衝撃と胸の痛みはユウの想像を遥かに超えていた。
「グッふぁあああ…ヒグッ…あああ…うああぁ…」
辿り着いた駅前駐輪場の、いつも自分の自転車を停めている2階の端でユウは座り込み、泣き崩れた。
『こ、こんなに…苦しかったなんて…。こんなに…痛かったなんて…。こんなに悲しかったなんて…。さと美は俺のモノじゃない…わかってたのに…。』
ユウは性というものを達観したつもりになっていた。
そして性と感情の連動は無いものだと思い込んでいた。
皆セックスという行為が何の感情も持たずに出来る事だと思っていのだ。
『セックスをする…身体を好きになる…それと人そのものを好きになる…違うと思っていた…苦しい…胸が破裂しそうだ…。』
「うはぁ…うぅ…うぅ…。」
ユウは座り込んだまま宙を見上げた。
「ヒデ…こんなに…こんなに…ヒグッ…お前はこんな痛みに…耐えていたのか…。そして…タカちゃん…どんな思いで…俺が哲哉に犯されて、友原と弓下に…目の前で犯されているのを見ていたんだよ…」
ユウは肺を掴み出される様な、激しい不快感の中でもがき苦しみながら絞り出す様な声で呟いた。
「ヒ…ヒデ…ごめん…本当にごめん…タカちゃん…も…ご、ごめんよぉ…。」