down the river 第三章 第一部〜不浄①〜
自分が住んでいる地域で共に育ち、地域の学校に共に通う事になる小中学校とは違い、高校はまるで別世界だ。
中学校ですっかり孤独に慣れたつもりであったユウも、高校での孤独に格の違いを見せつけられていた。
中学校で孤独に慣れたとはいえ、話した事は無いが見た事はある人間、以前話していた人間、すっかり口を聞かなくなった幼馴染み等、辺りを見回してみると知っている顔はたくさんそこにあるのだ。
いざとなれば話ができる人間も、敬人と迫島もいた。
身体の関係を結んだ幼馴染みと、音楽という絆で結ばれた友人だ。強固な絆で結ばれた友人が2人も存在していたわけである。
そんな甘やかされ、恵まれた孤独と言えるかどうかも怪しい環境に慣れたつもりになっていても、高校での真の孤独には通用しない。
『なぁんでこんな所に来ちまったんだろね、俺は…。まさかこんな孤独になっちまうとは…。とと…授業のペースが速いんだよ。ちょっと待て…えぇと…』
孤独に浸る暇を与えてくれないハイペースでハイレベルな授業はむしろ今のユウはありがたい事なのかもしれない。
休み時間になってもユウは自席でぼんやりと過ごしている。
同じ中学校だった人間同士や部活の関係、塾で一緒だった人間など関係のある者同士がグループを作って話をしているので当然ユウは1人になる。
『女…女と話してないなぁ…。ライブ前に浦野先生にアパートで会ったのが最後?女の人と話したのアレが最後か?マジかぁ…。中学校の1年生の時とか女子から話しかけてきてたのにな。なんとまぁ寂しい高校生活なんだろう。』
高校1年生1学期も半分が過ぎようとしているこの時期、既にクラスでは階級の様なモノが作られつつある。
進学校だけあって不良と呼ばれる人間は存在しないが、やはり要領良く渡り歩いてきた様な根が不真面目な人間は存在する。その様な人間は決まって明るく、話しやすく、人との関わり合いが上手い。
当然女子は話しやすい人間へと流れていくし、男子も楽しい人間と関わりたいと思うのが自然である。
やはり頭の良い人間、明るく楽しい人間、身体能力がずば抜けている人間の3種はどの世界に於いても注目を集め、人がそこに集まってくるものだ。
『はぁ…無理してこんな進学校来なきゃ良かったかな…。いい男もいないし…いい女もいないし…。って考えは何も変わってないな俺。ハハハ。浦野先生…もう、もう会いたいよ…。タカちゃん…。ヒデ…。なんでここにいないんだよ…。』
初めてのライブで、あれ程の実力を見せ、観客を魅了する歌声を披露した人間とは思えないほどユウは女々しく情けない微笑みを浮かべ、下を向いていた。
昼休みになってもその顔は変わらない。
購買に行き、いつもの甘い菓子パンを1つ口に放り込んで紙パックの烏龍茶で流し込む。その時間僅か10分無い程度だ。
ユウは敬人という幼馴染みがいかに自分の交友関係を広げてくれていたかをユウは毎日昼休み、この烏龍茶が喉元を通り過ぎる度に痛感する。
そして敬人がいない場所で交友関係をまるで構築出来ない自分の無力さを毎日教えられてしまうのだ。
『煙草…煙草吸いてぇな。ま、でも今日は我慢すっかな。』
そう心の中で呟くと机に突っ伏して眠りこけた。
午後の微睡みの中、何やら一際大きな話し声が聞こえてきた。
「あの子…」
「そうだよ…」
「あれが…」
「あそこで…」
「そうそう…」
『っるせぇなぁ…』
近い。その声は段々と近づいて来ている。
だが語尾は雑踏に圧縮されて未だよく聞こえない。
「瀧本さん…」
『瀧本?瀧本って…あら?瀧本だと?』
「やっぱそうだよ…」
その声と同時にユウは肩を突かれる感触がして面倒臭そうにゆっくりと顔を起こした。
『もう…何だよ…。うぉ!?お、女?女ぁ!?』
ユウの視線の先には大人びた女子2人が立っていた。
「へ?えぇと?な、な、な、なんでしょう?…か?え?」
ユウは慌てて上体ごと起こすと手を膝に置き、背筋を伸ばし、面接さながらの姿勢になってしまった。すると2人の内、毛量が少なくストレートパーマを当てたかの様に真っ直ぐな黒髪ロングの女子が口火を切った。
「あ、ごめんね?起こしちゃって。私達2年なんだけど迫島秀徳って子のバンドで歌っていたよね?ベース弾きながら。」
ユウは椅子をガタンと鳴らしその場で跳ね上がった。
「な、な、なな!な、なんでそりぇを!?」
「アハハ!凄い反応!ウケる!」
ショートヘアで美しい艶のある黒髪の女子が大笑いをしている。
その反応にユウが少しムッとしていると黒髪ロングの女子がなだめてきた。
「ちょっと、そんなに笑わないの。いくら後輩だからって失礼でしょ?ごめんね?瀧本さんって知ってるでしょ?瀧本さんのライブ観に行った時だよ。君を見たのは。すんごい世界に入り込んでてさ。見入っちゃったよ。」
「…そりゃ恥ずかしいとこ見られちゃいましたね。タハハ…。」
「恥ずかしいなんてもんじゃないよ!凄い良かったよ!ね!百合子!」
「真理、声でかい。うるさいよ。1年生びっくりしちゃうでしょ。でもホント良かったよ?」
百合子と呼ばれている女子は黒髪ロングで身長はユウより若干低い程度で女子の中では背は高い方だ。痩せ過ぎな印象だが血色も良く健康そうに見える。気使い屋で大人しそうな喋り方で、おっとり美人といった、いかにも進学校の女子生徒といった風貌だ。
百合子と対象的に真理と呼ばれている女子はショートヘアで本当に美しく艶やかな黒髪だ。その黒髪は喋っているだけでもリズム良く揺れる程軽く、真っ直ぐ下に伸びている。大きな声を注意される程元気一杯な印象が先立つがその実、かなりの美形であり、その色気は高校2年生のレベルではない。身長は低めで痩せ過ぎでも太り過ぎでもない健康的な体型だ。
「は、はぁ…そりゃ、ありがとうございます…。」
「またなんかライブ出るの?」
真理が顔を近づけてきた。
かなり近い距離だ。
「い、いえ、そんな、よ、よ、予定は、あり、ありません。です…。」
「そっか、残念だなぁ。でも、瀧本さんからその内声かかると思うよ?瀧本さんすんごい君の事気に入ってたからね。」
「は、はぁ…そう…スか…。」
「ちょっとぉ、ホントにあの時歌ってた人?新田くんだっけ?なんか別人みたい。」
真理は顔を近づけたまま喋り続ける。
その口から出た真理の小さな小さな唾液の粒子がユウの上唇にかかった。
そしてその唾液の匂いがユウを刺激する。
ユウはこの唾液の匂いが大好きだ。
『こんな美人でも…唾液の匂いは平等だな…。臭い…臭いけどいい匂い…。浦野先生もタカちゃんも友原も弓下も…て、て…哲哉もだ…。平等な匂い…。出てくる場所が違うだけなのに…なんでこうも愛おしさが違うんだろな…。』
「ねぇってば!!」
「うわぁ!!すいませんス!!」
「真理!うるさい!止めなさい!」
真理の返事を催促する声、それに驚くユウの声、そして真理を叱責する百合子の声がリズム良く教室に響き渡った。
そして教室中の生徒は当然3人に目をやる。
「百合子…ご、ごめん…。怒んないでよ…。新田くんが相手してくんないから…つい…。」
真理はしょぼくれた顔で下を向いた。
すると百合子はニッコリ笑い真理の頭を撫でるとユウの方を向き頭を下げた。
「新田くん、ごめんね?1年生に似てる人がいるなぁと思ってたの。瀧本さんに話聞いたらやっぱり新田くんだって。つい押しかけちゃった。」
「あ、いえ、僕は別に…。」
「またライブやんなよ。観に行くよ?いつやんのか、やる予定があるのか、それだけ聞きたかったのごめんね、起こしちゃって。」
立ち直りが早い真理がセリフを被せてくる。
「んじゃ、まったね。」
「新田くん、また。」
「は、はぁ…どうも…。」
嵐の様に来て嵐の様に2人は去った。
そして何事も無かった様に再び教室内がざわめき始めた。
そしてユウに構うことなく昼休みの時間はいつも通り流れていく。
何が起きたか、何故2年生がユウに声をかけたのか、歌っていたとはどういうことか、瀧本から声がかかるとはどういう意味か、きっと教室内の誰もが気になり、誰もが知りたいことだろう。
しかし新田優というクラス内では相手にされていない様な人間に対して興味を持つというのはプライドの高い連中からしたらとんでもない屈辱だ。
だから興味を持っている事をひた隠し、平常心を装い、今までしていたことを淡々と続けている。
その様子はユウの目に、とてつもなく気味悪く写った。
『気持ち悪っ。なんだこいつら。チラチラ見てんのに全然関係無い話を淡々と続けてやがる。うわぁ…これかなり気持ち悪いな。まぁでも今来た先輩達の言うことも確かかな。よくわかんないけど凄い評価が良かったって尾田さんも言ってたし。熱が冷めねえうちにライブやった方がいいか。ヒデに言ってみようかな。スケジュールはヒデに任せてるし。』
色々と考えを巡らせている内にユウは再び眠りの世界へと落ちていった。
・・・
放課後、ユウは自宅からの最寄り駅前の駐輪場にいた。
駐輪場の隅で紫煙を上げながら下り列車の到着を待っていた。
迫島の到着を待っているのだ。
「ふぅ…やべ。頭クラクラする…。」
何しろ12時間ぶりにニコチン、タール、一酸化炭素を身体に入れたのだ。おまけに慣れない進学校での生活はストレスが蓄積される。煙草が異常に美味く感じてついついハイペースでその煙を吸い込んでしまう。
頭がクラクラしてしまうのは当たり前の事かもしれない。
「何だか久しぶりに女の人と喋ったなぁ…真理さん…か…。すんごい美人…。」
真理の顔を思い浮かべていると下りの列車が到着することを伝えるアナウンスがホームに流れ始めた。
ユウの自宅からの最寄り駅は田舎の小さな駅だ。
ホームのアナウンスは駐輪場から離れた位置でも聞こえてくるくらい周囲には何も建物が無い。
「ヒデ…来るかな。」
ユウは煙草を消すとノロノロと駅の階段下へと歩いていった。
列車が到着して2〜3分後、階段から人の波が押し寄せて来た。
頭髪が薄くなったスーツを着たサラリーマン、スカートが極端に短く、ルーズソックスを履いた女子高校生、私立のお洒落な制服を着た小学生、人間模様は様々だ。
そして中学校の時に話した事は無いが見た事がある程度の同級生も男女両方何人か見受けられた。
目が合ったところで当然話しかけてこないし、ユウから話しかける事もない。
『この中に何人いるんだろ。俺みたいに普通じゃない奴って。普通…か…。普通…普通ってなんだろう…。わからない…わからないけど、俺は普通じゃないってことはわかる。』
集団の先頭を歩いている頭髪が薄いスーツを着たサラリーマンがユウの横を通り過ぎた時、集団の最後尾に迫島が気怠そうに歩いてきた。
「来たぞ。来た来た。」
迫島と目が合ったユウは右手を大きく振った。
ユウと合った迫島の目はどこか虚ろだった。
ユウの顔面を貫通したその先を見つめている様な、ユウがまるで透けているかの様な目つきをして、迫島は笑っていない笑顔をユウへ放ちながら駅の階段を下って来た。
※登場人物紹介
天澤百合子 (アマサワユリコ)
ユウの通うS高校の2年生。ストレートパーマを当てた様に真っ直ぐで美しい黒髪のロングヘアー。女子の中では背は高い方でかなりの細身。モデルの様な体型である。見るからに優しそうで大人しそうな知的美人。
大人しそうではあるが元気印の真理を制する程の迫力を放つ時もある。
犬塚真理 (イヌツカマリ)
ユウの通うS高校の2年生。百合子の友人と思われる。刈り上げの様なショートヘアで、百合子と同じか、それ以上に美しい黒髪である。喋っているだけでも踊る様な軽やかさで、とても艶やかな髪質だ。
元気が取り柄の様だがかなりの美形であり、高校生らしからぬ色気を醸し出している。痩せ過ぎでも太り過ぎでもなく健康的な体型。