down the river 第三章 第一部〜不浄⑨〜
「瀧本さん、俺、Blue bowに入りたいです。でもヒデ…迫島と話をしないと。」
ユウは真剣な眼差しで瀧本を見つめ、その気持ちを伝えた。
「うん、早目に返事をくれよ。」
「瀧本さんの力になりたいです。真面目にそう思ってます。」
「嬉しいよ。フフッ、返事待ってるよ。じゃあね。」
「はい。」
瀧本はその場を去った。
その場に残されたユウは何かを心に決めた様な、どこか晴々した表情で廊下の奥に消えていく瀧本の背中を見つめていた。
・・・
「うおぉ…煙草が吸いてぇ…。とりあえず駐輪場行こっと。」
ユウは帰りの電車から降りると小走りで駅前の駐輪場へと向かった。
途中自動販売機で冷たい缶コーヒーを購入し終えると、小走りから本気の走りに切り替えて駐輪場の2階へと向かった。
「ハァハァ…さて…と…。」
ユウはパキッと軽快な音を響かせ缶コーヒーを開けてひと口喉に流し込んだ。
そして缶から口を離すと、満足げに微笑み、煙草に火を点けた。
「ぶっはぁああ…生き返る…。ふぅ…何だか…色々分かってきた。瀧本さんの話でかなり色んな事がわかってきた。うん。俺の後悔は誰かを救える。そうだ。それでいいんだよ。後悔は…伝えていくものだ。そして本気の謝罪は本気の後悔を生む。本気の後悔は必ず自分の、人の、皆の役に立つ。その通りだ。つまり…だから人間は失敗して、後悔していい。」
今日のユウが吐き出す独り言はボリュームが大きい。
いかに興奮しているかがわかる。
「早く、早くヒデに謝りたい。」
ユウは缶コーヒーを飲み干し、煙草を消すと駅の階段下へと移動した。
後数分でいつも迫島が乗って帰ってくる電車が到着する。
ユウは興奮の最中、迷いが湧きつつあった。
現在のユウは色々な事が分かり、瀧本のバンドにスカウトされ、良い意味で不安定な精神状態だ。
果たしてこの状態で上手く謝罪が出来るのか、瀧本が言うところの輝ける綺麗な謝罪が出来るのか、そして心からの謝罪というものを綺麗に輝かせていいものなのだろうかと、迫島に会うであろう数分前になり湧いてくる迷いにユウは軽い頭痛を覚えながら時を待った。
「後悔はしてもいい…か…。悔いが無ければ…今の世は無い…。悔いか…。」
ユウは独り言から心の中の独り言に切り替えた。
にわかに人通りが多くなってきたからだ。
『真理さん…真理さんにも謝らなきゃな…。でも…あの表情…。』
ユウは怒鳴り付けた時の真理の表情を思い返した。
浦野どころではない、天性とも言うべき色気だ。
造形美、様式美と形容できる浦野の色気とは違い、真理の色気は自然美、天然の黄金比率と形容できるものだ。
『真理さん…。』
ユウは男性の象徴をピクつかせて、僅かに息を乱し、その手を添えようとしたその瞬間、駅のホームでアナウンスが流れた。
いつも迫島が乗って帰ってくる電車が間もなく到着する。
『ヒデ…。』
電車が到着して1分後、いつも集団の先頭を歩いてくる頭の薄いサラリーマンが階段を降りてくるのがユウの目に飛び込んできた。
『このハゲが通り過ぎたくらいにヒデが階段の上に…あ、来た。ヒ、ヒデ?は?』
迫島が階段の頂上に見えた。
そしてその姿はユウの知っている迫島とは大きくかけ離れたものだった。
迫島はげっそりとやつれ、遠目でわかる程に顔色が悪い。
迫島はユウの姿に気が付いた。
しかしその表情は変わらない。
「ヒデ…。」
「ユウ…どうした?俺から連絡するから待っててくれと言ったはずだが?」
「ヒデ…少しだけ付き合ってくれよ。」
ユウは煙草を吸う仕草をオーバーにしてみせた。
「まともに話しできないかもしれねえよ?それでもいいのか?ユウ。」
「構わないよ。少しだけだ。橋の下まで行かなくてもいい。そこ、そこだよ、駐輪場2階でいい。少しだけ時間をくれ。」
「ユウ…なんか、何かを決心したみたいだな。そしてそれを俺に伝えに来た。そんな顔してるぜ。違うか?」
「…。」
「まぁいい。俺もそんなにゆっくりできる訳じゃない。行こう。」
「あぁ。」
『ヒデは何もかもお見通しか…。でもこのままじゃだめだよ。』
駐輪場の2階に移動した2人は煙草を吸うわけでもなくお互い向かい合い、真っ直ぐに見つめ合っている。
「ヒデ、お前も色々と考えたんだろうけど、俺も色々考えてみたんだよ。」
5分以上見つめ合ったまま沈黙が続いていたが、耐え切れなくなって口火を切ったのはユウだった。
迫島は何も答えてこない。
「ヒデ、すまなかった。」
「何がだ?何に対して?」
「さ、…浦野先生の事だ…。俺はヒデの痛みを知ったんだ。」
迫島は黙って眉毛を曲げ、眉間にしわを寄せた。
「婚約者と一緒にいる浦野先生を見たんだよ。幸せそうにしてた…。その時胸が張り裂けそうになって、頭をどっかに打ち付けて死にたい衝動に駆られた。手をつなぎ…いやらしく…キスをしてる2人を…見て…思っ…あ、あれ?」
ユウの目から滝の様に涙が溢れてくる。
感情や、力では止められない。
そしてユウの頭の中にはあの映像と声が流れ始めた。
本当に愛する男と喜びの声を上げて、その全てをさらけ出し、ユウが見た事の無いどこかをじっくりと観察され、恥じらいとときめきの表情を浮かべたあの時の浦野が鮮明に思い出された。
「ヒデ…こんなに辛かったなんて…こんなに悲しかったなんて…俺は…俺が…バカだった…。」
迫島は何とも言えない不機嫌な顔でユウを見つめている。
そして、しばらくの沈黙の後迫島は重く閉ざしたその口を開いた。
「ユウ、そしてお前への怒り以上に今、俺は浦野先生を憎んでいる。なんだ?あの女は…。」
「ヒデ…。」
「何事も無かった様に幸せそうに婚約者と…か…。女はこれだから…。ハァ…。」
「ヒデ…余計な事を言ってしまったかもしれない。悪かった。でもそれで俺は痛みを知った…お前の味わった痛みのほんの一部かもしれないけど…。」
「煙草くれよ、ユウ。」
「あ、あぁホラ。」
迫島の表情は変わらない。
迫島はユウから渡された煙草を一本咥えた。
するとユウは阿吽の呼吸で迫島が咥えた煙草にライターで火を点けた。
「悪いな。ユウ。」
「いや、構わないよ。煙草一本くらい。」
「あぁ、俺の悪いなって言葉にはもう1個意味があってな。」
「え?」
ユウは迫島が何を言い出すかは既に予想がついていた。
『もう?もう言うのか?待て…。ヒデ…お前が俺から去るんじゃない。俺がお前から去るんだ。勝手に先を行くんじゃ…』
「ユウ、やはり俺はお前とこれ以上音楽という共同作業は出来ない。もう少し…もう少し…考えてみようと思っていたんだけど…今日、お前の顔を見て、話して、…その…分かったよ。お前とはただの友人でいたい。それでいいか?」
「勝手に先に行くなよ。ヒデ…俺もお前とはやっていけない。友人…?お前俺と友人でいいのか?それでいいのか?」
迫島は思い切り眉毛を捻じ曲げ、ユウを睨み付けた。
「どういう意味だ。ユウ。返答次第じゃただじゃおかねえぞ?」
「お前に借りていたベースは明日ヒデん家に届けておくよ。本当にありがとう。」
「…音楽止めるのか?」
「違うよ。ヒデ、お前とのコンビは解消。それだけだよ。だから借りたモンはキチンと返すんだよ。ヒデ、俺はBlue bowに加入する。」
「は?」
「瀧本さんから直接スカウトされた。」
「ぶ、ば、バカな…。ユウ…お前…。」
「ヒデ、俺を音楽の道に誘ってくれて本当にありがとうよ。」
ユウは煙草を咥えると、おもむろに火を点けた。
「ふぅ…。ヒデ。どうだ?お前の想い人を奪い、先を越してしまった人間と友達でいられるか?」
「ユウ、そういう事かよ…。要するに見下してるわけだな?この俺を。」
迫島は険しい顔をして拳を握り込んでいる。
「ユウ、逆に聞くけど、俺がそれでもいいと言ったらどうなんだ?お前は友人でいられるのか?」
「いられるよ。もちろんだ。」
迫島はユウの即答を聞いて深いため息をついた。
「ユウ、失せろ。ベースはくれてやる。だいぶ前に通販で買った安物だ。捨てようと思ってたところなんだ。」
「ヒデ、ライブハウスで会おう。」
「うるさい。消えろ。ユウ。二度とツラ見せるな。」
迫島はそう言うとユウに背中を向けて、歩き始めた。
「ヒデ、今までありがとう。今度会う時は俺はBlue bowのベーシストだ。」
ユウの言葉に迫島はピタリと足を止めた。
「ヒデ、本当にあり…」
「ユウ、最後のアドバイスだ。今のお前に俺が何か言ったところで負け惜しみにしか聞こえないだろうけどね。調子に乗るな。以上だ。」
迫島はユウに背中を向けたまま、怒りを抑え込んだ様な口調で最後のアドバイスを吐き捨てるとゆっくりとその場を去って行った。
そしてユウの視界から迫島が完全に消えるとユウはニヤリと笑い、最低の捨て台詞を吐き捨てた。
「ヒデ、すまんな。負け惜しみにしか聞こえねえよ。観に来てくれよ。Blue bowのライブをさ。ハハハ!」
ユウは公衆電話へ向かうと、慣れた手つきで番号を打ち何事かを呟いた。
そしてユウは嫌な微笑みを浮かべて、どこかへと消えて行くのだった。