見出し画像

人に頼る、という力

どうも、すちです。

入院生活を終え、家での生活が始まった。

仕事はしなければならないし、生活のためにあれこれ家事もしなければならない。しかも、身体は痛みを訴え続け、両手で自由に物を運ぶこともできない。さらに、重たい物なんかは絶対に運べないという制限を受ける。となると、お米を精米するのも当然難しくなる。しかし、近所の人なんかにちょっと精米を…なんてお願いはなかなか頼みにくいと思ってしまう。

これはあくまで一例だが、人に何かを頼む、というのはこんなパラメータの組み合わせで難易度が決まってくると思う。

・頼む内容の重要度
・頼む時のこちらの緊急度
・頼む相手との関係性

例えば、こちらがとっても困っていて、相手も理解してくれるような重要度の高いお願い事の場合、頼む相手との関係性が少し遠かったとしても頼みゴトが比較的しやすい。一方、こちらがとっても困っていても、その内容が精米となると、頼む相手との距離がよっぽど近くないと頼みづらいと感じてしまう。

この時、頼む内容の重要度は、頼む側と受け手側で同じように捉えられるのかどうか?が重要なポイントである。仮に頼まれる側が、頼む側の状況を想像し、共感し、なんとかしてやりたい!と思ってくれている時には、仮に米の精米であろうが、それは大ごと!と力を貸してくれるだろう。
逆に、頼む側がたかだか米の精米なんて頼むの少し気がひけるよなぁ…なんてコトを考えてしまうのであれば、そもそも頼み事が発生せず、何のやり取りも始まらない。

何事もお金で解決してきた現代人は、お金を払ってサービスを受けることには慣れているが、こういったお金を介さないやり取りに慣れておらず、頼るのが下手くそなのだろうと思う。普段から持ちつ持たれつの関係になっている相手とであれば、ちょっとこれお願いしたいんだが〜なんてフランクなお願いもできたりするのだろうが、その関係性ができていない相手に対して、こちらの都合で突然そんなお願いをするのもいかがなものかと躊躇してしまうわけだ。

こういった頼み事をしたくても、いやそんな人様に迷惑をかけて良いのだろうか、なんて思考に打ち勝てず、そのまま孤独死してしまう人もいると聞く。そう考えると、この悩みというのは思っているよりも深刻なのではないか?と思えてくる。

何かちょっと困った時に,少し頼むのを躊躇してしまうようなしょうもない頼み事をしたいと思った時に、それを軽やかにできるかどうかは、それまでの間に周りの人たちとどれくらい持ちつ持たれつしてきたか、なのだと思う。それは自分が近くに住んでいる人たちとコミュニティを築けているか?ということなんだと思う。

相手がその頼み事を受け取る気満々グローブを構えて守備についている状態。しかも、あたりの良いライナーでもなく、ただのぼてぼてのゴロすらも何の迷いもなく拾い、捌き、頼られたことに喜びすら感じてくれる。仮にそんな相手がいるとしたら、そこにぼてぼてのゴロを転がすコトをためらって勝手に困り続けるのは、困っている人の頼る力、言い換えると相手との信頼関係?人間関係?を信じる力が欠けているのだと思う。

周りの人たちと人間関係を築くことも大事。でも、それをきちんと信じて困った時に頼る力も大事だなと、思う。

人間関係をさらに強めるのは、困った時にしっかりと頼り、助けてもらい、感謝して、それをまた別の形で返すこと。その恩送りの繰り返しが人間関係を強めていくのだと思う。

自分がこれまでに築いた人間関係を信じ、ちょっと躊躇ってしまうことでも頼ってみようかな、そんな風に思った鎖骨骨折療養生活。

とにかくいま、米の精米で困っている!


では、また明日〜

いいなと思ったら応援しよう!