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目的と手段と、偶然と。

RICOH GR IIIx , 絞り優先AE f5.6 , 1/50sec , -2.0EV , ISO800(オート)

※文末に追記があります

以前も書いた気がしますが、ショーウィンドウなど、ガラス越しに何かを撮るというのが好きなのです。

ショーウィンドウはプロフェッショナルがディスプレイしたものが美しいと感じるというのもありますが、ガラス越しというのも大きな理由の1つです。それは、何かが偶然映り込むという楽しさがあるからです。

この写真は、図書館に併設されている防音室で開かれていたピアノ教室のカットなのですが、書架が映り込んでいて意外な仕上がりになりました。

デジタルとはいえ、ファインダーやカメラの液晶では見えていなかったもの、主題として考えていた以外のものが写っているのを発見するのは楽しいと感じます。彩度や明度を少しずつ調整していくと思わぬものが見えてくるというのは、赤黒いセーフライトに照らされた暗室で焼き込みをしたり、覆い焼きをしながら試行錯誤をしていたアナログ銀塩プリントの頃と共通する楽しみがあるような気がします。

偶然の産物や出会いを楽しみ、それを活かしていくというのは、人間関係だったり社会運動だったりでも同じだと思うのです。

ここ1週間ぐらい、正直とても落ち込んでいます。とあるネット上の公開の場で社会問題について語らせていただく機会を頂いたのですが、とても攻撃的な反応を頂いてしまったのです。

その場を作って下さった方からも、聴いていた多くの方からも間違っていなかったのではないかと温かい声をかけていただきました。自分の語りが足りなかったのだろう、言葉の選び方が不適切だったのかもしれない、と反省する点も沢山あります。

ただ、そこで語らせて頂いた内容に対して、私の属性で敵認定されるというのはとても悲しいことです。私のような属性の人間がその社会問題について語るということ自体が気に入らないという反応でした。

その社会問題というのは、背負っている属性で社会的な役割分担を押しつけるのはやめよう、属性で差別するのはやめようという運動なのだと私は理解しています。その運動にはとても共感していて、勉強会に参加して色々な方のお話を聞いたり、たくさんの本を読んだり、映画を見ているつもりでいます。

でも、私は自分が背負っている属性で批判を受けたと受け止めましたし、実際のその属性のことを名指して、そういう属性を持っている人間は議論の場から退場しろと言われてしまいました。

その攻撃的な言葉を投げかけてきた人は、同じ属性を持っている人たちで集まりたいだけなのではないか、社会問題を解決したいのではなく、運動そのものが目的になったりしていないだろうかと。あくまでも、正体が分からない"その人"に限った話ですが。

落ち込んでいるので、かなりネガティブになっていて、"○○フッド"という言葉自体が分からなくなっています。その運動をしている人たちが忌み嫌う、そして私も大嫌いな”ホモソーシャル”という言葉と変わらない使われ方をしているケースがあるのではないかと。温かい言葉のはずが、排他的な目的で使われることのないことを願っています。

追記:友人から「酷く傷ついた経験を重ねた結果、そういう行動を取らざるを得ない人もいるのではないか」という趣旨の指摘を受けました。そうかもしれません。少々私の視野が狭くなっている気がします。(2022-11-27 16:45)

テレビの報道番組の定点観測を趣味とする写真好き。酢豚にもピザにもパイナップルを許容します。

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