「宇宙意識で生きる」という覚悟
きょう、秋分。
ああ、涼しい…!
長かった2024年の夏が終わり、ようやくホッとできた感じがする。太陽が本気を出しすぎていた夏の間は、このnoteもまったく更新できていなかった。
久しぶりにnoteを開いたのが、つい数日前のこと。私の過去について取材を受ける機会があり、その時に前回の記事(三ヶ月前)を読んでみた。
あれ?
なんか違うぞ。けっこう違う。
これを書いたのは本当に私かと疑うほど、自分でも妙な違和感があることに気づいた。
暮らしとしては、同じ延長線上にある。基本的には子どものお世話を中心に過ぎていく毎日。暑い暑いとぼやきつつも、一歳になった子の成長ぶりを見守りながら、たまに滝のガイドをしたり、ホロスコープのセッションをしたり…
なのに、前回のnoteは、我ながら時間感覚としてすごく「遠い」し、決定的に中身が「変わった」という感じがした。たった三ヶ月のことのはずだけど。
何がどう、変わったのか?
そう問われても、すぐには答えられそうもない。でも、それは自分自身が知りたいことでもある。言葉を綴っていくことで何か答えが導かれてくるかもしれないので、まずはとりあえず書き始めてみることにした。
(書き終わってみたら、けっこう大事な決意表明のnoteになりました)
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アップデート完了の感覚
前回のnoteでは、このように書いている。
文中の「OSのアップデート」は、この時点で完了していたわけではなく、そこからがむしろ本番だった気がする。春からのアップデートの詳細をnoteにまとめないうちに、夏の間にどんどん更新が続いた。そして、気づかないうちに静かに完了していたようだ。
いま振り返ってみて、このアップデートがどんなものだったかというと、一言で表すなら「パズルが解けた」というのが一番しっくりくる気がする。
私はこの人生をずっと「ゲーム」だと思ってきている。そのゲームの設定画面にロックがかかっていて見られなかった状態だったのが、パズルを解いてステージをクリアしたことで「ロック解除」されたという感じだ。
そもそもこの世界は何を目的としたゲームで、私はどんなプレイヤーだったのか。
宇宙と私、魂、世界の仕組みの「全体像」について、ようやくざっくり納得できたのだ。
どんなパズルや謎解きゲームも、解いてしまうとわりとあっけないものだったりするが、そんなあっけなさの感覚がいまの私にもある。臨死体験のような劇的なイベントがあったわけではなく、雷に打たれたような衝撃もない。自分でもパズルが解けていたことに気づかなかったくらいだから。
とはいえ、パズルが解ける前と後では、確かに見える景色が違っている。
前回のnoteは「前」だった。
いま、私は「後」の世界にいる。不思議。
一瞥体験の積み重ね
ここまでのnoteは、過去のスピリチュアル体験の話を主に書いてきている。
それは、もともとnoteをはじめた動機が「自分のスピリチュアルな部分を開示していないのが気持ち悪い!」というものだったから。
宗教に反発した幼少期の話、滝に出会った頃のこと、坐禅修行をしたこと、レイキを習得したこと、スピリチュアルスクールで学んだこと…
世界の真理を垣間見ることをスピリチュアルの世界では「一瞥体験」というらしい。これまでのnoteの記事は、私の過去の一瞥体験をまとめていたものだったとも言える。
実際、どのプロセスも必要不可欠だったと思えるし、おかげでゆるやかに人生は楽に、軽くなっていった。特に、2019年からはそれが加速し、移住、出産、新しい仕事…と流れがつくられ、魂の望む「本来の道」に還ってきたという手応えを感じられていた。
それで十分でしょと言われれば、そうだと思う。ただ、私の場合、まだどこかで中途半端な感覚が残っていた。
この世界のゲームの全体像について、まだ腑に落ちていなかったから。
「一瞥体験」とはその言葉通り、ゲームにおけるヒントであり、人生をあるべき方向に導いてもくれたのだけど、仕組みを芯から理解するには部分的すぎるのかもしれない。日常に戻れば、また次第に霧がかかってくる。夢から醒めて「あれ、この鍵、何に使うんだっけ?」と、謎の鍵だけが手元に残されているような状態だった。
真実を知りたいからといって、やみくもに外に情報を取りにいくのも違う気がした。スピリチュアルにまつわる情報は本当に玉石混交なので、かえって混乱してしまうから。
もう少しで解けそうなのに、惜しいな。
焦るほどではないにせよ、微妙なもどかしさを感じながら過ごしたここ数年間だった気がする。それでも自分のペースで探究や浄化は続けていたし、少しずつピースを集めていくその様子をこのnoteにも書いてきていた。
ようやく「意味」に腹落ちする
そんな状態だったところに、この春から夏にかけて自然に起きたアップデート。これまで集めてきていたパズルのピースがパチパチパチ、とハマっていった。まるで「ピタゴラスイッチ」に出てくるドミノ倒しみたいに。細かい気づきをともなう出来事たちが、高速でテンポよく連鎖して、すでに知っていた断片的な情報たちともつながっていった。
最終的には「自分がいま生きている意味」と「この世界の意味」について、ストンと理解できていたのだ。
スッキリ!
世界の謎は山ほどあるし、別に何もかも100%解明したいというわけではない。私が理解したことが客観的な「事実」なのかどうかも、正直どうでもいい。私にとっては大枠の納得感だけが大切なことなのだ。
それは、私の性格上の問題にある。私は、何事も「全体像」「意味」「目的」にある程度は納得してからでないと動けなくなるタイプなのだ。
幼い頃から「これって何の意味があるの」が口癖だった。幼稚園でのお遊戯も、遠足も、マリア様の石像へのお祈りも「とりあえずその行為の意味を教えてくれ、話はそれからだ」と思っていた。学生時代やサラリーマン時代も、決められたルールでも意味に納得できなければ当然のように逸脱していた(一応バレないように)。
そんな私だから、そもそも自分が生きている意味が見出せない状態はきつかったし、世界の意味がわからないのもきつかったのだ。
物心ついてから40年。そこに過去世を生きてきた分もプラスするべきかもしれない。いずれにしろ長い間パズルに格闘してきた自分自身に対して、「ありがとう、お疲れさま、ここまでよく頑張ったね」と伝えたい。
人生が「先の見えない謎解きゲーム」ではなくなった。ひとつの大きな謎が解けたことで、人生が「どう楽しく遊ぶのかというゲーム」に変わったということ。私の場合、この違いはすごく大きい。
ひとまず暫定的でもいいから、自分が納得できる「意味」を手に入れたことによって、前向きに生きる気力が湧いてきた。大げさかもしれないけれど、これは「生まれてはじめて」な感覚でもある。
宇宙意識で生きる
このアップデートで決定的に変わった点。
それは「宇宙意識で生きる」という覚悟をはっきり持てるようになったということだと思う。「日本人」でもなく「地球人」でもなく、「宇宙人」として生きる。そう、当たり前に思えるようになった。
スピリチュアルなテーマについて公言することを躊躇していた以前の私が読んだら「おいおい、宇宙人はヤバいって!」とかツッコミが入りそうだが、ヤベー奴だと思われたとしてもそれはそれで全然いいやと開き直れている。自分の体験と感覚から導き出された覚悟だし、そこにもう迷いはない。
宇宙感覚を取り戻したことで、孤独への恐怖感も払拭された。たとえ他者に理解されなかったとしても、いまは「宇宙に仲間がいるから大丈夫」と思えるし、目には見えなくとも彼らのサポートを信頼できるようになった。
それに、同じような感覚を共有できる人も、周りに増えてきている。
何より、いまは夫が一番の理解者になった。付き合いはじめた頃は、まさか夕飯の食卓を囲んで普通に宇宙人の話ができる時がくるなんて思っていなかったけれど…(笑)
「魂の本分」に変わりはない
内面の覚悟については決定的なアップデートが起きたものの、現実的な生活、仕事が大きく変わることはなさそうだ。
過去にこのnoteで書いたのだが…
私の魂の本分は「魂の旅の観光案内所」である。そのことは、きっと生涯変わらないだろうと思う。
当時、このようにも書いている。
そう。いまこそ、魂の旅に出ようとしている人のサポートをしたい。今回のアップデートによってその魂に沿った生き方の「強度」が上がった感じだ。
ゲームの世界観とルールを捉え、そこでの私はどんなキャラクターなのかという宇宙的俯瞰の視座を得られたことで、やりたいこと、やらなくていいことの区別も明確になった。
具体的には、毎日の時間の使い方を見直したり、食事や運動など身体のメンテナンスに取り組んだりしている。
そうした日々の行動も、昔は「老いに抗いたい」とか「将来のお金が不安」とか宇宙意識とは関係のないネガティブな理由が元になっていただろうと思う。そんなのは当然ながら続かない。全然つまらないから。
これからすべての行動が「宇宙意識で生きているか」ということが基準になっていくし、その行動とはすなわち、このバージョンアップした宇宙ゲームを「遊び、楽しみ、味わう」プロセスそのものなのだと思う。
そっちなら、面白そうだ。
noteに記録することの意味
内面の変化に気づけたのは、このnoteのおかげでもあるかもしれない。自分で前回のnoteを読んだ時の違和感がはじまりだった。
個人的な日記をつけることもあるが、それはかなり雑駁としたものだ。頭の整理のためにはある程度まとまった文章で記録しておく必要があるし、ネットに公開することで内側と外側の自分を常に一致させておくことができるので(それは本当に重要)、noteというツールは私のいまのフェーズに最適だったのだろう。
どの記事もあくまで個人的な体験談で終始しており、他者に何かを伝えるためのnoteではない。でも、もし読んでくれた人にとってどこかしらピンときたり共感できたりすることがあれば、それはそれできっと意味があるのだと思う。
それにしても、今回はいつにも増して抽象的なnoteになってしまった気がする。
でも、私にとってはいまだけの大切な記録。秋分という大事な節目において、自分の現在地を振り返ることができてよかったと思う。
またいずれ別の機会に、春から夏にかけてのアップデート期間に起きたいくつかの具体的な出来事のこともnoteに記しておきたい(特に、息子が教えてくれた「自己愛」についての気づきが、大きなトリガーになった)。
もしここまで読んでくださった奇特な方がいらっしゃったなら御礼申し上げます!お付き合いくださり、ありがとうございました。
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