インテグラル理論に学んだ 世界の愛し方
このnoteでは私自身の内面に起きた「気づきの遍歴」を過去から振り返ってきていたのだが、つい最近自分で少し読み返してみて、そういえば「触れてこなかった事柄」があったことに気がついた。
当時の私にとっては意味ある大きな気づきが起きていたのに、noteでまとめる際にはその部分をスルーしていたのだ。
この触れてこなかった事柄、「インテグラル理論」との出会いについて、いまの思いを書いておくことにした。この内容をスルーしていたことにも背景があった気がするので、そのあたりも含めて振り返ってみたい。
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『ティール組織』は途中離脱
インテグラル理論に触れたのは、2020年のこと。勤めていた会社を辞め、その次の展開をあれこれ検討していたときだった。
過去に書いたnoteの時系列的には「レイキ習得」の少し前くらいである。レイキにより人生の転機がもたされたことは間違いないが、同じタイミングでインテグラル理論を知ったこともインパクトのある出来事だったと思う。
インテグラル理論とは、アメリカの現代思想家、ケン・ウィルバーが提唱している「人・組織・社会・世界の全体像」をより正確につかむフレームワークのことだ。
この名前自体を知ったのは、少し遡って2018年に発売された書籍『ティール組織』(フレデリック・ラルー著)が最初だったと思う。この本についての説明はここでは割愛するが、「一つの生命体や生物のように平等に権限と責任が与えられ、進化し続ける次世代型組織」について紹介する内容で、発売当初から組織開発界隈で話題になっていた。「ティール」とは「青緑色(鴨の羽色)」のこと。本書では組織の発達段階を色分けして整理しているのだが、この色分けの考え方はウィルバーのインテグラル理論も参照しているとのことだった。
当時、私は勤め先でチームビルディングの研修などを担当していたこともあり、何か参考になればと『ティール組織』も目は通していた。とはいえ、喫緊の課題に対しての処方箋としては話が壮大すぎた印象があり、途中離脱。インテグラル理論まで踏み込めずじまいだった(本書最後にウィルバーが書いている「本書に寄せて」まで辿り着かず…)。日々に忙殺され向き合う余裕がなかったのだろう。
もっと早く読めばよかった
それから時を経て、2020年の夏。
会社を辞めたあと、まずは自分の気持ちとこれからの方向性を整理するべく、友人の紹介で定期的なコーチングを依頼することにした。すると、そのコーチがちょうどご自身のnoteにインテグラル理論について詳しく書いてくださっていたのだ。折しもインテグラル理論のシリーズ本が新しく出版されているタイミングでもあり、さらにその本の担当編集者さんは、もともと私も知っている方だったということも判明する。
そんなご縁が重なったので、まずは入門書から読んでみることにした。何しろ、この時はかつてないほど時間が有り余っていたのだ。
「もっと早く読めばよかった!」
その頃の日記には、インテグラル理論との出会いの興奮、そしてウィルバーさんへの感謝が綴られていた。
こんなにも世界のことを網羅してまとめてくれていた人がいたのか、という純粋な驚き。仕事や人間関係の課題、さらには生きる上での「世の中の仕組み自体を知りたい」という大きな問いについても、インテグラル理論の俯瞰的かつ統合的な見方を採用することで頭の中が整理された感があった。
すべては正しい しかし部分的である
インテグラル理論は「クオドラント(四象限)」「レベル(段階) 」「ステート(状態)」「ライン」「タイプ 」、この五つの主要なフレームワークで構成されている。
「インテグラル」には「統合的」「必要不可欠な」という意味があるが、何か私たちが課題や問題に対処する際は、複数の視点や手法を組み合わせて活用することが大切だというのがウィルバーの主張だ。「すべては正しい、しかし部分的である」。ウィルバーのこの言葉に、インテグラル理論の真髄が表現されていると思う。
ウィルバーの文字通り命をかけた研究(自然科学、宗教、哲学、心理学、経済学など、古今東西の叡智を包括的に統合し、世界を把握しようとする試み)の成果であるので、それぞれのフレームワークはまさに「結晶」のようなものだ。遍在する智慧を徹底して集め、その膨大な情報のなかから真理を抽出する。結晶には、宇宙的な美しさがある。
世界にはレイヤーが存在する
この五つのフレームワークの中で、当時の私に特に大きなカタルシスをもたらしたのが、「レベル(段階)」の考え方だった。
人間の意識には進化の段階があり、異なる段階の人々がこの世界には共存しているというもので、そのレベルが色分けでマッピングされている(ティールもその色のひとつ。ウィルバーが世にあまたある発達心理学の研究の数々を比較検討して整理したもの)。
「意識のレイヤーが違う人たちが同時に存在しているから、こんなにも世界はややこしいのか!でも、だからこそ面白いし美しい!」
この気づきを経て、私自身の世界の捉え方はアップデートされた。
それまでの捉え方は、水平のマップに多様な価値観、個性を持った人たちが存在しているイメージだった。そこに「層(レイヤー)」という垂直的多様性の視座が加わったのだ。 一見すれば水平な世界だが、実際には幾重にもレイヤーがあり、人々はどのレイヤーに存在しているかにより、物事の捉え方も人生の意味も異なる。
脳裏には「Photoshopのレイヤー表示画面」が浮かんでいた。Photoshopの画像にはいくつものレイヤーが存在しているが、レイヤー表示画面にしない限り複数のレイヤーから成り立っていることはわからない。だが、それぞれの異なるレイヤーがあってこそ、美しい一枚の画像になる。
人間社会の場合、Photoshopと違うのは「レイヤー表示機能がない」点だ。自分が、あるいは相手が、どのレイヤーに意識を置いているかというのは、よくよく意識して観察しないと判別できないし、その判別が正しいかどうかの証明もできない。加えて、下のレイヤーからは上のレイヤーを認識することができないという難しさもある。
レイヤーが異なる人同士は、やはり何かと話が噛み合わない。本の中ではウィルバーが段階にまつわるさまざまな現代社会の問題点を挙げてくれているのだが、私自身がずっと混乱していた(主に仕事で)のも、単純にこのレイヤーの認識が甘かったことが原因だとわかった。
会社を辞めたばかりだった私は、少なからず後悔を抱えてウジウジしていたところがあったが、ウィルバーが整理してくれたおかげで「どこがどう噛み合っていなかったのか」スッキリ腹落ちするに至った。これを機に本当の意味でやっと区切りがつき、次に進む意欲も湧いてきたのだった。
取扱注意のレベル論
私にとってこのレベルの考え方は救いになったのだが、一方で「これはなかなか取扱注意の内容でもある」とも思えた。
意識の進化の段階という性質上、上・下という概念が付加されるのは仕方ない。ただ、ここで受け手の理解によっては優越意識や押しつけの意識が生まれるリスクも存在する。「オレンジ(合理的)」の上に「グリーン(多元的)」があり、さらにその上の段階が「ティール(統合的)」となるのだが、現代においてレベルの考え方が世に広まっていくほど「高いほうが優れている」とか「人は皆、ティール段階への成長を目指すべきである」といったムードになりそうなことも想像できた。そこに私は微妙な嫌悪感、言語化できないモヤモヤを感じていたのだ。
段階には上下はあるが、優劣はない。ウィルバーはどのレイヤーも不可欠なものであると主張しているし、私も同感だった。レイヤーは違えどそれぞれの物語を生きながら、この地球に同時に存在している、それが素直に面白い、美しいと感じたし、だからこそ感動していたのだ。
感動したことは間違いない。でも、この感動をこの質感のまま誰かと共有できる気がしない。迂闊に言及したら、違う文脈で受け止められてしまうかもしれない。
それが率直な思いだった。これまでインテグラル理論の話をnoteで触れてこなかった(SNSなどにもあまり書いていない)のは、この時の取扱注意な感覚がどこかに残っていたからのような気がする。
世界の仕組みを理解するためのヒントはもらった。しかし、ある面ではまた自分の孤独感が強まってしまったような感覚もあった。
スッキリしたと同時にモヤモヤもする、アンビバレントな状態。もう一歩踏み込まないと、このモヤモヤは晴れないだろうとも感じられていた。
この世界を遊びきりたい
このnoteでもたびたび書いてきたが、私自身はもともと根強い宗教嫌いで、現実離れして見える「スピ系」な界隈とは慎重に距離を置き続けていた。
そんな当時の私にとって、インテグラル理論がギリギリアプローチ可能なインターフェースを持っていたことは大きかったと思う。『ティール組織』と同様、ビジネス書の領域で紹介されていることもあったからだ。
とはいえ、実際に蓋を開けてみれば、ウィルバーさんはめちゃめちゃスピリチュアルな人である。彼の理論はいずれも、霊性に通じた「長老」がドーンと中央に鎮座しているようなイメージだ。
語り口も宗教者をどこか彷彿とさせるし、世界のありようを整理して伝えようとする姿勢が、何やら空海みたいだなと感じた。かつて高野山で見た「両界曼荼羅」も想起された。
多様性に満ちた曼荼羅のようなこの世界を、せっかくなら遊びきりたい。
そのためには、私の立ち位置を理解しないとはじまらないのではないか。
ウィルバーの真理追求と統合に対する執念には遠く及ばないとはいえ、私自身もちゃんと自分の体感として理解を深める必要がある気がしてきたのだ。
そこからすぐ、レイキ習得、スピリチュアルスクールでの学びへとつながっていくことになる。私がスピリチュアルの学びにいざなわれたのには、こういう動機、経緯も存在していたのだ。ウィルバーがインテグラル理論において極めて冷静な態度で霊性について俯瞰してくれていたため、スピリチュアル界隈への苦手意識もずいぶん軽減されていたように思う。
魂の年齢とカウンセリングの実践
その後、スピリチュアルスクールでも、レベルとほぼ似たような話を「魂の年齢」というフレームワークを使って学んでいった。こちらでは魂の転生が前提となる。一回の人生だけに限らず、魂は幾度も転生を繰り返しながら、長い時間をかけて成長していくという考え方だ。
スピリチュアルスクールでの学びの話 ↓
魂の仕組みや、宇宙、魂の根源との関係性についても体系立てて説明してもらい、さらに深い納得感がもたらされた。インテグラル理論によって大枠の考え方を既にインストールしていたため、スクールでの魂の話もすんなり理解できたという面はあるかもしれない。
この講座はスピリチュアルカウンセラー養成のための実践的なプログラムだったので、魂の年齢のリーディングや、魂の年齢に応じたカウンセリングなどのセッションを繰り返し練習しなくてはならなかった。当たり前のことだが、誰かが組み立てた理論でわかった気になったとしても、実際に繰り返し使いながらでしか、活用法は体得できないからだ。
ウィルバーが指摘していたように、カウンセリングの実施にあたってはスクールの先生からも「魂の年齢と優劣は関係ない」「無理に上に引っ張ってはいけない」と、たびたび注意されていた。カウンセラーもしばしば陥りがちな定番の落とし穴なのだろう。
段階(魂の年齢)というセンシティブな内容を踏まえたカウンセリングは、最初のうちはどうしても緊張感があった気がする。型通りにやればいいものでもないし、実践を繰り返すことで自分なりに調整していくしかない。
あの学びから数年。
まだ少々ぎこちなさはあるものの、私も徐々にこの世界での立ち位置を見出だしつつある。
(前回のnoteで書いた「自分らしい働き方」が、今のところ私らしい立ち位置と言えるのではないかと思っている)
豊かに織り合わさった世界を愛でる
そんなわけで、最近久しぶりに『インテグラル理論』を読み返してみた。
2020年の頃と比べれば、私の考え方はダイナミックに変化している。以前はサラッと流したような部分が強い共感を伴って感じられることもあるし、それがまた興味深かった。スピリチュアルの学びを経たいまだからこそ、ウィルバーの霊性についての洞察部分にもじっくり触れていけたらとも思う(ウィルバーはガチめの本を数多く出している)。
ちなみに、今回読んでみて、妙に印象に残ったフレーズがあった。
この一文を読んだ時、ふと自分の名前のことが連想されたのだった。
「絢(あや)」とは「色とりどりの織物」という意味である。
確かにその名の通り、私は「織り合わさった何かを眺め、その美しさを愛でること」が大好きだ。
まさに自分自身の人生もそのように彩り豊かに織られたものにしていきたいし、他者の内面に広がっているカラフルな個性を見つけるお手伝いをすることにも喜びがある。
何より、多層的に織り合わさった世界に生きているワクワクを感じている。
インテグラル理論に出会った時の感動を(あるいはレベルにまつわる微妙なモヤモヤの理由も)思い返すと、それは「世界を愛でたい」という私の魂の願いの発露だった気がする。
多様性に満ちた世界の豊かさ、美しさ。
その愛し方を教えてくれたのがインテグラル理論だといえるかもしれない。
祖父が授けてくれた「絢」という名に感謝しつつ、信念を忘れることなく生きていきたいと思う。
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