Das nächste Dorf
幸せの拒絶、徹底した自傷に痛烈な快感を覚える人間の話を、例えば「地下室の手記」から引いて、身内に吹っかけることがあった。Das nächste Dorfにおいても、毒々しさこそ薄いが同様の自傷的憂鬱が潜んでいる。しかしそれを発見したのはごく最近であること自体、カフカの表現がどれほど曖昧模糊としているかを語っている。
別の土地に幸福があると人は思い込むが、居を移したところで幸福が保証されるとは限らない。かつてはそんな平凡な、また些か不正確な嘆きを読み取って終わっていた。しかしこの文章は、場所を変えれば今より幸福になれる、といった鈍った見方を少々超えているようだ。幸福が本来そんな移動に比すべくもないのだという主張を、カフカは掲げているようにも見える。もし今一人の青年が甘い絶望からそう口走っていたなら、私は興味を示さないだろうが、カフカの作品群に通奏低音として流れている静かな自己攻撃性を顧みて、ふと彼の非凡な精神に逢着してしまう。
夢見ることの迅速な青年期を思いおこし、結果生まれた痛烈な感傷を拗らせることもあるだろう。幸福の唾棄、生活の破壊は、夢に生きる人々の陥る罠であるが、何がそこまで人々を逆説的行動に追い込むのか。現在の幸せを未来の幸福、虚ろな幻想の犠牲にしている。何とも凡百な有様だが、不思議なことに彼らは平凡であることを最も嫌う人種なのだ。しかしカフカは珍妙な才能で、そういう光景をもブラックユーモアの世界に落とし込む。時には自分もその世界の住人たることを厭わない。笑いを堪えながら毒虫のじたばたを描くカフカを想像しても、まあ不自然なところはないと思う。
自尊心由来の自傷なぞ滑稽だ。喜んで破滅を選ぶ人間は大抵、人並みであることを恐れて一人苦痛の中に閉じこもる方が、群衆の中で健康的であり続けるより遥かに簡単であることに気が付かない。君たちの求めている物は本来、人並みの事を人並み以上にこなし続けて初めて得られるのだ。要するに君たちのやっていることは盲目的な遠回りに他ならない。万が一幸福との訣別が偉業への布石だったとしても、早晩なされる仕事ではないだろう。若い人間はこの辺りを勘違いする、一瞬の衝動から幸せと訣別するのは容易いのだ。本物志向なら、甘ったるい精神に対するカフカの一貫した唾棄を見習うがいい、断食は続けなければ断食とは呼べないのだから。この唾棄の継続の難しさを思うと、むしろランボー辺りが天才であることの証拠になっているように思える。
既に卒業した大学の銀杏並木を眺めながら、去年Die Baumeに関して一文を草したことも思い出した。人間の変化は急速だが、ここの木々の鮮やかさ、一つとして同じ姿をしていない暖色の綾は今も私の目を驚かしていた。きっと今後数年、ひょっとすると数十年は同じ姿で鎮座しているだろう。一方私はここではないどこかを探し求めながら、木々の前に段々朽ちていき死んでいく。そのことについて別段何とも思わなくなった。しかし極度に高貴な新鮮さは、得てして何とも思えなくなったものから現れがちなのだ。
カフカを読んで面白いと思えなくなったのも、精神が健康に傾いてきた徴であろうが、彼の自嘲に舌を突き出している時点で、切外しがたい関係性が構築されてしまったようにも思える。しかし彼の自嘲を愛することが、カフカの作品群及び彼の性格に対する皮肉な抵抗になるのだろう。私は手元の小さな短編を武器にして、もう少し静かな抵抗を続けていくのかもしれない。
補足
私は翻訳家でも、ましてドイツ語に詳しいわけでもないから、Das nächste Dorfを自分の手で翻訳するに際し、多少の文献を参照した。主に慶応義塾大学学術情報リポジトリより「カフカの作品における時間概念 ~Zeitbegriff im Werk Kafkas~ (松本嘉久氏)」を参考に、翻訳におけるミスがないかチェックし、例えば「偶然」は確かに「事故」と訳すべきだろうと合点が行ったりした。そうして自らの言語能力の拙さと、訳業の魅力に思いを馳せるのだった。
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