んねんれ
死(派遣労働)の家の記録
自らの中に立ち返る場所を作れとは、アウレーリウスの言葉だったと思うが、解釈は難しい。しかし永遠に確定せぬ見当をつけることは出来る。見当が人を生かす。答えが人を救うとは限らない。 労働先の人間に一瞥すらもらえなくなったこと、とある人に私の精神軸を否定され続けること、研究に興味を持たれないこと、友人には不気味な気遣いをし続けられること……私は冷たい人間関係の中を自由に泳いでいる。孤独の中で足取りは確かだ。この心地よさに私は立ち返る。デカダンスが若者の特権ならば、いっそ思い切り行
スピノザは「人間身体が死骸に変化した場合に限って死んだのだと認めなければならないいかなる理由も存しない」と断り、人間の本性が過去の本性と全く異なりうる例を挙げていた。私が大学初年級から抱いていた「健全な自殺」の観念が、具体例に化けて眼前に現れたような気がして、少し立ち止まらざるを得なかった。 幼気な子供は別の人間どころか、別種の生き物だと思っていいほど、我々の本性と異なった性格をしている。自分の幼いころと、成人後の自分を見比べてみて、驚くべき自我の変貌に気が付く。だから
私の主観的な惨めさは私が考える対象の惨めさから構成されている、と開き直ってしまうくらいが良いのだろう。日記をつけるにも慎重さを要する。どう書くかではなくて、何を書くかのほうがよほど重要なのだから。 ****** 自分について語ることがどれほど的確な自己表現になっているかはわからない。一方で、とある同人音楽の歪んでいてなお耳になじむリードシンセが良いとか、とある本の一節の皮肉の利かせ方が良かっただとか語っているあなたは、存分に自己を語っていることになる。経歴は自己である。
過去DC1を通した先輩の学振の文書を見ていて気が付いたことだが、身も蓋もないことを言えばM2の時点における研究の進度が違う。とにかく分野を俯瞰するだけではなくて、今自分がこんなことを研究していて、自らの得た手掛かりに対してこういうアプローチが可能なはずだという希望的観測を随所に織り交ぜたほうが良い。 私の研究の進度は、M2の段階にしては早いとも遅いとも言えないと思う。しかし一応成果らしきものはあるのだし、アピールしておいて、ここからどのような着眼点に沿って研究できそうか、
とある留学生と時折名古屋大学交響楽団の演奏を聞きに行く。私は英語が不得手であるから、外国語で活動しなければならない時は予め英語を聞き流して、頭を切り替えようと努めている。今日はそれでもうまくいかなかったような気がする。語学は半分習慣であり、付け焼刃で回復できるわけではない。 ほぼ最前列に近い場所で、ドヴォルザーク、ドビュッシー、ブラームスを聞いた。演奏が終わった後の拍手の時間に、壇上でヴァイオリンを手にした友人と目が合った。彼は少し反応してくれて、それが無性に嬉しかった
ガンディーの極端な禁欲主義は、自らの性的衝動に負けた結果父親の死に目に会えなかったことが原因だという説があるそうだ。「真理の実現には、全き無私が必要です」とまで断言している。「自分の一挙一動を完全に真理の実現にささげつくしている人は、子をもうけたり、家庭生活をいとなむといった利己的な目的に充てる時間をもつことはできません」ブラフマチャリヤの戒律である。 ところが、ガンディーは結婚し、家庭まで設けている。近親者に極端な禁欲を強いて反発を買うこともあったとのことだ。既婚者の扱い
意識的にか無意識的にか私の中に成熟してきた、僅少な材料から形作られた印象の断片。 女性たちは、目を覆ったふりしてしっかり見ているし、耳を塞いでいると思いきや、澄ましてちゃんと聞いている。そうした態度に慣れてしまうと、私なぞより彼女たちのほうが何倍も頭が切れることを忘れがちになる。皮肉たっぷりの振舞いに長けているエリザベス・ベネットとの恐ろしい類似……あまり多くを語らないという点を除いては。 恋愛が絡むと幾重にも厄介になる。彼女たちは感情的になっているのではなくて、むしろ極
相変わらず朝に日記をつける癖が治らない。 研究室で新M1との顔合わせがあった。人生において研究に携わる期間のなんと短いことか、たった一年でも思ったより先輩面ができる。これまで掃除を担当してきました、わからないことがあったら何でも聞いてください。で、僕はもともと掃除が苦手である。席替えもディスプレイの再設定も不器用だった。 頻繁に素論の研究室に足を運んでいるのは、ES館にシェ・ジローがあるから。研究所で大事なことは、おいしいご飯がちゃんと提供されることだとどこかの偉い
昨日より早い時間に日記が付けられたのはよいことだ。しかし14:30に起きて日が暮れてから大学に赴くような生活は、一度猛省して改める必要がある。 人間の寿命には限りがあるから、自分が得たものはいずれ奪われることを知らなくてはならない。今日降っていた雨に文句を言っても仕方がない、傘をさしたり雨宿りしたりなど、その場でできることをすればよい。さもなくば濡れていけ。 そういうわけで、野心や名誉欲に突き動かされて科学をやりたくないという思いがある。
朝に日記をつけるのをやめるところから。 論文を執筆し続けている。本文よりも図の作成のほうが難儀である、適当なソフトに投げればあまり人の手を介さず魅力的な図ができるわけではない。パワーポイントやgnuplotの使い方について、もう詳しい素振りをするのをやめる。 雑な近似式をメモ程度に置き、進捗としてslackに貼ったら詰められた。確かに、slackに貼るのは他人の評価を求めることを意味しうる。自己完結させたいならローカルで眺めていればよい。だから重箱だとうんざりしたりせ
幸せの拒絶、徹底した自傷に痛烈な快感を覚える人間の話を、例えば「地下室の手記」から引いて、身内に吹っかけることがあった。Das nächste Dorfにおいても、毒々しさこそ薄いが同様の自傷的憂鬱が潜んでいる。しかしそれを発見したのはごく最近であること自体、カフカの表現がどれほど曖昧模糊としているかを語っている。 別の土地に幸福があると人は思い込むが、居を移したところで幸福が保証されるとは限らない。かつてはそんな平凡な、また些か不正確な嘆きを読み取って終わっていた。しかし
最近「筆を折る」という言葉の魅力にはっとさせられた。同義語に筆を絶つという言葉も存在するが、それより強い訴えかけを感じる。文章を書くとは自身と対決し続けることだ、他人に負けたって適当な折り合いがつけられようが、自分に負けるともう逃げ場はない。執筆活動の終わりは穏やかなものとは限らない。自らに対する敗北由来の激情から、地団太を踏み、涙を流し、終いには筆を破壊する人を、鮮明に思い浮かべることが出来るだろう。私は確信しているのだが、筆を折るとは決して比喩表現として生まれた言葉ではな
貝殻拾いは楽しいものだ。しかしわざわざ苦しみを携えて貝殻拾いなぞしている。君が聞いているのはそんな人間の言葉なのだ。脂肪が見えるまでリストカットを続ける少女の話を軽蔑しながら読んでいる。しかし耳を澄ますと、その根底に強烈な憧憬の心音が聴こえる。蔑視とは抗しがたい魅力に対する奇怪な防衛本能の一種である。 魅力。自傷はむしろ快感であり、苦しみに数えることは出来ない。歯痛にだって快感が潜んでいる、という不気味な小役人の絶叫が全ての始まりだったことは、君も知っているだろう。貝殻
生活の方が切羽詰まってきており、何かを犠牲にしなくてはならない時期に差し掛かっていると思う。日常の問題に対してすべきことは過度に嘆いたり自傷に走ったりすることではなく、理性的な対処を続けることだ、そう前に書いたが、多忙とは悲惨であり、忌むべきものだという主張と両立しないわけではない。 一種の災厄である多忙への対処として有効なのは、実は時間の割り当てをむやみに拡大したりすることではなく、むしろ削ったり配置し直したりして予定を整えることではないだろうか。夜更かしを避けるとか
『紙飛行機を上手く飛ばす科学(2)―――飛行機が飛ぶわけ』なるドキュメントを漫然と見ていた。紙飛行機の重心を後ろにずらすと、主翼にかかる揚力が尾翼に分散される。すると空気抵抗は小さくなるが、有人機の場合飛行機自体の操縦が難しくなって実用的ではないらしい。人生みたいだと思った。しかし人生みたいという言葉ほど使い古された、また卑怯で低俗な比喩もない。 飛行機に関するドキュメントを見ながら、2年前に一生懸命紐解いていたはずのランダウ流体を眺めやっていた。確かに私は上巻と格闘
友人とオンラインで麻雀を打ちながら、魔法少女まどか☆マギカについてこんなことを語った。題名に鹿目まどかの名前こそ用いられているが、本作の重心は美樹さやかにある。人間を極限状態に追い込んで口を割らせる、その内容に自己や人間本来の姿を見出せなければ、誰も作り話に面白さなど見出さないだろう。そんな拷問にかけられたのが、まどマギにおいては美樹さやかだった。そうしてまどマギの第二の主人公として美樹さやかがしばしば挙げられていることを友人から聞いた。 まどマギのテーマとして、精神的に追