アコガレダマシ

#イラストストーリー部門
#創作大賞2023

アコガレダマシ

 目の前には私が立っていた。
 高校二年の夏休み、その八月二十日。登校日であると定められたこの日にしか、私は私に近づくことができなかった。
 目の前の私は教卓に両手を置いて、私を見上げている。彼女の中にいるのは私ではない。
 私では、私をこれほどまでに輝かせることはできなかった。
 空河頼香(むなかわらいか)。それが目の前にいる少女の名前であり、私が白衣のポケットに隠している拳銃で撃ち殺さなければならない相手であり、そして、今、銃を握っている美女に内在する自意識の名である。
 アコガレダマシ。
 現代にアップデートされた妖怪変化――ダマシと呼ばれる怪異の一種である。
 今、私が宿っている身体、久利堀聡利(くりぼりさとり)がアコガレダマシだった。私は騙され、身体を奪われ――頭痛に顔を歪める。
 目の前の私は、楽しげに私を眺めている。彼女はまだ、私が真実に気づいたとは知らないはずだった。
「どうして、怒っているの?」
 そんな風に気安げに尋ねる。いや、気安いのだ。私と彼女はそれだけの関係があった。少なくとも私はそう考えていたのだし、憧れていた。だからこそ、私は彼女の提案に乗った。
 身体の交換。
 そんなことができるだなんて、想像もしていなかった。実際にできた事実は驚愕や恐怖よりむしろ震えるような喜びに満ちていた。
 久利堀聡利は美しい女性だった。動画配信者で、何の因果か彼女は私の学校に現れた。非正規の養護教諭として。憧れが目の前に現れ、私は彼女に傾倒し、彼女の部屋に通うようになり。
 そして、身体を入れ替えた。
 見慣れない自分の顔と向き合う。憧れの人の手で磨かれた、原石だった自分を見る。身体のことを考えれば、そのままにしていた方がきっといい。空河賴香のままでは活かされなかった潜在能力が発揮されている。
 彼女は私の身体になって、配信者として活動を始めた。私では引き出せなかった私の魅力は、SNSの登録者数として実数に表れている。それでも、私は自分自身の容姿より久利堀聡利の方が美しいと感じている。だから、入れ替わった後、私が魅力的になったのを惜しんでいるのではない。
 頭痛が激しさを増す。意識が途絶えそうになる。痛みが原因なのか、自意識の喪失が痛みを引き起こしているのかは定かではない。
 ――不自然にならないよう、怪我をした方がいい。他の痛みがあれば、意識は長持ちする。
 与えられた助言に従い、私は慣れないハイヒールで学校を訪れた。彼女を追いかけて、必然的に私は転んだ。受け身なんてとれず、思いっきり派手に。
 わざと骨折などをしていたら、アコガレダマシはこの距離にまで近づくのを許さないに違いない。彼女は私の自意識が喪失するのを待ち、ただ私と相対する時期を引き延ばすだけでいい。
 だから、今日しかなかった。空河頼香として、私はきっと学校に来る夏休みの登校日しか。
 銃をポケットから銃を取り出す。暴発を防ぐために弾丸は今から装填する。
 教卓の下だが、彼女が視線を下げれば気づくだろう。だからこそ、これは賭けだった。
 彼女は私を見つめるだけ。視線を下げない。私の行動を不思議がっているように見えるが、一方で不審には思っていない様子だった。私はきっと、これくらいカモのような顔をして久利堀聡利を慕っていたのだろう。
 何かの間違いかもしれない。
 私は違う人間に騙されているのかもしれない。
 クラスメイトたちは既に帰っている。銃を撃つ前に、私は彼女との出会いから追憶した。
 追憶の最中に聡利が私の銃に気づいたのなら、おとなしく消滅を受け入れよう。

◆    ◆

 夏休みがもうすぐ始まる。海の日を交えた三連休開けの火曜日。
 文武両道。才色兼備――にはほど遠い根暗な文学少女がスマホに反射していた。
 空河頼香。つまり私である。野暮ったい眼鏡。自分を凝視するのが嫌ですぐに伏し目がちになって、鏡像の自分は目を背けた。
 時刻は午前六時。早起きの対価には自分へのプレゼントがいい。
 画面を見ないようにしてスマホのロックを解除する。動画配信アプリを開き、唯一お気に入り登録をしたチャンネルを開く。昔なら本の虫にしかなれなかった私のような人間も、今の時代には別のものに憧れる権利がある。
 配信。CtoCのコンテンツ。誰かが誰かに向けた、閉じたコンテンツだ。
 今日も彼女は更新をしていた。金髪の美しい女性が、私に向けて何かを語ってくれる。語る内容に統一性はない。特定のコンテンツに対する批評を得意としているわけでもなく、いわゆる炎上系でもない。本当は誰かにさえ向ける内容ではない、日記のようなひとり語りだ。
 顔にも憧れるが、声音も心地よい。語り口も好きだ。痛快なわけではなく、かといって配慮しすぎてもいない。チャンネル登録者数は五万。トップクラスとは言えないだろうが、中堅よりはきっと上だ。特にバズったりした動画があるわけではなく、継続こそ力なりを体現するように毎日動画を上げていて、気づけばそれくらいになっていた。
 いわゆる推しである。推しという概念は知っていたし、クラスメイトは普通に推しを持っていた。だけど私はそれが自分にもできるとは考えていなかった。だけど、これを誰かに話した経験はない。皆はもっと推しに優しい。一方で私はエゴイストなのだろう。彼女が変わってしまわぬように、配信アプリの外にまで出てこないでほしい。私はスマホの画面という鳥かごで、彼女を閉じ込めている。
 配信にお金を出したことさえない。私は彼女から一方的に喜びを搾取している。彼女に返せるものは何もない。その癖彼女を他人に紹介さえもしたくない。
 ある種、私は彼女に依存していた。もし、彼女が突然配信をしなくなったら、私は暗中に残されたような失望を味わうに違いない。その恐怖さえ、私は彼女の動画を眺めることで癒やすしかない。
 配信を楽しみにして、日々の雑事を過ごす。アルバイトも部活もやっていない私にとって、日常とは学校への登下校と、図書館通いくらいだ。彼女の配信では小説も取り扱う。そうだ。最初は小説の感想動画を見たのだ。面白い本を読んで、誰かと意見を交わしたかった。だけど、否定されたら嫌だと思って、彼女の読書感想を開いた。動画タイトルからして絶賛していたからだ。
 私は私の人生に不満はなかった。不満がないということは現実に妥協しているという意味でもあった。私は周りの友人のように誰かに憧れを抱きはしなかった。いわゆる承認欲求というものを持つ機会がなかったのだろう。
 憧れを抱いたのが、彼女だった。いつしか彼女の配信を楽しみに日常を過ごすようになっていた。だから私は、きっとその時点で彼女に騙されていたのだ。
 存在しない空白を与え、奪い去るのが現在の妖怪――ダマシなのだ。
 おそらく、私が彼女に傾倒していたから彼女は私の前に現れた。私の通う高校の養護教諭としてだ。正規の養護教諭が産休に入り、彼女は産休期間の代理だということだった。
 久利堀聡利。その名を知ったのもそのときだ。素敵な名前だと思った。美しさと同時に彼女の聡明さを表している。
 最初は目を疑い、次に現実かどうかを疑った。僥倖を信じられるようになったのは、多分保健室に通うようになって数度目のことだ。私に下心があったのは確かだが、性的マイノリティの配慮が薄い私の育った国では、同性に対する下心は見透かされづらい。元々私が身体が強い方ではなかったことも相まって、私は比較的簡単に近づくことができた。
 夏休みが始まるまでの三日で、四回も私は保健室に行ったのである。
 一度は本当の貧血で、二回目と三回目はただの生理。私は軽い方なので何度もは使えそうにない。四回目、終業式の前日に架空の頭痛を理由に保健室に入って。
 嘘がバレた。
「何故、嘘をついてまで、保健室に来るのかな? ひょっとして、クラスに何か問題が?」
 咄嗟に首を振ってしまった。あまりコミュ力のある方ではないが、波風立てない程度にはクラスに溶け込めている自信がある。フルネームはきっと知られていないが、名字だけなら過半数は抑えていてくれるだろう。希望的な観測ではなく、対面で呼ばれた人数から数人分引いたくらいの現実的実数だ。
 肯定で返すべきだった。なら、何故嘘をついてまで保健室に入り浸るのか。
 ただ、彼女はそれ以上問い詰めはしなかった。同調するような、理解するような曖昧だけど柔和な視線を投げかけて、彼女は仕事に戻った。虚偽の体調不良で保健室に長居する生徒は教室に追い返すのが仕事ではないかと言えばそれはそうなのだが。ともかく、私の嘘を彼女は見逃してくれた。
 より一層、私は彼女に惹かれていった。

◆    ◆

 夏休みに入ってしまい、彼女との遭遇回数は減った。こんなとき、部活でもしていれば会う口実ができたのに。夏休みに入る前に、文化系の部活にでも入ればよかったのだが、私にはそれだけの行動力がなかった。
 猛暑日が続いている。インドアな私にとって、さしたる問題ではないのだけれど、図書館への往復の際だけは陽光を恨みたくもなる。高校の図書室は長期休みの際には利用をしていない。Ⅲ年間で書架にある本を制覇できるほどに本の虫ではなかったけれど、長期休みは家の近くの図書館を利用していた。思えば、学校にいけば彼女に出会える可能性があった。熱中症にでもなったといえば、保健室に入ることはできたろう。ただ、実際は学校には彼女はいなかった。
「あら、空河さんじゃない?」
 図書館へ至る道で彼女に声をかけられた。可愛らしい水色のワンピースで、普段の白衣とは印象が違った。それ以上に配信中の彼女とも印象が異なった。もう少し中性的な格好を好んでいる印象があったのだ。考えてみれば白衣の下はタイトスカートにストッキングなこともあり、服装の好みは配信と普段で異なっているのだろうと気づくべきだった。
 それでも、やっぱり綺麗だと思えた。アコガレダマシに憑かれた私は、彼女が何をしても憧憬を失うわけがないのだ。
「学校は?」
 と尋ねたつもりだった。が、一番近い私の耳でさえ、「がっ」としか認識できない音が発された。彼女は困ったようにわずかに首を傾ぐ。きっと私の顔は暑さと熱さで真っ赤だったし、腹部を殴られたような悶絶にも似た声を発されれば仕方ない反応とも言える。
 彼女は私に近づいた。それから額に手を当てる。ひんやりとした手のひらを、私の汗がぬらりと汚す。白状すれば倒錯的な興奮さえして、彼女の手を焼きつくさんばかりに高熱を発しているかと思った。
「あら、別に熱中症ってわけでもなさそうね」
 彼女は私の汗にまみれた手を自分の額に当てる。
「似たようなものね。私も汗かいてるもの」
 私の汗と彼女の汗が混ざる。本当に彼女は汗をかいていただろうか。今、彼女の額にある水滴は全て私から分泌された汗であって、彼女は汗なんてかいていないんじゃないだろうか。それくらい彼女は爽やかな笑顔で私を見ていた。ようやく私の喉は元の機能を取り戻せた。
「学校は?」
「ん? ああ、実は正式な赴任は夏休み明けからなのよ」
 ということは夏休みは暇なのか。仮で保健室を任されている期間に私は四度も顔を出したのだ。
「何度もご迷惑をかけてごめんなさい」
「全然気にしなくていいわ。みんな健康的みたいで、来てくれたのあなたくらいだったもの」
 たぶん、このときに私は気がつくべきだったのだと思う。久利堀聡利が配信者だと知っているのが私だけな可能性はある。だけど、私の通っている学校は共学だ。これほどの美人が現れて、無反応を決め込むほどに私の学友たちは不健全ではない。
 見えていたのは、私だけだったのかもしれない。
 だけど、そんな推測なんてできなかった。降って沸いた幸運が、嘘だなんて思えるほどに私は大人じゃなかった。特別ではない私に特別なことが起きたのなら、それはきっと騙されている。そう思えるほどに賢くなかった。
「今から何か用事?」
「図書館に行くつもりでした」
「お勉強? それとも普通に借りに行くだけ?」
「借りに行くつもりです」
「何かおすすめある? 私もそれなりに読む方なのよ」
 知っている。最近は彼女が褒めている本ばかり追いかけているのだから。
 私が借りに行くのは、彼女が今日の配信で褒めていた本。
「アラバマの祈りを、借りて読もうと思います。きっと、面白いと思うから」
 彼女の言葉に対し、答えになっていない暗号通信のような返答を、私はした。私にとってそれは一世一代の告白だった。
「図書館に行くつもり――って、予定は変わったの?」
 悪戯に微笑んで、彼女は私の言葉尻を掴んだ。完全に無意識だった。予定は変わっていない。ただ、期待が溢れた。欲望とも言える。口を通してはみ出した私の願望だ。
「先生は――デートですか?」
 緊張しながら、私は尋ねた。こんなにも美人なのだから、男性が放っておくはずがない。手に入らない憧れは、早いうちに打ち切るに限る。不意に、そして大胆に。何よりも無遠慮な私の問いに、久利堀聡利は微笑みを返す。
「付き合ってくれるの?」
 このとき、私の表情筋はどうやって私の心情を表現したのか。今の私にもわからない。
 ただ、彼女が私の眦に手を当てたことだけを憶えている。
 彼女が私を連れて向かったのは、彼女の家だった。オートロックのマンションの一室だ。ロック番号を見てしまいたいと思い、だからこそ意識的に視線を切った。耳元に届いた番号が、部屋番号ではなく、ロック番号だと気づいたのは、彼女の部屋についた後だった。
 四〇四号室。表札に名前はかかっていない。まだ越してきたばかりなのかもしれない。
 部屋に入ると広さに圧倒された。一軒家なので面積としては私の家の方が広いだろうが、純粋な広がりを感じる分こちらの方が当然、広く感じられる。非正規の養護教諭がひとりで暮らすには不釣り合いと言えた。おそらく、配信でも利益を稼げているのだろう。
 部屋の中央には大きなダブルベッドがある。配信の背景で映っていた。彼氏は不在。だけどできたときのためにも大は小を兼ねるとダブルベッドにしたという話である。男性ファンが信じていたかどうかは定かではないが、女性ファンを代表すると賴香はそれを信用していた。
 配信の設備に何も言わない私に、悪戯顔で聡利が尋ねる。
「やっぱり、私のこと知ってた?」
 呆然と肯定を表情全体に浮かべ、私は聡利を見返した。
 その反応だけで全てを察したようで、彼女は私に首肯を返す。
「彼氏もいないし、学校が始まるまでずっと暇だし。せっかく仲良くなれたんだから生徒と交流したいからいつでも遊びに来ていいわよ。アラバマの祈りも貸してあげる」

◆    ◆

 夏休みの宿題を急ぎ終わらせ、私は聡利の部屋への滞在時間を延ばしていった。
 八月の十日にもなると、私は朝から夕方まで彼女の部屋に居着いていた。それでも彼女は動画の配信も続けている。もちろん、私の話題は直接は出ない。だけど、私と見た映画や私の前で読んでいた小説や漫画の話をする。他の誰かが私の立場にいたら許せないだろう。だからこそ、今の私の立場が魅力的に思えて、無価値な自己に対して自尊心が高まっていく。
 彼女はあまり食事をしない。口にしているのを見かけるのはコーヒーや紅茶ばかりだった。私も相伴に預かるが、どちらにもこだわりはなさそうで、だからこそ、彼女の部屋は居心地がよかった。
 ベッドでお互い本を読んでいる最中、不意に彼女は私の唇に軽く、自分の唇を当てた。ついばむようなキスだった。奪うというほどには大事にはされていない、私のファーストキスだ。価値のない財宝が隠された、私の心は施錠さえされていない。鍵のかかっていない部屋で剥き出しのまま晒されたパンケーキ。それが私のファーストキスなのだ。それを、彼女は奪ってくれた。
 味も香りも先ほど聡利が口にしていたストレートの紅茶。
 承認欲求という言葉に、同世代の彼らは躍起になるのも頷ける。他者からの承認は短期間で得られるものではない。当たり前だ。それは自分が積み重ねたものへの評価であり、だからこそ長い人生を人間は駆け抜けるのだ。短期的にそれを得ようとすれば、人生という構造が一から破綻する。誰かを愛する。子を成す。夢を叶える。お金を稼ぐ。社会と自己の間で努力と才覚と幸運を差し出しながら、最終的に得られた手札を眺めて満たされるものだと思っていた。
 だから、私の奥底にある渇望はずっと満たされるはずがないと信じていた。
 私はこの陶酔を知らなかった。飢えかつえることには慣れる。満たされた経験が飢えに耐えられない浅ましさを付与する。私は聡利に絡め取られた。
 相手が私を大事にしているのが伝わる。私の感情もきっと聡利に知られてしまっている。視線の交差は意識の交錯。そんな風に自己陶酔に満ちた勘違いを私はした。聡利は私を愛しく思っていると偽装し、私は聡利に対する万感の信頼を盗んだ。
 彼女は何も言わない。
 私は何も言えない。
 心の窓が瞳なら、口は心の排泄口だ。汚い心からは濁った言葉しか発されない。だから私の唇には価値はなく、むしろ彼女が重ねてくれたことに心底からの喜びを抱いた。これも愚かな勘違いだと後になって思う。私が汚いと自認しているからこそ聡利は私にキスをしてくれたのだ。それは私が愛しいのではなく、そう思わせたいだけでしかない。
 それ以上何をしたかと言えば、結論からすればそれだけで終わった。私はきっと聡利に望まれたらなんでもしたと思う。その時の彼女への信頼と高揚を踏まえれば、倫理も法も常識も私にはきっと無為だった。だけど、彼女はそこで一度終わりにした。大事にされたとさえ思った。
 乙女ゲームで言えば、私のルートはそこで確定した。スチール絵の回収が行われるかだけの違いであって、私はそこから先を頼まれても、そこで中断しても同じだ。極まった聡利に対する好感度が、彼女の本心を身勝手に良い方に解釈し、結果私の気持ちは高まるだけとなる。
 だから、彼女の提案を呑んだのも私の意思だったし、同時に彼女の意思であり、流されただけで合意ではなかったのかもしれない。私は結局、自分の選択に責任をとれない子供だった。
「私ね、あなたになりたいわ」
 不意に彼女は口にする。
「私も、聡利になりたい」
 そうだ。この思いは恋愛ではない。恋愛に酷似した憧れ。憧れとの合一を恋愛だと誤認しただけの話。子供だった私には、恋愛に似た衝動とそれ以外の区別はつかない。
 彼女から口にされ、そこで私は自己の気持ちに気づいたのだ。
 その衝動を推しだなんて誤認していた自己の歪さに嫌悪が湧く。憧れた。羨ましかった。あなたのような美しさと声音と話術で、他者に認めてもらいたかった。
 私は聡利になりたかった。
「でも、私には何もない。聡利が私になんてなってしまうのは嫌」
 本心からの言葉だった。整理しきれない感情が目から漏れる。私はこれほどに泣き虫だっただろうか。憧れになりたいというのも本心だが、憧れが私のように落ちるのが嫌なのも本心だった。
「そんなことない。私は頼香になってみたい。あなたは自分の美しさを知らないのよ」
 涙をせき止めていた手を離す。潤んだ視界に聡利を映す。彼女が嘘をついているようには思えなかった。
 そうだ。これは嘘ではなかった。ひょっとしたら彼女の言葉で、嘘ではなかったのはただこれひとつだけだったかもしれない。
 久利堀聡利は、私になった。それは紛れもない事実なのだから。
「私をあげたら、私が聡利になれる? そんなことあり得ない」
「世の中にはね。不思議は沢山あるの」
 彼女は私の頭をかき抱いた。そのとき、聡利はどんな表情を浮かべていただろう。
 憧れを用いて人を騙すダマシの一種。
 アコガレダマシは、ここに私という餌を絡め取った。

◆    ◆

 目を覚ますと、部屋には聡利の姿がなかった。スマホを探そうとして、違和感に気づく。服が違うのだ。制服ではなく、聡利の服のように思われた。
 眠る前に何かがあったのだろうか。と記憶を探り、すぐに気づく。あれは夢だったのだろうか。それとも、現実だったのだろうか。どちらにせよ、入れ替わるなんてあり得るはずがない。
 望んだはずだった。そんなことができるわけがないと一方で納得していた。だからこそ私は聡利の提案に乗り、ただ頭を抱きしめられた。
 ベッドから降りて、鏡の前に立つ。見間違えるはずもない。私は久利堀聡利になっていた。
 聡利が言った通り、私は聡利になり、聡利は私になったのだ。
 驚くとしても現状を理解できない。思えば体感も異なる。身長が聡利の方が一〇センチ以上も高いので、自然と部屋の広さが違って見える。
 目覚めたときに私の身体はなかった。空河賴香になった久里堀聡利は、何処かへ姿を消した。
 帰ってくるものだと信じていた。入れ替えたのは身体だけ。生活するには様々な情報を提供しあわなければならない。例えば、手元に残るスマホの認証とか。顔認証ではない聡利のスマホは、パスワードを知らない私には解除できない。万能の板は発熱くらいにしか役に立たない。
 ひとりには広すぎるダブルベッドで膝をかかえる。私のスマホは手元にない。私の身体に入った聡利が持ち去ったのだろう。なら、彼女は空河家に帰ったのだろうか。部屋には置き時計はない。考えが甘かった。スマホはこの部屋で時刻を教えてくれる唯一の器物だった。時刻は夜十九時。長く眠りすぎた。私の門限は十八時だ。聡利は私の身体で、空河家へと帰ったに違いない。
 きっとそうだ。私を捨てていったわけじゃない。漠然とした不安は、実体のない浮遊感から付与されている。門限を破って困るのは聡利よりむしろ私だ。空河賴香に捜索願が出されれば、久里堀聡利になった私に捜査の手が伸びるはず。そうなった場合、私は周章狼狽するばかりで上手く取り繕うことはできないだろう。
 スマホを手に取り、身支度を整えた。化粧水。ファンデーション。聡利に教えてはもらったが使った経験のない女性の必需品を慣れない手つきで試す。失敗と洗顔を繰り返し、それなりに高価なはずの聡利の化粧品を無為に消費しながら、聡利の顔を真似ようと足掻く。私は聡利のファンだった。だからこそ判定は相応に厳しいはずだから、人前に出られる最低基準はクリアした。
 続いて服装を選ぶ。セットの下着をつけて、再び鏡の前に立つ。完成度は低いけれども、それでも鏡面には私の知る聡利が映っている。喜ぶべきものだ。欲しいものを与えられた。必要のない空河賴香を喪失し、私は憧れの久里堀聡利になったのだ。
 背筋が無意識に伸びる。聡利の顔。聡利の身体。配信で憧れ、実物を見て依存した私にとっての願望の体現だ。恐れる必要はない。明日になれば、私の顔をした聡利がきっとこの部屋に戻ってくる。
 夏休みもまだ半分は残っている。楽しみは後に残す癖のある私は、夏休みの宿題は既に完璧に終えている。明日からは聡利と一緒にこの部屋で、これからの生活の準備を始めるのだ。
 胸のつかえは取れた。同時に空腹に気づく。昼から何も食べていない。夕餉時だ。体型を意地できる食事量を聡利から聞かなければならないが、今日くらいは叶った夢のために豪勢な夕食を食べよう。と言ってもひとりでの外食は未体験だ。聡利の身体でならできるような気がしたが、良い店を私は知らない。
 私の豪勢な夕食はコンビニの商品に限られた。
 ハンドバックを手に取り、財布を見る。数万円は財布に入っている。助かった──というより、流石にその辺りは聡利が考えておいてくれたのだろう。電子決済は交通系ICカードくらいしか使えない私のために、現金を置いてくれたのだ。
 玄関に移動する。頭半分高い聡利の視点は見慣れた部屋でさえ違う景色に見える。パンプスとヒールで迷い、ひとまず私はパンプスを選ぶ。ぴったりとし過ぎていて、思いのほか履き心地の悪いパンプスを吐いて、私はコンビニへと向かった。

◆    ◆

 コンビニまで徒歩二分弱と店内での買い物の最中というわずかな時間で、私は既に視線を幾度も感じていた。男性はもちろん、女性からもだ。性別を問わず魅力的に映る聡利の外見。最初は誇らしく感じたが、こんな人気が少ない時間帯でもこれなのだ。人通りの多い場所にいったらどうなることやらと考えた。ひょっとすると聡利はこういった視線が嫌で、私と入れ替わりたかったのかもしれない。
 影よりも霞よりも存在感の気迫な私を、聡利は羨んだのかも──と。
 欲しいものをカゴに入れてレジ前に立つ。店員の二十代前半くらいの男性と目が合った。普段の私ならおどおどと視線を下に向けるに違いないのだが、私は臆することなく笑顔を返した。すると彼は頬を小さく赤らめて、さながら私のように視線を落とす。どうやら男性には私などよりはるかに覿面に効果があるようだ。安々と振りまいてはならない魔性の笑顔である。
 レジ袋を下げてご機嫌で夜道を歩く。誰ともすれ違わなかったのは幸運だと言えた。聡利にはどのように自衛しているのか確かめなければ。男性は狼だとは古くから伝わる謂いだけれども、それはきっと聡利のような目も眩む美人になればこそ実感できる。門限が早く、満員電車に乗る必要がないというのも一因だろうが、この私、つまるところ花の高校二年生である空河賴香は、人生において痴漢というものにあった経験がない。もちろん幸運だと思っているし、その上で一応は警戒をしているつもりだが、私のような人間が自衛するなんて、ひょっとしたら周囲の男性を不必要に怖がっているだけなのかもしれない。……とはいえ、異性も暗がりも同じくらいに怖いのは防衛意識からというより本能的なものなので無理に治そうとは思ってはいないけども。
 レジ袋を揺らさないように注意しつつも、軽快な足取りで私は聡利のマンションへと歩く。レジ袋には炭酸入りのお酒が入っている。聡利の姿であれば身分証の提出は必要がなかった。ところで聡利のような美人は住所が掲載されている身分証を安々と年齢認証のために提出しても良いのだろうか? これまで年齢の確認なんて友人と行く映画館で幼さの確認にしか用いた経験がないのでその辺りには明るくない私だが、少々警戒心が不足しているように思う。聡利に尋ねる質問事項として、心にメモ書きした。
 マンションの入り口が見えてきたあたりで、人影が見えた。警戒心は即座に安堵に変わった。見知らぬ相手だったが、相手が女性だったからだ。
 視線を感じるのは聡利の美貌からすれば当然とさえ言える。だけど、彼女は他の人とは違っていた。他の人間は視線を向けているのを気づかれたくないようで、チラ見を繰り返すだけだ。しかし彼女はまっすぐに私を見つめている。
 大きな黒い瞳。細いがしっかりとした鼻筋に、厚みは薄くともほのかな桜色を帯びた形の良い唇。身長は聡利より少しだけ低い。一六〇台半ばだろう。ショートカットで揃えた髪は活動的な印象を与えがちだが、覗く首元の白さが打ち消していた。
 服装は──なんだ、あれ。全体的な印象は洋風というか普通の服だ。前開きの白シャツと赤基調のパンツルックといえばイメージは外れていない。しかし、それらを構築している布地は着物の生地に似ていて、細やかで高級そうな刺繍が入っている。
 月の光がよく似合う。その瞳には真実を暴く機能があると教えられたら素直に納得してしまいそうだ。現に。そう、現に。彼女の瞳に映る私は、聡利ではなく空河賴香の顔をしているように、幻視した。
「困ってない?」
 至極簡潔に、女性は私に尋ねてきた。胸のどこかに痛みが奔った。本当は胸ですらないのかもしれないし、一瞬しか感じなかった痛みはただの錯覚だと考えるのが自然だった。だが、痛覚を通していない確かな痛みの名残が余韻を伴って脳にこびりつく。
 私と聡利の間で行われた身体の交換は、他人に悟られるはずがない。自分だってまだ夢見心地で、なんならただ夢を見ているのだと思っている。当人にさえ信じられない奇跡を見透かして、その結果起きる未来さえ透視しているかのように、女性は私に助け船を差し出した。
 私は無言で首を振った。そこで遅まきながら気がついた。私は聡利の交友関係を知らない。よって、目の前の女性が聡利の知己である可能性がある。私の狼狽を察したかのように、女性は表情を緩めて。
「それならいい。悪いね。初対面なのに突然話しかけてしまって」
 どうやら聡利の知り合いでもないようだった。女性はパンツから手帳のようなものを取り出す。それは手帳型のスマホケースらしかった。そこから名刺を取り出すと、彼女は片手で私に差し出した。
 無意識に手が伸びて、無作法にも片手で受け取った。
 電話番号の記載はなく、メールアドレスといくつかのSNSの連絡先、それに名前が記載されている。
 都市伝説研究家、暁遠庵枢(ぎょうおんあん くるる)。
 名前も名前でとんでもないが、肩書きがそれ以上にインパクトがあった。
 なまじ、日常から足を踏み外した幸運を得たからか、びりびりと肌が粟立つように警戒を覚える。
「あの──」
 聡利らしくない、私そのものの声をして、私が女性に尋ねようとしたときには、女性の姿は闇夜に紛れて消えていた。
 彼女の方がずっと都市伝説なのではないだろうか。
 ひとり残された私は、ぽつねんと立ちながら名刺をためつすがめつした。名刺にある連絡先には、こちらがアクセスしたことを知られる心配のないSNSもあった。機会があれば、それを見るくらいならいいかもしれない。
 そこで私は買った食事とお酒が熱帯夜の気温に冒されているのを思い出し、足早に部屋に戻った。

◆    ◆

 何事もなく、三日が過ぎた。スマホは相も変わらず時計と充電しかできない。つまり、久里堀聡利の部屋には空河賴香となった聡利が訪れないという意味である。私は彼女の身を案じた。特に空河家は厳しいというわけではない。だが、たとえば──そう、親子の情といったものがあって、両親に感づかれたのではないだろうか。
 感づくとして、それは何に。娘の中にいる人格が別人のものだと直感的に気づくのか。超常現象が起きない限り発生しないような不自然を、親の愛が見透かすのか。
 ただ生活するだけなら三日間という日程はもちろん大変なわけではない。誰にも会わない三日間は確かに寂しいと感じるには十分な長さである。思えば一日中誰にも会わなかった経験など、私の人生にあっただろうか。ただ、寂しいだけだ。最低限の家事は仕込まれていたので、コンビニ弁当に飽きたら手料理を食べるという切ない自給自足もできる。洗濯は当然として、聡利の着用していた白衣やスカートもアイロンがけしてハンガーにかけてある。全く使われた気配のないアイロンが部屋の片隅に残っていたおかげだ。聡利は家事は外注するタイプの人間だったらしい。それはさして不思議にも思わなかった。調理をした際にも包丁やフライパン、それどころか電子レンジでさえ使用頻度が絶無のように感じられたからだ。こんなことなら入れ替わる前に、彼女の部屋で家事をしてみてもよかったとさえ思った。
 ──脱線した。言いたいのは、日々の生活にはなんの不満もないということだ。とはいえ、先々に対する懸念事項は無数にある。
 養護教諭というものはいったい何をすべきで、それが私にできるのか。
 クレジットカードや預金口座の残高を私が勝手に使っていいのか。いいのであれば、その暗証番号とか。
 できるなら図書館のカードも手に入れたい。財布を探してみたが運転免許証や保険証を初めとして、久里堀聡利の身分証明に使えそうなものは入っていなかった。どうやら財布に入れて持ち歩かない主義らしい。図書館のカードはマンション宛に来た郵便物でも作成可能なはずだったが、不幸にもこの数日、四〇四号室に郵便物が届いたことはなかった。
 ――それに。徐々に偏頭痛が激しくなってきていた。一日目は特に何も思わなかったが、今日は頭痛で目が覚めたくらいだ。ひょっとしたら聡利は、この頭痛が嫌で私と入れ替わりたかったのだろうか。
 だから。
 私は今、慣れた道のりを歩み懐かしの我が家へと向かっている。
 会うにしてもどうやって説明するのか。
 仮に聡利が私の家に来たら両親がどう対応するか、シミュレートした。時間は昼間。お父さんは会社だから、きっとお母さんが対応するだろう。
 ――学校の養護教諭です。娘さんが体調を崩しがちだったので心配で――
 不自然だ。せめて高校から電話があればマシだろうが、見知らぬ美人――これが今、自分の肉体だというのが驚きだが――が不意に現れればうちの母親なら警戒する。何に? といっても当人にだってわからないだろう。つまるところ空河家とは平凡な家庭で、久利堀聡利のような美人には縁がないのである。
 考えがまとまらないまま、私は家へと向かい、その途中でまたも人影が現れた。
 都市伝説研究家。暁遠庵枢。
「やあ、宗像頼香さん」
 彼女は私の本当の名前を呼んだ。何が悪いのかは自覚していないが、後ろめたさが刺激される。大した理由もない嘘を見破られたときに感じる、幻肢痛のような罪悪感だ。
「今は家に向かわない方がいい。アコガレダマシは狡猾だからね。金髪女性のストーカーがいると方々に語っているようだ」
 アコガレダマシという言葉を耳にしたのはこのときが最初だった。何の話だと私は柳眉をひそめた。聡利の眉だから私はその表現をするのに躊躇はない。
 彼女はスマホを私に差し出す。画面には私の愛用していた動画配信サイトがあった。登録者数は七千人。少ないのだが開設が三日前で動画が三個しかない。それを踏まえれば驚異的な登録者数と言える。
 最新の動画タイトルにはストーカーに狙われている気がする、という文言があった。
 それが私に何の関連があるのか。動画配信サイトと久利堀聡利の間にあるミッシングリンクを知る私には偶然には思えず、私はその動画をスマホの所有者に確認をとらず、再生した。
 短い動画内容で、内容は至極簡潔なもの。
 画面の中の少女が、困った顔をして訴えている。
 ――ひょっとしたら、この動画を見てくれてるかもしれないから、伝えておきます。金髪で美人なアナタ。どこで私のことを知ったのかわからないけど、家に訪ねてくるのはルール違反です。
 声音に気持ち悪さを感じる。この特有の感覚を思い出そうとして、すぐに検討がつく。
 私の声だ。
 録音した自分の声を聞いたときのあのざわざわとする感覚が頭蓋を揺らす。
 だけど、どう見直しても画面に映る少女は私ではない。私はこんなに可愛くない。
 震える私の肩に、手が乗せられた。それでようやく、暁遠庵の存在を思い出す。
「騙されるのは子供の特権だ。だけど――致命的なダマシを看過するわけにはいかない。私に事情を話してくれないか?」

 連れていかれたのはチェーンではない喫茶店だった。アイスコーヒーの注文を終えた後、暁遠庵という女性は直裁に告げた。
「改めて。暁遠庵枢(ぎょうおんあんくるる)だ。大学生でね。現代にアップデートされた都市伝説や妖怪変化を趣味で調べている」
 再び差し出された名刺を受け取る。以前渡されたものは部屋に置いたままだ。何故かといえば、パソコンもスマホも認証が突破できない以上、彼女に連絡する手段がなかったからだ。電話番号はなく、各種SNSのアカウントやメールアドレスだけ。電話番号がないという事実は私の疑心暗鬼を活性化させる。仮にも騙され、身体を奪われたばかりだ。どれだけ他者をどれだけ警戒してもし過ぎにはならないだろう。むしろ、たったふたりで喫茶店に入った時点で経験が生きていないと諭されても不思議ではなかった。泣きっ面に蜂。盗人に追い銭。千年前から都市伝説なんてものより語られ尽くした、騙された敗者に迫る更なる不幸。騙される人間はもう一度どころかずっと騙される。
 それでも私は縋るしかなかった。この奇矯で奇妙な女性に。
 無言で名刺に視線を固定させる私を、彼女は観察しているに違いない。顔を上げて正面から彼女を見返すタイミングを私は逸していた。幸運にもそのタイミングでアイスコーヒーがふたつ、座席に置かれる。
 名刺をどうすべきかわからず、私はテーブルの上に置いたまま、アイスコーヒーを経由して視線を暁遠庵さんへと戻した。
「私はね。久里堀聡利が都市伝説的異形──つまるところの妖怪や怪異の一種だと思って調査をしていた。たった二度ほどだけどね。久里堀聡利のようなアコガレダマシの被害を受けた人間は」
「アコガレダマシとか、そんなことを突然言われても、信じられないんですけど」
 私は暁遠庵に対し、率直な感想にもならない反応をした。暁遠庵は「うん」と鷹揚にうなずく。
「そうだろうね。特に今は騙されたばかりだ。警戒を怠らないのは良い傾向だよ」
 これまでの怜悧で神秘的な無表情から打って変わって、彼女は稚気が溢れる人好きのする笑顔を浮かべた。にわかな温かささえ感じるような笑顔に、私の警戒はそれだけで溶かされそうになっていた。
「私から君に求めるものは何ひとつとしてない。金銭に限らず労働も、そして強制もだ。もちろん、ここのお代だって持たせてもらう。他に信用してもらうには何か必要かな?」
「後から請求される可能性だってあるんじゃないでしょうか? だって私は、その」
 上手く言葉にできなかった。
「通っていた高校の養護教諭とねんごろな関係になっていたからかな? そんなネタで脅迫なんてできないよ。君の方が教師だったらともかくとして。子供は責任が取れないんだ」
 正面から子供扱いされる。そうだ。私は子供だ。厳粛に受け止めよう。
「そして、子供だから騙される」
 咎められた気がして、私は反論しようと彼女を見返した。だが、彼女の真摯な眼差しは私の声帯を射貫いたかのようで、何も言葉が発せなかった。
「子供同士のやりとりでね。それこそ多少騙し騙された方がいいんだよ。無菌室で育っては免疫が弱くなる。健全すぎる魂のまま、身体と精神だけは一丁前に大人になって、スマホひとつで生き馬の目を抜く社会とつながれてしまう。無防備で無警戒のままに。騙されて身体を奪われもするさ」
 不思議な物言いに、私は小さく首を傾げた。
「アコガレダマシって、妖怪なんじゃないんですか?」
 暁遠庵さんの言い分では、まるで人間相手に騙されているのと同じように感じられた。
「それではダマシについて説明しようか。ダマシというのは私がつけた現代版妖怪の総称でね。生態に沿って人を騙して何かを奪う。命か。金か。身体か。日常か。奪うものはダマシそれぞれ。憧憬か。友情か。恋愛か。劣等感か。承認欲求か。同胞意識か。騙す要因もダマシそれぞれ。──アコガレダマシは憧憬をエサに身体を奪う」
 奪うものと騙す理由の組み合わせで騙すのが、暁遠庵さんの言うところのダマシらしい。
 イメージする。
 たとえば。
 恋愛感情を弄ばれお金を奪われる。
 劣等感を刺激され日常を奪われる。
 承認欲求を喚起され命を奪われる。
 それらはどれも──
「全部、人間が人間にやることじゃないですか」
 私は反論する。まだ社会に出ていない私でさえ、そういった現実があるという事実くらいは知っている。
 配信者への投げ銭のために借金をしたり。
 自分の顔が嫌で整形し失敗したり。
 誰かに見てもらいたくて危険行為をして事故死したり。
 それは人間が人間に対して行う真似であり、決して妖怪──ダマシが原因ではない。
「妖怪は現象を再現するんだ。要は猿真似だね」
「再現?」
「たとえば河童だ。溺死体は尻小玉を抜かれたように見える。だから河童は尻小玉を抜く。ただそれだけを真似する。ビジュアルやバックボーンは人間側が汲み上げただけなんだよ」
 私もどこだったか覚えていないが、河童はで期待が被害者だと本で読んだ覚えがあった。あまりにも夢がないけれど、妖怪が実在すると考えるよりはずっと辻褄があう。
 幽霊の正体見たり枯れ尾花。昔の人は私たちよりずっと、世界を理解していたのだろう。
 だが、暁遠庵さんが言っている内容は逆だ。
 それでも妖怪は実在する。彼女はそう告げたのだ。
「同じような結果があっても、事故と妖怪の仕業である可能性が併存するってことですか?」
「その通り。逢魔が時ってあるだろう? かつては時間帯と暗がりこそが、罪人と妖怪が並列できる場所だった。薄暗がりではあやかしと夜盗の区別はつかない。修験道者を天狗と見紛うのも致し方ない。でも、今は違う」
 今のご時世には逢魔が時はない。暁遠庵さんの目はそう語っていた。
 闇夜を街灯や民家の明かりが照らし続ける街。誰しもがスマホという撮影、連絡を瞬時に行う便利な機器を有する社会に、逢魔が時など存在しない。妖怪の前に、彼らが潜む空間こそが消滅したのだと──私はそう思った、
「いや、君のような都会暮らしだとそうかもしれないがね。今だって少しでも郊外に行けばいくらだって妖怪が潜める場所くらいあるさ」
 彼女は私の内心を読み取って、私の推測を否定した。実感のない錯覚は、知識だけの理解を打ち消して認知を歪める。私だって知っているのだ。東京だって外れまで行けば、住宅が疎らな地域があるという事実を。でも、東京都民である私は、自分の生活圏内こそが東京だと思ってしまう。それはつまり、私の生活圏内と似たような空間が広がっているように、常日頃錯誤している。こういった発想は根深い。そうではないと自覚していても、咄嗟には染み着いた錯覚に基づいて反応をしてしまう。
 子供だからだろうか。大人になれば変わるだろうか。そんな考えは、きっとダマシにとっての絶好のカモだ。
 私が内罰的な感情で落ち込んでいる間、暁遠庵さんは待っていてくれた。ちょうど喉が渇いていたのだとでも謳うように、手慣れた手つきでミルクだけを入れて、ストローに口をつける。ポンプの要領で上がっていくコーヒーにさえ、羨ましさを抱くほどに浅ましくて身勝手な自分を嫌悪する。嫌悪するくせに捨てきれない自分。それがきっと、我が身可愛さに違いない。
「人前に以前より現れなくなったのは──そうだね。闇夜に潜むより効率の良い隠れ場所が見つかったからさ」
 私は理解する。それはネットの海だ。
 動画配信サイト。各種SNS。それらにある匿名性が妖怪の新たな隠れ家になった。
「ダマシは何種類もいる。被害が出る前に止めたいんだけどね。彼らは人間に紛れ込むのが上手くて、特定するのは極めて難しい。そもそも配信サイトやSNSに現れた段階では実体がないんだ。実体を得るのは騙す相手が見つかってから。君が出会った瞬間こそが、アコガレダマシが実体化した瞬間だ」
 驚愕で言葉も出ない。
「だって、聡利は――私の学校に養護の先生として入ってきて、学校で会って。それで、マンションに部屋だってあって」
 否定できる事実を羅列する。
 一方で肯定しかねない事実が脳裏に陳列される。
 ――何故、あれほどの美人にクラスの誰も反応を示さなかったのか。
 ――何故、あの部屋の家具は使われた気配が薄いのか。
 ――何故、私の前に彼女が現れたのか。
 ――何故、私の頭はこれほどまでに痛むのか。
「教えてくれないか?」
 私は呆けた顔で彼女を見返す。
「あのマンションの何号室に、聡利という女は住んでいた?」
「四〇四号室」
「あのマンションに、四〇四号室なんてない」
 地面が崩れ落ちたような浮遊感に襲われた。では私はどこにいたのだ。
 暁遠庵さんのスマホが震える。彼女はそちらに目を落とし嘆息した。
 メッセージアプリだ。私も普段は使っていた。聡利は――使っていただろうか。私は聡利との連絡手段を持っていない。そこには写真があった。私の数少ない友人。さらに通知。メッセージが届く。
 ――この子に聞いたら、あの学校には金髪女性なんて来てないって。
「アコガレダマシは人の身体を一度交換する。そこが唯一祓えるタイミングだ。この期間は過去の類例からすると一週間から十日程度。その間にアコガレダマシを祓わないとならない。緊急性が高いと判断してね。君の友人に私の助手を当てて、今の君の姿――金髪の女性を知らないか調べてもらった」
「期間が過ぎると――どうなるんですか?」
「君の意識が消える。アコガレダマシは久利堀聡利のガワをまとったものと空河頼香のガワをまとったものに増える。今の久利堀聡利もひょっとしたら誰かから奪ったものかもしれない」
「でも、アコガレダマシには実体がないんでしょ? それなら、私になっても意味がないじゃない」
「必要だったのは君自身の身体だけだからね。配信サイトの動画を見て、これが君だと誰かに気づいてもらえるかい? 今は慣らしの時間だ。君の意識が消えたとき、アコガレダマシはまたネットの闇に隠れ潜む。現実に残るのは空河頼香の失踪と新たなアコガレダマシの誕生だ」

◆    ◆

 八月十五日の登校日。終戦記念の黙祷を聞きながら、私は自分の姿を探した。
 アコガレダマシの弱点はこの期間、完全に被害者の自意識が消えるまでの間に限られる。
 期間より前であれば、被害者は騙される前で自覚がない。暁遠庵さんにさえ、その状態ではアコガレダマシに対処できない。
 一方で期間を過ぎればアコガレダマシはまた消えてしまう。そうなっても暁遠庵さんの手には負えなくなる。
 この期間のアコガレダマシは極めて狡猾で、絶対に被害者を近寄らせようとはしない。
 アコガレダマシの方も解除の方法を知っているからだ。
 解除の手段――それは、被害者の手によってアコガレダマシを殺すこと。だからこれは暁遠庵さんにも何もできない。私の手でやるしかないのだ。
 どのような経路で手に入れたのか、暁遠庵さんは私に拳銃を渡してきた。ナイフや包丁ではアコガレダマシを殺すのは難しいという理由で。容易に拳銃を手に入れた暁遠庵さんを疑う気持ちは当然あった。だが、日々激しさを増すばかりの頭痛には耐えられなかった。
 そして、アコガレダマシに会う手段はたったひとつ。アコガレダマシはこの期間、ネット上でしか自由に動けない。家の中や学校では私の振りをし続けている。だから決められたルールがあるとそれを守ってしまう。つまり、登校日には登校するのだ。
 暁遠庵さんが私が家に行くのを止めたのもこれが理由だったらしい。アコガレダマシは私の家で金髪の女性にストーカーされていると話している。その状況で私が姿を見せれば、登校日を休むという算段がとれてしまう。怪しい女性が自分をつけ回している、と言われても私がサボりたいだけで嘘をついていると思われるだけだが、実際に怪しい私が姿を見せていたら登校日にアコガレダマシは家から出ることなく、最後の手段は失われていただろう。
 ――さて。
 ようやくだ。
 私の前に、アコガレダマシによって磨かれた私の姿がある。
 教室に入り、私と対面するまでは見慣れた私の姿だった。
 目の前にいるのが私だけになったから、私の振りをする必要がなくなり、アコガレダマシの姿に戻ったのだろう。
 彼女は私を恐れていない。アコガレダマシは被害者に殺されたら目論見がご破算になる。――暁遠庵さんはそう告げた。それにしては目の前の私は私を警戒していない。
 信じていいのか?
 この手で私を殺して、本当に私は私に戻れるのか?
 疑問。銃を構える。照準が合っているのかさえわからない。アコガレダマシの反応を見て、引き金を引くか決めよう。
 ――最初は銃に気づかなければ撃つと決めたのに、この期に及んで私は往生際が悪かった。
 アコガレダマシは私の顔で楽しげに首を傾げるだけだった。
「どこで手に入れたのかは知らないけど。そんなの撃ったら死んじゃうよ?」
 耳障りな音。骨伝導を通さない私の声。私に殺される可能性がないと信じるダマシの声に。
 覚悟を決めて引き金を引いた。
 声はなかった。ひょっとしたら、発砲音にかき消されたのかもしれない。銃弾は胸に当たったようだ。頭を狙ったのだが、自分の顔を潰したくなかったのか。それともただ、照準が下手だっただけか。いくら距離は近くても、銃を撃つのは初めてだ。狙い通りに着弾すると考える方が甘いのかもしれない。
 と。目の前のアコガレダマシは倒れない。
 実際に見たわけではないから知らないのだが、銃というものは当たったら衝撃で倒れるものじゃないのだろうか。
「そっか。憧れ、消えちゃったんだね」
 声を聞いたのはどの耳か。私の声ではなかった。目の前に立っている女性を、私は見上げている。
「頼香。あなたになりたかったのは嘘じゃないわ。あなたが私になりたいように、私はあなたになりたかった」
 私の大好きだった笑顔を浮かべ、聡利は私の頬に触れる。
 私は胸に手を当てる。銃弾が当たったはずの場所は、傷どころか痛みさえもない。ただ、その奥に欠落を感じる。なりたいと思えたくらいに憧れた女性の喪失だ。
 これが初恋だったのかはきっと、今の私にはわからない。いつか他の恋をしたときに、それがダマシによるものではなかったときに気づけるだろう。
 聡利の身体が虚空に消えていく。最初からいなかったかのように。いや、私にしか見えていなかったのなら、それは最初からいなかったのだ。
 激しい塗料の臭いと、安っぽい花火みたいな火薬の臭いを、いつか思い出だと語れる日が来るだろうか。

◆    ◆

 私が校舎から出ると、安心した顔で私を見る暁遠庵さんの姿があった。
「ああ、よかった。上手く騙せたみたいで」
 胸に手を当てて、彼女は安堵の息を漏らした。
「説明、してもらっていいですか?」
「もちろん。大変なんだよ、ダマシダマシは」
 彼女は言いながら歩き出した。私はそれに着いていく。
「ダマシダマシ?」
「そ。それが私の生業さ。ダマシを騙すダマシ。と言ってもダマシではないけどね。私はちゃんとした人間さ。あらゆるダマシには弱点がある。それは餌を釣る思いをすっぱりと断ち切られることなんだ。頼香ちゃんの場合は憧れを消す必要があった」
「でも、私は今でも聡利に憧れてます。撃ったこと、後悔してないなんて言えません」
「そりゃそうさ。憧れが本物だったんだから。本物の気持ちはね。容易く断ち切れない。だからダマシは厄介なんだ。恋愛でも承認欲求でも、友情でも敬愛でもなんでもね。騙されたからって憎しみに転じる場合もあるけれど、それは大本の感情から派生しているだけだからね。愛情転じて憎しみに、ってことは憎しみの源泉は愛情なんだ。憎んでたって愛情は消えない。だから断ち切るなんて難しい」
 暁遠庵さんの言い分を信じるなら、思いを断ち切るなんて不可能だろう。でも、聡利は最後に言った。「憧れが消えた」と。
「一番簡単な手段が殺すことなんだ。物理的に縁や思いを断ち切るってわけだね。ただアコガレダマシの場合、殺してしまうと自分の身体を殺してしまう。だから、殺されたという認識をさせた上で実際には殺さない手段が望ましい。というわけで発砲音だけ本物のペイント弾がベストなわけ」
「他のダマシなら殺すだけでいいの?」
「いや、結局は他のダマシも殺すのは最終手段だね。手っ取り早いだけで。だから基本的に私はダマシを騙す。失わなければ騙されるのは良い経験と言えるけど、人を殺す感触は良い経験とはお世辞にも言えないからね」
「……私に一言くらいあってもよかったんじゃないですか?」
「そこがダマシダマシの大変なところなんだよ。考えてみてくれよ。君にあれがペイント弾だと思わせたら、ダマシを騙せない。だからダマシダマシはダマシと一緒に被害者も騙すんだ。私の目の前に被害者がいるときっていうのは騙された直後の人間だ。それを、もう一度騙さなきゃならない。大事な人間に裏切られた直後で警戒心剥き出しの相手をね」
 それは大変だろう。そんなに大変なのに、何せ報酬もない。命を救われたようなもので、私としては何かをしてあげたいのだが、バイトもしていない高校生の身。差し出せるものはなにひとつない。
 一方で私はただで垢抜けた。聡利がどのように化粧をしていたのかは知らないけれど、磨けばこうなるという自負があるとないとでは大違いだ。
「なんでそこまでするんですか?」
「罪滅ぼしだよ」
 冗談めかして言った私の言葉に、暁遠庵さんは真摯に応じた。
「何度かダマシの被害者を助けたから知ってる。何も求められないのって不安なんだよね。利益もないのに、なんでそこまでしてくれたのか。だからちゃんと私は答える。頼香ちゃんが大手を振って日常に戻れるように」
 暁遠庵さんはそう言うと、目についた自販機でペットボトルをふたつ購入し、片方を私に向けて投げた。良いコントロールで、私は手をほとんど動かさずに掴むことができた。
「私はかつて騙された。アヤカシダマシに。子供の頃から空想癖があってね。私は妖怪や怪異譚を好んでいた。その結果がこのザマさ。アヤカシダマシに出会って、私はダマシを産みだしてしまった。暗がりを求めて、暗がりを作って、そこにダマシを生み出して――だから私はダマシを騙している。だからね、頼香ちゃんは感謝なんてしなくていい。これは自分の不始末をつけているだけなんだから」
 それは違う。私はそう思った。
 だって、暁遠庵さんは――枢さんはまだ、大学生だ。ということは騙されたのは今の私くらいだったはず。
 騙されるのは子供の特権。ただ一回騙されただけで、全てを奪われるのは間違っていると言ったのは誰だ。
 枢さんにも騙される権利があって、そこから復帰しないと辻褄が合わない。
「枢さん。協力者って、募集してます?」
 私の友人に聞き込みをしたような仲間は枢さんにもいるのだろう。
「割に合わないよ? 給料も出せない。時折ご飯くらいは奢ってあげられるけど」
「大丈夫です。というか――大したことできそうにないですけど」
「いや、その気持ちだけで嬉しい」
 彼女は笑って私の頭を撫でてくれた。初恋らしきものが終わったばかりで本当に恥ずかしいのだが、枢さんの笑顔に私はドキリとした。たぶん、本能的に感じたのだ。これまで彼女が見せてくれた笑顔はただの作り笑いや愛想笑いでしかなく、今の儚げな笑顔こそが、彼女本来の笑顔なのだと。
 余韻を静かに味わいたいような気持ちを、甲高い音がかき消した。何かと思えば、ブレーキ音だった。車が一台、私たちが話している道路を突っ切ろうとして急停止したのだ。白いセダンタイプのよくある車だった。
「……ああ、ちょうどいい」
 車に目をやって、枢さんは私を隣に立たせる。
 運転席には女性の姿が見えた。後部座席のドアが開いて、私より年下に見える少女がふたり、転ぶように出てきた。片方は中学生、もう一方は小学生くらいに見える。
 運転席の女性も扉から出てきた。彼女は私と同じくらいに見えたが、運転をしているところから少し年上なのだろうと予測がついた。
「無事に騙せたみたいだね。――で? また拾ってきたの?」
 運転席の女性が枢さんに尋ねる。
「拾ってきたとは人聞きの悪い。善意の協力者じゃないか」
「頼香ちゃんだっけ? 気をつけなよ、枢のやつは生粋のたらしだからね。ダマシダマシっていうダマシなんじゃないかとさえ最近私は思い始めた」
 中学生と小学生が枢さんの腰の辺りに抱きついて、私に警戒を剥き出しにした眼差しを送る。仲睦まじいかと思いきや、手がぶつかったのか今度は互いでにらみ合った。ひょっとしたら枢さんを巡るライバル同士なのかもしれない。
「何か、ダマシの情報はあったかい?」
「断定できるのは一件。疑わしいのは数件ってところだ。疑わしい方はガキどもにもう少し調べさせるさ。断定できるのはレンアイダマシだな」
「それじゃあ向かおうか。――頼香ちゃんは家に送ろう」
「いえ、行きます。レンアイダマシってタチが悪そうですし」
 枢さんは心配げに私を見たが、すぐに頷いてくれた。きっと彼女は、大事なところで押しが弱いのだろう。そうでなければ中学生はともかく小学生を巻き込みはすまい。
 後部座席のドアを開いて、小学生が先に入り込む。中学生が入るのを待つが、彼女はそっぽを向いたままだ。仕方なく私が間に挟まれる羽目になる。
「あ。そういえば――アコガレダマシって、結局なんだったんですか?」
 助手席に座りシートベルトをつける枢さんに私は尋ねる。
「なんだった? ――ああ。そうか。確かにその説明が抜けていたね。アコガレダマシは人間のどの行為を模倣しているのか」
 ダマシは人間の猿真似をする。独創性のあるダマシはない。つまり、人間が犯す詐欺と変わらない。でも、寡聞にして私は、アコガレダマシのような存在を知らない。
「これは詐欺でもないし犯罪でもない。むしろとても良いことなんだよ。配信者に憧れて配信者になる。作家に憧れて作家になる。イラストレーターに憧れてイラストレーターになる。憧れた人間になる――それが、アコガレダマシの本質だ」
 そうか。と私は納得する。それはいわば、夢を与えたという意味である。ただ、人間は自分には憧れた人間になれないと気づいたとき、悲しみと空白を抱く。アコガレダマシは確かに私を久利堀聡利に作り替えた。そこに憧れにはなれないという絶望はない。意識の底まで私が久利堀聡利になったとしたら、私はきっと幸せだったことだろう。
 消えていった聡利の顔を思い出す。
 私だけが知る、私だけの配信者。私だけの憧れ。
 他の誰かで上書きできるのか。
 レンアイダマシ。
 響きからして悪辣なそんなダマシに出会わなかった私は幸運で。
 アコガレダマシ。
 あなたに出会えた僥倖を胸に、私はダマシダマシの手伝いをしていこう。

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