【創作小説】剣と盾の怪奇録「流言から始まる」
紙吹雪が、綺羅星のように煌めいて舞っている。
幾枚もの、名刺サイズの白い紙。夜空に散っているそれを、旭はただ見上げていた。そよ風が、旭の天鵞絨色の髪をさらう。紙の一枚が、旭の目の前まで舞い降りて来る。何も考えず、旭は手を伸ばしてそれを取った。文字が書いてある。
「『盾護旭の魂は美味い』……?」
(僕の名前?魂?)
旭はもう一度、紙吹雪を見上げる。全ての紙に、同じ文言が書いてあるようだ。それが、夜空の下、あちらこちらへ飛んで行く。地上から、紙吹雪と夜空を飲み込むように、影が広がった。禍々しさを感じるそれに、旭は息を呑む。あっという間に旭にも闇が被さり、後は何も分からなくなった。
早朝。
旭は飛び起きた。嫌な汗が全身から噴き出し、息も苦しい。何度も深呼吸した後、旭は掠れた声で呟く。
「……変な夢見たな」
旭はぼんやりと、天井を見上げる。夜は明けていて、窓から光が差していた。
(僕の魂が美味しい、って何だろう)
ただの夢。でも、妙に気になる。魂が美味いなんて、とんでもないデマだ。しばらく考えていると、階下で玄関のドアが開く音がした。叔父の弥命が帰宅して来たことを理解し、旭は考えるのを止めて息を吐き出した。
その日の夕方。
庭を掃除していた旭は、誰かに見られている気がした。辺りを見渡しても、誰もいない。気のせいかとふと地面を見ると、旭以外の裸足の足跡が、旭を囲むようにぐるりと付いている。
「えっ」
ぞくりと、全身総毛立つ。
(今の今まで無かったのに。何で、)
顔を上げると、電気を消している部屋の暗がりが飛び込んで来た。その中に、何か白いものが見える。四本。人の、四つん這いの手足。這って、こちらに向かい部屋を出て来る。夕焼けに照らされて現れたのは、ガリガリに痩けて青白い、見知らぬ男だった。旭に気付くと、にたりと笑い、顔を有り得ない方向に曲げながら駆けて来る。
「ミツケタミツケタミツケタ」
「うわ、」
背筋が凍った。人では無い、と思いながらも足が動かない。飛びかかられたところで、旭は意識を手放した。
通り掛かった弥命に起こされた旭は、足跡と四つん這いの男の話をしたが、もう何も居ない。残っていた足跡を睨んでいる弥命を、旭はぼんやりと眺めていた。
深夜。
騒音で、弥命は目を覚ました。二階の旭の部屋から。旭しかいないはずだが、宴会のような喧騒が響いてくる。
「旭か?何やってんだ……?」
旭では無いだろうと思いつつも、安眠を妨害された苛立ちで、弥命は足早に階段を上り、部屋のドアを勢い良く開ける。
「うるせぇぞ!今何時だと思ってやがる!ーーあ?」
ドアを開けた瞬間、喧騒が消える。畳から生えた数多の白い手に捕らえられた旭が、首を絞められているのを見た。それも一瞬で、手は全て消える。咳込み始めた旭に近付いた弥命の耳に、“美味い魂見つけた”という大勢の声が響いた。
次の日の夕方。
弥命は縁側で、疲れた様子の旭がうたた寝をしているのを見つけた。だが、よく見れば、酷い寝汗でうなされている。黒いもやが、旭の身体に乗っていた。
「う……」
微かな声が苦しそうに溢れるのを聞いて、弥命は旭に近付く。
(昨日から、妙だな)
「誰だ、お前は」
「ウマイタマシイ」
もやに向かって尋ねれば、それだけを答えてパッと消えた。弥命は小さく舌打ちした後、旭の身体を揺らす。
「起きろ、旭」
旭はハッと目を開ける。
「叔父さん……」
起き上がり、呆然としている旭の手には、一枚の紙があった。
「それ何だ?」
「え?」
旭が見ると、片面に文字が書いてあり、見た瞬間に目を見開いた。
「どうして、これが」
弥命も横から、それを見る。
「『盾護旭の魂は美味い』?」
(嫌なもんしか感じねぇ。何だこれ)
弥命が紙を睨んでいると、旭が口を開いた。
「……夢を、見たんです」
旭は、先日見た夢の話をする。弥命は最後まで黙って聞いていた。旭が語り終えると、感心したような声で呟く。
「なるほどねぇ……正夢になってる訳だ」
「だから、変なことが続いてるんでしょうか」
顎に手をやり、弥命は旭の手元の紙を見る。不意に、旭の影から更に濃い黒が、伸び上がった。気付いた弥命が、旭の腕を掴んで共に飛び退き庭に出て、距離を取る。
「何だ?」
低い声で言う弥命に、その黒は笑う。人の形になり、黒い袴を着た、美麗な一人の若い男の姿になった。旭と弥命を真っ直ぐ見、微笑んでいる。
「ごきげんよう、盾護旭さん、御剣弥命さん」
旭は目を丸くした。弥命の睨む目に、凶悪さが増す。
「何故、俺たちの名を知ってる」
「ずっと、見ておりましたので」
微笑んだままの男の手には、弥命が持つものと同じ紙がある。文言を二人に見せるように、紙を掲げた。
「わたくしがこちらを、皆に広めました。皆さん、行動が早いですね。もう旭さんの元へ来ているようで」
「え?」
旭の揺れる瞳を、男は面白そうに見ている。
「理由は」
弥命が問うと、男は音も無く滑るように弥命に近付き、その目を覗き込むように見る。男は、美麗さの中に一片の邪悪さを混ぜ、笑みを深める。弥命は、男の目が怪しく光るのを見た。
「貴方に、困ってほしいのです」
「俺に?」
覗き込む目を真っ直ぐに睨み返し、弥命は問う。男はそれには答えず、更に続けた。
「それに、良い見物になると思いまして。面白いことお好きでしょう?貴方」
男はふわりと飛んで、弥命から距離を取る。そして、旭を見た。
「盾護旭さんには、以前、してやられてしまいましたね。自分の手が燃えても尚、呪いを破くとは」
「呪い、って」
旭を見ながら少し戯けたように言う男に、弥命は目を見開く。
「お前。まさか俺を呪ってた呪いの、」
「その、残り香のようなモノです。わたくしを使った者は、もう人として機能していませんからね。ふふ、あれだけ粉々にされたのですから、当然ですが。だからこそ、わたくしを破った旭さんは面白い」
旭の傍らに居た弥命が、不意にがくりと膝を着く。
「叔父さん?」
「……何しやがった」
旭も屈んで、その身体を支える。男の笑い声が響く。
「始めましょう」
弥命は悪態をつきながら、微かな声で旭の耳へ囁いた。
「……旭、万寿と離れるな」
後はぐらりと身体が傾いで、旭へと倒れ込む。
「叔父さん!」
旭は訳が分からないまま、弥命を受け止める。弥命は眠っていた。男は眠る弥命を見つめ、楽しげに目を細める。
「旭さん。その紙を持って、どうぞ夢へお越しください」
「夢?」
「彼を助けたいなら」
男の言葉に、旭は弥命の服を一瞬強く握る。
「それに。彼を困らせるには、貴方が必要不可欠なんです。協力してくださいね。旭さん」
男を見上げる旭の目には、強い光が宿っている。
「叔父さんに何を、」
その目を嬉しそうに見、男は空へ浮かび上がった。
「知りたくば、夢へおいでください。そうそう。わたくしの名はアダナシ、と申します。以後お見知り置きを」
アダナシは黒い影となり、花が散るように消えていった。
旭は、部屋で眠る弥命の枕元に正座し、弥命の寝顔をじっと見つめている。謎の男と出会った中で倒れてから、何をしても目覚めない弥命。その寝息は今も健やかで、起こせば普通に起きそうでさえある。旭は手にガラス細工の亀・万寿を持ち、夢で見たのと同じあの紙を見ていた。
「夢へ行く、ってどうすれば良いんだろう」
元より悪夢や怪異に遭い疲れているところに、弥命は倒れるわ、男はさっさと消えるわで、旭には考える余裕が無かった。突飛なことばかり起こる。
「ーーその紙を持って、側で寝れば良いんだよ」
不意に隣から聞こえた声。旭が見れば、青い着物の少女が一人、座っている。彼女自身が青い光を放ち、旭の目にも人間ではないことが分かる。
「君は、」
「貴方の魂が美味しい、って聞いたから来たの。でも、もっと面白いことになりそうだから」
少女の言葉に、旭はぞくりとする。
「私は食べないよ。やめた」
にっこりと、少女は怖いような笑みを浮かべる。旭はゆっくりと、深呼吸した。
「ありがとう。教えてくれて」
「うふふ。食べない代わりに、夢に行くの手伝ってあげる。たくさん集まってるから。ここで、身体を守っててあげるね」
部屋の向こうで、ざわざわと何か大勢の気配がする。顔色を失くす旭を笑い、少女はふわりと浮いて、旭の瞳を覗き込むように見た。少女の目が、星のように輝く。その光に、旭は目が眩んだ。
「なっ!?」
視界が青い光の渦になる。めまいがして、両手に万寿と紙を持ったまま、旭は弥命の傍らに倒れ、何も分からなくなった。
旭が目を開けると、そこは懐かしい場所だった。
祖父母の家の側にある、大きな神社。人は誰もおらず、連なる提灯の明かりがぼんやりと照っている。その参道を、旭と少年は歩いていた。深緑色の髪に同じ色の袴姿の少年は、旭のお守りであるガラス細工の亀・万寿と名乗った。
「やっぱり、君は万寿だったんだね」
旭が柔らかく笑うのを見て、万寿は首を少しすくめる。
「名乗り遅れてまして、すみません」
深緑色の髪は、万寿の両目を覆っていて表情が分かりにくい。だが、落ち込んでいるのが伝わって来る。旭はそっと、万寿の頭を撫でた。
「いつもありがとう」
万寿はハッとしたように旭を見上げ、嬉しそうに笑う。それを優しい眼差しで見てから、旭は辺りを見た。
「知ってる場所だけど、微妙に違う……やっぱりここは、夢の中なんだね」
しばらく歩いて行くと、大き過ぎる神木が現れた。その根元に、誰かが座っている。
「……叔父さん?」
旭はパッと駆け出す。万寿も続いた。座る弥命は眠っていて、身体中に巡る白い紐のようなもので木に縛られている。屈んだ旭は弥命の肩に触れ、身体を揺らす。左耳の朱い大きな金魚も、ゆらゆらと揺蕩う。
「叔父さん。弥命叔父さん!」
緩やかに、弥命は目を開く。旭を見ると、息をつき、笑みを浮かべた。
「旭か」
「叔父さん……」
旭はホッとして息を吐き出す。弥命はそんな旭を見て笑う。
「動けねぇから寝てた。夢の中で寝るってのも変な話だが。万寿はちゃんと、側にいるな」
「叔父さん、万寿のことーー」
言いかけた旭の言葉を、万寿が遮る。
「旭さん!」
万寿の声で旭が振り向くと、木の影が黒く伸び上がり、アダナシが現れた。にっこりと微笑む。
「ごきげんよう、旭さん。弥命さん」
「アダナシ……」
立ち上がった旭が呟くのを、弥命だけが聞いている。アダナシは、旭を見て嬉しそうに笑った。
「来ていただけて嬉しいです、旭さん。早速始めましょうか。弥命さんを助けたくば。縄を結んで来てください」
「……はい?」
「場所は、貴方の夢にある貴方の家の庭です。そこに、黒い大きな縄が二本ありますので、それを結んでください」
様々な疑問が浮かぶが、旭は空を睨みつつ、考え考え言う。
「結ぶだけで、良いんですか」
アダナシはにこりと笑う。
「ええ。それだけです。邪魔はしませんよ。私は弥命さんに困ってほしいので」
旭は首を傾げる。
「それでどうして、叔父さんが困るんですか?」
「結んでもらって、貴方が弥命さんを助けたら、分かります」
(なら、結ばない方が良いんじゃ。でも、叔父さんが、)
ふふ、とアダナシは笑う。
「悩んでいますね。このままでは、弥命さんはずっとここに縛られたままですよ。弥命さんもいくらか試されたようですが、ここからは逃げられません」
弥命はアダナシを睨んでいる。その視線を受け、アダナシは可笑しそうにまた笑った。万寿がぎゅっと、旭の服の裾を掴む。旭は、弥命とアダナシを見比べて、深く息を吐き出した。
「結んで来ましょう」
「さすがです」
アダナシは、小さく拍手をする。
「旭、」
弥命の声に、万寿はパッと旭の服から手を離す。旭は弥命に向き直って、また屈む。苦い顔をした弥命の額には、大粒の汗がいくつも浮かんでいる。
「ここで起きているのは、大変なんですよ」
背後から、アダナシの楽しそうな声が掛かる。
「叔父さん」
(叔父さんが困るなんてこと、あるのかな。今も、そうといえばそうなのかもしれないけど)
普段の弥命を見ている分に、旭にはイマイチ想像がつかない。
「叔父さんって、困ることあるんですか?」
旭の質問に、弥命は目を丸くした後、旭を軽く睨んで笑う。
「こんな時に、んな質問されることだな」
旭はハッとする。
(それもそうだ。喋るのも辛そうなのに)
「すみません」
旭は服の袖で、弥命の額の汗を拭う。
(叔父さんに気の利いたことは、言えそうに無いな)
弥命は目を見張って、旭を見上げる。
「行って来ますね」
弥命は何か言おうとして、めまいに襲われる。声も掠れて言葉にならない。それには気付かず、万寿を伴って、旭は立ち上がる。少しふらついたのを、万寿に支えられた。旭も、疲弊している。参道を進んで突然消えた二人を、弥命は苦い思いで見送った。
(旭の方がダメージがデカい……コイツ、これも見越してやがるな)
酷い眠気に襲われ、思考は散る。弥命の視界は直ぐ真っ暗になった。
アダナシは楽しそうに弥命を見ていたが、やがて姿を消した。
旭と万寿は、自宅の庭にいた。
置いてある物、生えている植物が微妙に違い、まだ夢の中だと再認識する。
三日月の照らす庭には、空から降りる黒く大きな縄が二本あった。二人で見上げても、どこから縄が降りて来ているのか分からない。
「これを結べば良いのかな」
「黒い縄ですしねぇ」
二人顔を見合わせた後、旭は二本の縄を結ぶ。結ばれた縄は形を変え、結び目の先が上向いた。ぐにゃりと、空間が歪む。
「わ、」
「旭さん、縁側に」
万寿に言われて縁側を見てみれば、弥命が倒れている。
「叔父さん」
旭が声を掛けて揺すると、弥命は目覚めた。
「だりー……身体が動かねぇ……」
息を深く吐き出し、弥命は旭を見上げる。
「旭。夢はお前がそう望めば、いくらでも変えられる」
「それって……」
旭の言葉は最後まで続かなかった。頭上から、地中から、数多の影が現れて、旭は地に倒される。
「うわ、」
「旭さん!」
万寿の声が聞こえるが、旭には姿が見えない。黒い手、白い手、巨大な目玉、布のようなモノ、鬼、人の形をした何か、そういった人間ではないモノたちに身体中を掴まれる。彼らに埋もれ、旭の姿は見えなくなっていた。食べようとする口が迫って来るが、淡い緑色の光に阻まれて、皆、旭を口にすることは出来ない。弥命の側に立つ万寿が、目を閉じて手を組み、旭を守っている。庭中に妖たちが溢れていた。
「ーー始まっていますね」
アダナシが、旭たちと対峙するように姿を現した。
「てめぇ、この為に縄を結ばせたな」
弥命が寝たまま、射殺さんばかりの目でアダナシを睨む。アダナシは満足そうに笑って頷く。
「ええ。縄を結んだら、彼らがやって来れるようにしました。貴方は困るし、けれど面白いものも見られるし、一石二鳥でしょう?」
弥命は、悔しそうな、痛みを耐えるような顔になって更にアダナシを睨む。
「良いですよ、その表情。人間はそうでないと。呪いが生きられなくなる」
アダナシは詠うようにそう言うと、微笑んだ。会話を聞いていた旭は、内心首を傾げる。
(僕がこうなると、何で叔父さんが困るんだろう?)
弥命は旭の魂が食われたところで、面白いものを見た、で済ませそうなところがある人物である。考えている内、また強く身体を掴まれ、押さえつけられた。
「う、」
旭の身体は怠くなって来て、上手く力が入らない。
「防いでいるだけでは、亀さんの力が持たなそうですよ」
万寿の額には、うっすら、汗が見え始めている。楽しげなアダナシの声に、旭は頭を振った。
(どうすればいい?叔父さんは動けないし、万寿も……)
旭は強く目を閉じる。弥命の言葉が甦った。
(夢は、僕がそう望めば、いくらでも変えられる……)
瞼の裏の暗闇に浮かんだのは、何故か、祖父との幼い頃の思い出。幼い旭は、さっきまでいた神社の境内で、祖父の隣に座り、祖父が持つ甘酒を見ている。祖父は、旭を見て微笑んだ。
“この神社の甘酒には、元気になるだけじゃなくて、悪いモノを払い、福を招く力があるんだよ。旭も、神様にありがとうして飲もうね”
(それは、僕にじゃなくて、)
祖父と甘酒だけが、鮮明に浮かび上がる。
「……叔父さんに」
旭が、自分が声に出して呟いていたことに気付くと同時に、縁側から声が響く。
「やれやれ。相変わらず面白いことを巻き起こすね、お前は」
「……親父」
座る旭の祖父に抱き起こされた弥命が、甘酒を飲まされている。旭はその声を聞いて、何も分からないながら、安堵する。
(叔父さんは大丈夫。後は万寿が。ここから抜け出さないと)
アダナシは、面白そうに目を細めた。
数多の手が、足が、身体が、旭を押さえつけてびくともしない。痛くはないが、冷たく、重かった。
(どいてくれ……!)
旭が念じると、妖たちはパッと旭から離れて散る。起き上がった旭の目に、縁側から庭に降りて来た弥命が映った。ざわざわと、妖の波が割れる。祖父の姿は、もう無かった。
「流言には、流言だ」
しっかりとした弥命の声が聞こえて、旭は弥命を見た。言いながら掲げた弥命の手に、白い紙が現れる。それには、
『盾護旭には魔を祓う力がある』
そう、記されていた。それを、その場にいる全員が見た。弥命が紙を空へ放ると、それは無数に増え、夜空に散らばって行く。旭に郡がっていたモノたちは、逃げるように姿を消しはじめ、やがて何も居なくなった。万寿が、旭の元へ来る。旭たちとアダナシだけが、庭にいた。アダナシは変わらず微笑みながら、旭たちを見ている。
「もう少し困っているところ、見たかったんですが。仕方ないですね」
「二度と姿見せんな」
凶悪な目で睨む弥命を、アダナシは楽しそうに見る。
「それは出来ません。私の存在は、貴方への呪いが起因なのですから。それに、旭さんが面白いので」
「……僕が?」
アダナシはふわりと浮いて、旭を見下ろす。
「私が困ってほしいのは、弥命さんだけですが。それだけじゃないんですよ、今回は」
アダナシは旭の胸元に、手を押し当てる。青い光が旭の中に入り、旭は小さく呻いて膝を着く。
「『夢渡り』、確かに授けました。これも、呪いを破った縁、ということで」
「おい!」
旭を支えながら怒鳴る弥命に、アダナシはにこりと笑いかける。
「ごきげんよう、旭さん、弥命さん」
アダナシは黒い影となり、花が散るように消えていった。
旭は、弥命の部屋で目覚めた。
寝ていたはずの弥命の姿は無く、自分が布団で寝ていたのだ。あの少女も居ない。
(……僕、どうしたんだっけ。叔父さんは、万寿は、)
起き上がると、酷いめまいがする。枕元に、ガラス細工の亀・万寿が置いてあったのを見た。喉が渇き、咳が出る。
「お、起きたか、旭」
襖が開いて、弥命が顔を出す。叔父さん、と言いかけて、また咳が出る。それを見て、弥命は笑った。
起き出した旭が縁側に行くと、外は夜だった。
座っていた弥命の隣に並んで座り、夜空を見る。弥命は、黒地に浮世絵のような雲の主張が激しい柄シャツ姿で、変わらず左耳に大きな朱い金魚を揺らしていた。丁度吸い終えた煙草を始末し、旭を見る。
「叔父さんは大丈夫なんですか?」
「おかげさまで、ピンピンしてるな。少し、だりーけど」
「そうですか」
ホッとして、旭は息をつく。
「あの夢の中のこと、叔父さんも全部覚えてますか?」
「覚えてるぞ。まさか甘酒出されるとは思わなかったけどな」
くつくつと、弥命が笑う。
「何故か昔のことを思い出して。本当は違うものの方が良かったんでしょうけど」
「旭らしくて良いんじゃねぇの。ーー旭は調子悪いとか無いのか。そもそも疲れてただろ」
「大丈夫です。まだ眠いくらいで」
ふうん、と弥命は思案げに呟く。それから、怠そうにぼやいた。
「アダナシ、って言ったか。面倒くせーのに捕まったな。良い迷惑だ。俺らなんもしてねぇのに」
旭も頷いた。とばっちりも良いところである。
「結局僕はもう、魂食べられたり幽霊に襲われたりしませんよね?」
「大丈夫じゃねぇか?お前もう、魔を祓う設定ついてるし。流言だけど」
「それ大丈夫なんですか」
不安げな旭に、弥命は笑う。
「七十五日もすれば、やむだろ。やまないなら、そんときゃそんときだ」
適当に言っているようにしか聞こえないのに、旭は、なら大丈夫かと思ってしまう。
(叔父さんが言うなら……いいか)
黙った旭を眺めながら、弥命は改まった声を出す。
「旭は、俺が困ることあるのか、って聞いたな」
思いもしなかった言葉に、旭も弥命を見る。
「はい。そんな場合じゃなかったのに、すみません」
弥命は息を吐き出す。
「んなことは良い。ーーあるんだぞ、困ること。良い機会だから、教えといてやるよ」
「え?」
弥命は旭を見て、不敵に笑う。夜に見る水のような色の瞳に、旭は吸い込まれそうになる。
「旭に何かあったり、いなくなることだよ。俺は、旭が居る今の生活が気に入ってるんでね。旭に何かあったら俺が困る。ーー分かったか?」
旭は、目を丸くして弥命を見ている。何か言おうとして薄く開いた口が、でも何かが詰まったように何も出ない。
(何て言えば良いのか、分からない……。そんなこと考えない人だと、思ってた)
常に冷静なことの多い旭のそんな表情が可笑しくなり、弥命は噴き出した。笑いながら、旭の背を叩く。
「おもしろ。お前もそんな顔すんだな」
「……知りませんけど。ーー分かりました」
ようやくそう言った旭に、弥命は更に笑った。そんな弥命を見ながら、旭は胸元を押さえる。
「あの。夢渡り、って何ですか?今は別に、どこも何とも無いんですが」
弥命は顎に手をやり、空を睨みながら小さく唸る。
「何となく予想はつくが、俺にも分からん。何かあったら言え。前に言ったろ?助けてやるって。旭は命の恩人だからな」
「命の恩人は大袈裟ですよ」
「今回は助けてやれてねぇけど」
「助けてくれたじゃないですか」
間髪入れずに返しながら、旭は不思議そうに弥命を見た。それから、穏やかな表情になって微笑む。
「いつもありがとうございます、弥命叔父さん」
弥命は、普段の凶悪さが一切消えた目で旭を見て、笑う。それは、旭が初めて見た眼差しだった。
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