秋雨と言葉
この頃は雨が多い。
秋雨はよく言うが、この時期の雨を秋霖やすすき梅雨とか言うらしい。
同じ秋雨を表す言葉なのにどうしてあるのだろう。
そんな疑問はよくあることで、したがって答えもありきたりなものにたどり着くのが大方の流れ。
つまりは言葉の多様性を楽しみたいのだろう。
ただの秋に降る雨でも、秋霖とかすすき梅雨とかで表現するのは、私にとってはちょっと新鮮だ。そしてお洒落。
言葉は世界を彩る絵の具だ。
言葉によって、世界というキャンバスには色が塗られていく。
世界には、世界をより鮮やかに彩るために数え切れないほどの言葉がある。
逆を言えば、言葉が少ない世界は虚しくないだろうか。
それはそれでシンプルと形容することもできなくはないが、それは複雑という概念を知ったうえでの話である。
モノクロから始まった世界の色彩をカラフルにしたいがために、人は言葉を覚えていくのだろう。
意識的にも私は言葉に親しみたいと思っている。
どうせなら鮮やかな世界を見ていたいものだ。
そして、人の世界は言葉ありきだ。
そんなことを学術理論として成立させたソシュールはやはり偉大というほかない。
とはいえ、自分の思いつきによるちっぽけで壮大な思索が、先人の打ち立てた尊い理論を少しでも掠っていたことを知るとなんだか嬉しい。
まるで自分が偉人と同レベルに偉い仕事をしたのではないかと錯覚して心が弾む。
しかしまあ、そうした研究を知らずとも、自分の言葉だけで思考を紡いでいくことにも価値があるだろう。
たとえ答え合わせができなくても思索はしているのだから、それだけでも自分が人間らしくいられた気になる。
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