嵐ファンの先輩に出会ったら、町田から町屋を爆走することになった話


夜中にふと思い立ち、このnoteを書いている。忘れる訳ないけど、絶対に忘れたくなくて、自分の言葉で記しておきたい。



私が通っていた某中高一貫校では、夏休みの宿題として、定番の読書感想文の他に作文があった。それは創作した短編小説でもいいし、随筆文でもいいし、とにかく枚数制限だけがあって後は自由に書けというものだった。

これらは夏休み明けに国語科の先生たちの手に渡り、選ばれた上位3作品を全校生徒の前で実名と共に表彰、更には1位の作品の生徒は全員の前で読み上げさせられるという、たいへん稀有な催しがあった(読書感想文や習字なども同様)。
何時間も拘束され行われるそれは、多くの生徒にとって恰好の睡眠時間だったように思う。
しかし「本が友達」と称された私にとっては違った。読むだけでなく、書くことにも興味が出始めていたあの頃、同年代で面白い文章が書ける人は憧れで、ヒーローだったのだ。

あれは私が中学1年の年だっただろうか。中等科から、とある3年生の小説が1位を獲った。壇上で読み上げられたそれに、私はいたく感動をおぼえた
先輩、と言っても2つしか違わない(子供にはその差が大きいのだが)中学生が、こんなにも素晴らしい小説を書けるなんてすごすぎる❗️後々に配られる賞の総編集を捨てずに、何度も読み返したなぁ。懐かしい。

ある日、私が入り浸っていた保健室に、見覚えのある、けれど確実に同級生ではない生徒が入ってきた。その人が保健室ノートに記した名前を見て、確信した。
""あの"" 先輩だ!!
今よりずっと社交性のあった私は勇気を出して話しかけた。

「前に表彰されてた先輩ですよね? あのお話すごく好きで……」

これがM先輩との出会いである。


それからというもの、保健室の住人な私と、身体に障害を抱えていたM先輩はたびたび顔を合わせた。
柔和で気さくな彼女は、突如湧いて出た何処ぞの後輩と交流を持つことを許してくれ、穏やかな時間をいくつも過ごした。流れで同じ嵐ファンであることがわかってからは更に話が弾むようになり、どこかしらのタイミングでLINEを交換した。
保健室外で会う機会はほぼなかったが、文化祭の日に共通の友達(M先輩の同級生で私の保健室仲間)と3人で、どこか遊びに行きたいね〜なんてお喋りをしたこともあった。

月日は絶ち、M先輩はたくさん勉強をして、志望の大学に入ったと養護教諭から聞いた。ご卒業を直接お祝いできた、と思う。たぶん。
その後はたま〜に連絡を取り合い、2度ほど所用で学校を訪れた彼女と保健室で落ち合った。
LINEのトーク履歴を見返したら「今度会う時は(嵐の)雑誌の切り抜きをあげるね」と言ってくれていたらしい。そんなことも忘れて私は、外で積極的に会おうとまではしなかった。
特段珍しいことじゃない。誰しも経験するであろう、いわゆるいつの間にか疎遠になっていたというやつだ。形は何であれ、関係を保つことは努力なのだと思う。今回の場合、疎遠と呼べるところまでいったかは不明だが。


高校3年生の夏休み、M先輩の同級生で私の元保健室仲間の友達(こちらも卒業済み)から連絡がきた。

「Mちゃんのこと聞いた?」
「亡くなったそうです」

ああ。と思った。彼女が抱えていたものについて詳しく聞いたことはない。でも、恐らく短命であることは容易に想像がついていた。だから特に驚きはしなかった。

友達からお通夜の日時と斎場の名前、住所を伝えられた。その日は午後から学校の夏期講習があったので、制服で告別式に向かった。事前に調べると駅からだいぶ離れているとのことで、タクシーを使いなさいと親からお金を貰っていた。
駅前でタクシーを止め、行き先を告げる。

「町田斎場まで、お願いします」

気さくな運転手のおっちゃんと、緩やかなキャッチボールをしながら斎場へ到着。そこで看板に並ぶ故人の名前に目を通した私は、信じられない面持ちで固まった。
M先輩の名前が、ない
何度確認してもない。
ない。
そんなはずは、何が間違っていたんだと、タクシーに乗ったまま汗だくの手で友達とのLINEを開く。履歴を血眼で追った私は、ある1つの矛盾に気付いた。

「場所 : 町田斎場
 住所 : 〇〇区町屋 △-□」

場所は "町田" なのに、住所は "町屋"。
思い返せば確かに、場所の名前だけ見て情報を理解した気になり、住所の方は流し見していた。
だってそうだろう。まさか上段と下段の情報が一致していないなんて夢にも思うまい。

つまり、どちらかの情報が正しくて、どちらかの情報が間違っているということ。
"町田斎場" が違うなら、正しいのは "〇〇区町屋 △-□" の方。
"〇〇区町屋 △-□" でググってみる。

町屋斎場。こっちじゃね?


大慌てでおっちゃんに駅へ引き返すよう告げ、重ねて正しい斎場の名前を告げると「そりゃあ結構かかるなぁ」と一言。でしょうね。
アプリ曰く電車で2時間弱とのこと。詰んだ。

とはいえここで引き返す訳にはいかない。今日は告別式なのだ。「明日にしよう」はできない。
駅に戻り、おっちゃんにお礼を言ってタクシーから飛び降りる。乗車料金はバカみたいに高かった(そりゃあそう)(ちょっとくらいまけてくれても…とは思った。ちょっとだけね)

もう間に合わないかもしれないという絶望感を振り払いながら走り、ちょうどホームに滑り込んできた電車に飛び乗る。告別式とはいえ、お通夜もあるはずだ。一眼だけでもお別れを言えたらいい。とにかく1分1秒でも早く付かないかとアプリと睨めっこし、この日ばかりは遅延しないことを神に祈った。
するとどうだろう、乗り換えるたびに来る電車来る電車、全てといっても過言ではないくらい急行か特急なのである。さすがに運良すぎだろう……いや、斎場を間違えている時点で運もクソもなかった。

アプリの想定よりうんと早く町屋駅に着く。斎場までは徒歩15分ほど。平日通勤ラッシュの時間帯に、夏休みのはずの高校生が地図アプリ片手に道を爆走するという、奇妙な構図の誕生である。
走りながら笑いが込み上げてきた。なんと情けない。重要な局面で私はいつもこうだ。でも、こんな情けない姿を、M先輩は空から笑ってくれているかもしれないと想像し、そうだったらいいなと思った。

今度こそ正しい斎場に到着。看板にM先輩の名前もあることを喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、とにかく暑くて、息も絶え絶えで、ぐちゃぐちゃな気持ちで中に入る。荷物を放りブレザーだけは着て、M先輩の元へと駆け寄った。
どうやらお通夜は終わってしまっていたが、告別式には間に合ったようだった。彼女は部屋の真ん中で棺に横たわっていた。その小さな姿を見つめて、初めて悲しみが込み上げた。
月並みだが、どうして彼女が死ななければならなかったんだろうと思った。一生懸命勉強して入った大学でも頑張っていると、養護教諭から聞いていた。健康体の私よりずっとずっと大変な思いをしてきて、望む道を切り拓いて、それなのに。そんな強さもない私の方がどう考えても早く死ぬべきなのに。
涙が止まらなくなってしまった。私は彼女のことを何も知らない。この涙は100%彼女のことを想えているのか、こんな時まで自分のことばかりじゃないのか。それでも溢れてくるものは止まらなくて、必死に嗚咽を噛み殺した。

そんな折、頭上から聴き慣れた音が降ってきた。嵐の『Joy』という曲だった。ポップで、親しみやすくて、あたたかい嵐の曲が、恐らくM先輩の意向で控えめに流れていた。
ああ、こんな時でも。嵐は寄り添ってくれるんだね。それはM先輩にとっても、きっと。
ふと、いつかの保健室で嵐のファン歴を聞かれ、私が答えた時の、彼女のリアクションが思い出された。

「じゃあ、まだまだだね」

本当に。ね。


いい香りを放つお花をたくさん手向け、私は2つ上の友達に別れを告げた。


今でもシャッフルで『Joy』がかかるたび、あの告別式を思い出す。嵐の曲は他にも流れていたけれど、とりわけ印象に残ったのがこの曲だった。私も死んだら嵐の曲をかけてもらおうと心に誓った。

忘れるはずない。ほんの束の間だけれど、私達は友達で、嵐ファン仲間で、同じ学校の先輩後輩だった。私なあなたに憧れていた。
結局6年間の在学中、私の作文が賞を獲ることはなかった。それどころか小説を書くこと自体やめた。そんな人間です。M先輩に胸を張れる生き方をしたいけれど、私には到底無理な話で。自堕落で、本当にどうしようもない。
もっと連絡を取っていれば、1度でも遊びに行けていればと後悔しても遅くて。ごめんなさいもありがとうも届かない。

ただ、忘れないでいます。

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