きょもしん論 〜希望を唄う兄弟〜
※Jr.時代から応援している訳じゃないので、年ごとの細かな出来事は知りません。ただ「好き」という気持ちを徒然なるままに書き連ねるコンビ厨でございやす。
解釈違いは悪しからずm(_ _)m
唯一無二の兄弟
うすうす気付いてはいたが、私は漫画においてもアニメにおいても、"幼馴染設定" にめっぽう弱い。誰より長く一緒にいるという特別感・他者が入れない空気感・肩の力を抜いて自然体でいられる、唯一無二感がたまらない。
私がSixTONES沼にハマった際、京本大我と森本慎太郎のコンビ(通称きょもしん)に興味をもったのは、そんな "幼馴染" 独特の波動を感じ取ったから。
1回きりのつもりで行ったレッスンで右も左もわからず戸惑う幼き日の慎太郎くんに、優しくダンスを教えてくれたきょもさん。「きょもがいなかったら続けてたかわからない」と後に語る慎太郎くんの人生の分岐点に、彼は間違いなく立っていた。
仲良くなって、たくさん遊んで、たくさん喧嘩して、同じグループを組み、デビューし、今日日まで一緒にいる歴史から見ても、その出会いは必然で、最初から決まっていたかのような運命めいたものを感じる。
「小さい頃から一緒だから、弟が大きくなったけど、まだ可愛い」「これからも兄貴でいてね。カッコいい背中見せてください」
兄弟のように育ち、周囲(鉄腕DASHさえ)も兄弟みたいと称し、本人達も自認してきた、生粋の兄弟コンビである。
しかし17年もの長い付き合いにも関わらず、お互いを特別視しているだとか、執着心を見せたり、他者にマウントをとったりはしない。ものすご〜くフラットな愛情が、ただただ緩やかにループしている。というのがわかり始めた時、私は心底びっくりした。
特殊な環境下にいる以上、急速に発達する精神年齢と止まらざる得ない幼さのアンバランスさが魅力の1つとなる旧ジャニーズの子供達は、同志に対する距離感・スキンシップ・仲間意識が一般のそれとは異なる。となると、だいたい湿度は高くなるし、大人を信頼できなくなればなるほど激重感情を抱くと相場が決まっている(そうなの?)
少し特殊とはいえ、きょもしんとて例外ではない。にも関わらず、きょもさんの方が背が高かった頃から、純な関係性がなにも変わっていないことが読み取れる。
いろんな経験を経て、身体面でもスキル面でも成長し、慎太郎くんがちょっぴり背を抜かしてもなお、お互いに「変わらない」と言う。「かわいい」「愛おしい」と恥じらうことなく口にする。
「まるで兄弟みたい」と比喩されるコンビはどこのグループにも存在するだろうけれど、ここまで実際の兄弟に近いコンビには、なかなか巡り会えない。たぶん(自信なくすな)
特別感を抱かない特別
ストチューブの隙間時間やライブMCの外側で、きょもしんが2人だけの世界を作っているのを見かける。そこには確かに、お互いにしか見せない表情、空気感が存在する。
そんなの、どのコンビだって同じでしょ。おっしゃる通り。なんて表現したら良いのか……わざわざ特別感を抱かない特別がきょもしんには存在する、ように見える。
普段、特別絡む訳でもなく、ボディタッチしてイチャつく訳でもない。忘年会頭皮チューの連鎖(マジであれなんだったんだ)にも我関せずな2人の間には、独占欲だとか執着だとか湿度だとか重さといった、複雑な感情は存在しない。
それでも、努力家な兄を、気ぃ遣いな弟を、ずっと近くで見守ってきた。常に温かでまっすぐな愛が向いていて、まるで楽しいことがあったら目を見るのが通例のように、わざわざお互いに目を合わせにいく。そして笑い合う。たまに片方が気付かないまま一方通行で終わる時もあるが、そんなすれ違いもまた趣深い。
それってたぶん、無意識の行動で。特別感なんてものは今更抱かないけど、お互いにしかやらないよね?っていう特別。これからも気付かないままでいて欲しい。
この動画大好き!
揺るがない兄&弟自認
頼もしくなった、もう弟というより同志、みたいなことを話していた最近のきょもさん(急に曖昧なのは出典が思い出せないから)「もう兄弟って感じでもない」と述べた最近の慎太郎くん。
それでも私が兄弟コンビと呼び続けるのは、兄という自認と弟という自認を、それぞれ揺るぎなく持ち続けているように感じるからである。
Jr.時代ず〜っと一緒にいて、ず〜っと喧嘩してた by.樹くん
張り切って学園祭が始まる前に学校に来ちゃった小学生の慎太郎くん(かわいい)を教室に連れて行き、咄嗟に「弟です!」と紹介したきょもさん。
10000字インタビューで「今、慎太郎にいちばん期待してる。まだまだこんなもんじゃないよなって」と期待を寄せるきょもさん。そんなこと言えるのは実兄(ではない)のあなただけだよ。
自分の歌声が好きじゃない弟に「俺は昔から慎太郎の歌声が好きだよ」と何度も何度も伝えて続ける兄。「きょもの歌声はすごい」と尊敬し続ける弟。
リハでふざける弟を「ちゃんとやろう」と叱る兄。何があっても「お前」呼びはしない弟。
突飛でカオスな言動をする兄にびっくりしながらも受け入れる弟。「慎太郎、あれやって」と言われたら断れない、そもそも断る選択肢が無さそうな弟。弟を操れて満足気なイタズラっ子(かわいい)。
鉄腕DASHのムキムキマッチョなスタッフとの相撲では勝てるのに、兄相手だと秒で負けてしまう弟。幼い頃の敵わないという刷り込み故に、手加減してるつもりすらない弟(諸説アリ)。
最近きょもに言われて嬉しかったことは?という質問に「お前はお前のままでいいよ」と答える弟。
これ質問者さんが聞いてなかったら一生知れないままだったかもしれないと思うと恐ろしい。そのくらい破壊力のある言葉。発狂する俺(近所迷惑)。
希望の唄
念願だった。歴史を知るには限度のある新規ヲタクが、現在のきょもしんの、きょもしんによる、きょもしんのためだけに作られた曲を耳にするまで、目に焼き付けるまで、死ねないと思った。
いよいよ解禁の日。2人は希望を唄っていた。
疾走感のある邦ロックナンバーはきょもしんをテーマにした曲…というより、過去・現在・未来の "僕" を唄った曲だから、2人称以上にならない。故に2人が歌詞の中で交わることはない。
ではなぜSixTONESの曲でもソロ曲でもなく、"きょもしんの" ユニット曲なのか。
答えはシンプルで、2人が普段聴くジャンルの曲であること。よく同じ移動車になるから一緒に聴いてるらしい。かわいいね。
何よりも俺らっぽいよね、ということ。
光と陰を経験し大人になってもなお、ピュアさとまっすぐな心を持ち続けている2人だから、色んなことを諦めながら自分自身をちゃんと守れる2人だから、先が真っ暗な未来を誰より見据えてきた2人だから、希望を唄える。説得力がある。
アイドル(偶像)ソングとしてなら、誰が唄っても成立するかもしれない。でもきょもしんが歌うことで、いや、きょもしんが唄うことでしか、意味と奥深さは生まれないのだ。
そんなこんなで決まったユニット曲だったが、レコーディングのエピソードがこれまた意外で、こんなにも思考って被るんだと少し可笑しかった。
第3者からすれば完璧な "きょもしんの唄" なのに、 "俺ら" が主軸のはずなのに、相手の方がハマっていて自分大丈夫かな?と心配している。
ああそうか、初めからめちゃくちゃ相手のことを考えた選曲だったんだな、と思った。"見る" ことに長けたきょもしんの、「「俺にとってのきょも/慎太郎」」と「「(きょも/慎太郎には)こうあって欲しい」」が詰まってる。
"求められる自分" を客観視し、応えていくことがアイドルの仕事だとするならば、恐らく2人が早々に身に付けたスキルであり、ブランディングであり、人生であり、思いやりだ。
それが仕事相手やファンに対してだけでなく、きょもしんの間にも存在するということ。
「敵わない」し「尊敬していたい」慎太郎くんは、グループを組んで横並びになったとはいえ、自分の力で道を切り拓くかっこいい背中を見つめていたいと思っているし、きょもさんがその期待を裏切ったことは1度たりともないのだろう。
「ピュアで素直なところが変わらない」「まだまだこんなもんじゃないよな」と言ってくれる唯一の人に、慎太郎くんも応え続ける。
俺たちの歴史を知ってたらエモいよね。だから、この先もずっと一緒だ。『希望の唄』は一貫して、そんなことを唄った曲なのかもしれない。
付かず離れず今日もまた 君と並んでいる
親友でも家族でもない2人は、長い下積み期間で離れた時だってあっただろう。それでも同じグループのメンバーとして運命を共にすることとなった、その巡り合わせの中で2人を形作る総称が変わろうと、どんな時も変わらぬ関係性、ってのを表現したくて、世界一大好きな他グル他コンビのユニット曲の一節を拝借してしまいました💦
「俺より年上になることはムリだぜ」「俺はね〜頑張っても追いつけないんだよきょもの年齢は」
そんなわかりきっていることを誕生日のたびに伝え合いながら、きょもしんはこの先も変わらぬ距離間で、ず〜〜〜〜っとお互いを温もりと愛情の込もった眼差しで見守っていくのだろう。そんな2人をず〜〜〜〜っと見つめることができるなら、これ以上幸せなことはない。
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