「まだ悲しい」ということ #190810
「悲しみは時が癒してくれる」と思ってきた。ごはんが喉を通らないくらい悲しいことがあっても、気づけば美味しく食べられるようになってきたから。咽び泣いても、いつかは眠ってしまっていたから。
でも、「癒されたくない」「まだ悲しい」という言葉に、なぜか共感したのだった。
そのときの悲しみを、忘れたくない。悲しかった私を、忘れたくない。なぜだろう。
この記事に書かれている悲しみへの敬意とは、少し違う気がしている。過去への執着に近い。過去の私が、今の私に繋がっていると思っているから、悲しみに何かしら価値を見いだしたいと考えていたのかもしれない。
言葉にしてみて、あれ?と思う。悲しみに意味を見いだす必要があるのだろうか。悲しかった。ただそれだけを、そのまま感じるくらいがいいなあと思った。考えるよりも、感じ続ける方がいい。感じ続けた先に、もういいかなと自分で思えたタイミングこそ、「その後」であり「癒される」ということなのだろう。
普段は思い出さないし忘れていると思っていることでも、何かのきっかけで映像として目の前に再生されることがある。悲しかった記憶の場合、特に感情を揺れ動かされるから、あまり好きではないけれど、「まだ悲しいんだな、私」と思ってあげられたらいいなあ。
サポートいただき、ありがとうございます! 有料noteを読んで、学びにして、また書きたいと思っています。