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エッセイ|浅瀬の硝子Ⅶ_歯科衛生士の人

母が歯医者に行っている。
昔入れた詰め物を水銀の含まれないものに取り替えるのだとかいうことで、「けっこう大きい穴なの、子どものときにやっちゃったのかなぁ」とつぶやきながらいそいそと身繕いをして一時間ほど前に出て行った。

その歯科医院は私も子どもの頃からずっと通っていたところだ。実家を出てからの二年半はかかっていないが、その直前、大学時代の後半の二年間は、親知らずの抜歯と予後の観察のために頻繁に通っていた。

母はその医院の話になると「あそこはスタッフの人の入れ替わりが激しい、あの先生は厳しいんじゃないか」とよく述べるが、私が親知らずのために通ったその二年間は、ほとんどずっと同じ歯科衛生士の人が付いてくれた。名前を伝えるような自己紹介はいつもされなくて、私の中にその人の呼び名はない。顔は覚えているが、目鼻立ちよりもむしろその顔の卵のような白さと形こそが印象を残す風貌だった。毎月会って世話をしてもらっているのにその人の名前も知らないのは不思議なことだ、と思いながら、クリーニングや歯の磨き方の指南をしてもらっていた。
何度も付いているからか、ときどき歯のこと以外の雑談も短く振ってくれることがあった。(今思うとそれがどのタイミングだったのかは分からない。その人が私の横にいるのは、ほとんどが私が施術椅子に座って口を開けているときだったはずだが、その前のエプロンをつけてもらうときなどに話しかけてくれたのだろうか。沈黙をすかさず埋めるような人ではなかったのだが。)
それはたいてい「今日はお休みなんですか」というような無難な声かけだったと思うのだが、あるとき、「大学は美大なんですか」と訊かれたことがあった。私は驚きながら「総合大学ですが、芸術についての哲学を学ぶようなところにいて」というような答えをして、たしかその人は「そうなんですね、なんだかそんな雰囲気があるから」と返していたと思う。
いま思い返しても、その人がなぜそう思ったのかはよく分からない。髪は黒のショート、してるかしてないかの薄化粧、服もおとなしいあまり大人っぽくない普段着で、「美大生っぽい」と言われる要素はなかったはずなのだ。それでもその人が「美大生っぽい雰囲気」と言ってくれたということは、装いから連想したのではなく私の振る舞いや表情から受け取ったのだろう。それまでの会話が事務的な内容に終始していた中で彼女が私へのそんな解釈を口にしてくれたことを改めて思うと、短い時間の積み重ねを経て彼女が初めて心で話しかけてくれたような、そんな温かみさえ感じてしまう。

彼女とそんな言葉を交わしてからすぐに私は恋人の家に移り、その歯科医院に行かなくなってしまった。「就職して生活が変わるので、次の予約はそれが落ち着いてから取ります」というようなことを言い残してきたから、ずっと少しだけうしろめたい。
歯科衛生士のあの人はまだ勤めているだろうか。また診てもらうことがあったら、最初はちょっとばつが悪いだろうけれど、もっと当たり障りなくない話をしてみたい。

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