エッセイ|浅瀬の硝子Ⅳ_ミモザ
近所に、ミモザの咲いている家がある。
スーパーへの行き帰りでよく通る場所だ。
私の住んでいる沼部駅前と違い、その辺りにはアドレスを裏切らず田園調布の雰囲気を備えた家が並んでいる。
その家も淡色にまとめられた端正な外観で、その二階の高さに枝をのぞかせるミモザの明るい黄色がちょうど映えている。
三月八日が国際女性デーでありミモザの日であるということを、私は女子高に通っていた頃から知っている気がする。どういうきっかけだったかは憶えていない。先生の話か、図書室などの掲示などかもしれない。
私が通っていた桜蔭学園では、女性差別の問題についてとても詳しく教えていた。たしか高校の家庭科の授業の中にそのカリキュラムが設けられていて、法整備などの歴史的経緯についても細かく教わった。
母が就職した年を聞いたとき、私がそれを男女雇用機会均等法の施行の直後だと認識したのは、そのためだったと思う。一月に母とともに祖父母の家に帰省したとき、いっしょに台所で夕食の仕度をしながら、なぜかそんな話をしていた。
私が「じゃあ男女雇用機会均等法ができてすぐだったんだね」と言ったら母は、「そうね、会社で最初の女性採用だった」と言った。それを聞いて驚いた。母は新卒採用からずっと、大企業の部類に入る会社で働いているからだ。まさかその第一号だったとは。
母は「女だから冷遇される」というような愚痴を私に聞かせたことはほとんどないけれど、冷遇が本当になかったとしても、最初の一人というのはそれだけでとても大変だったのだろうと、改めて母を尊敬した。
そんな環境で三十年以上勤めあげ、そのほとんどの期間は二児の母であり、半分以上の期間はシングルマザーだった。抗鬱剤を飲んでいたこともある。身体の病気にも見舞われた。それでも会社で家で働き続けて姉と私を育てた。私の中高の六年間には毎日お弁当まで作ってくれていた。何という強さだろう。
母への尊敬と感謝は、自分が社会に出てから増したし、休職と退職で自分の人生を振り返る時間を持つようになってからは、ますます強くなっている。
母に比べて私は——と情けなくなることもある。母に退職のことを話せていないのも、面目ないからだ。母が身を削って教育を与え育てあげてくれたのに私は——と。
でも最近、違う考えもできるようになってきた。母の献身は、期待よりも前に愛情によるものであって、その愛は私が仕事を一年半ぽっきりで辞めたことだって受け止めてくれるかもしれない、と。いま子供時代を振り返ると、母が自分にしてくれたことごとの大きさや大変さを痛感して、「ここまでしてくれた母という人は私のことをとても愛してくれているのだろう」と帰納的に思われる。
母の日が来る頃までには、打ち明ける勇気が出せていたらいい、と思う。
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