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【一周回って知らない話】20年目のはじめまして。【styオフィシャル1万字インタビュー】

音楽に、完成なんていらない。

音は、掴もうとするほど指の隙間からこぼれ落ちる。
だから、無理にかたちを整えず、そのままにしてきた。
正しさよりも、耳を澄ませて浮かび上がる、確かさを待つ。
そうして音楽は、自然と姿を見せる。

余白を埋めようとしない。
不足に焦るのではなく、その隙間に新しいものが流れ込むのを待つ。

足りなさも、曖昧さも、ひとつの表情だ。
それを受け入れることで、音楽は息をする。

20年続けてきたのは、何かを証明するためじゃない。
ただ、音楽がそこにあったから、続けてこられた。
まだ見たことのない景色が、音の先にある気がする。
その気配だけを頼りに、これからも歩いていく。

「20年目のはじめまして」。

styオフィシャル1万字インタビューをどうぞ。

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【sty プロフィール】2005年に音楽プロデュース業を開始。EXILE、倖田來未、少女時代、三浦大知、Crystal Kay、BoA、宮野真守、三代目 J Soul Brothers、i don’t like mondays、BE:FIRSTなどのヒット曲を多数プロデュースするかたわら、職業作家としての15年分のノウハウを引っさげて「エス・ティ・ワイ」としてファッショナブルなシンガー・ソングライターとしても活動を開始、そのオルタナティヴでアンニュイな音楽性でさらなるファン層を拡げ続け、2021年Spotifyが選ぶCity Pop年間ベスト50曲に自身の楽曲「 接吻マイハート 」が選出され話題に。2014年、三代目 J Soul Brothers 「R.Y.U.S.E.I.」で第56回レコード大賞を受賞(作詞・作曲・プロデュース)。BE:FIRST 「Bye-Good-Bye」で第64回レコード大賞をにて優秀作品賞を受賞(作詞)。


1. 音楽との出会い・原点

1-1. 初めて音楽に夢中になった瞬間は?

1996年、ふとテレビをつけたら流れていたTLC「Waterfalls」のMV。その瞬間、まるで電気が走ったみたいに衝撃を受けました。

それまで音楽は好きで、J-POPならDreams Come Trueをよく聴いていたし、ソウルっぽいものやR&Bの雰囲気が自分に合っているんだろうな、くらいには思っていました。でも、「Waterfalls」はそんな曖昧な好みを一気に吹き飛ばしてくるような存在でした。
あの曲は、いわゆる“歌い上げる”ソウルではなく、クールでダウンビート。ドラムの音も太くて、グルーヴがどこかダルい。その力の抜けた感じが、逆にめちゃくちゃかっこよく見えた。
そこからはもう、90年代の音楽にどっぷりハマっていきました。特に、女性が歌うHIPHOP SOULの世界観には心を奪われました。ただ聴くだけじゃ満足できなくなって、もっと深く知りたくて、もっと感じたくて…音楽との関わり方が、ただの“好き”から、“夢中”に変わったのは、あのときが最初でした。

1-2.好きになった音楽の共通点や、惹かれる感情の動きは?

日本のアーティストで初めて「これ、めちゃくちゃいいな」と思ったのは、Dreams Come True吉田美和さんの歌でした。たしか「決戦は金曜日(1992年)が出たのが小学校6年生のころ。テレビの画面越しに、汗だくで踊りながらシャウトする吉田さんの姿に、ただただ圧倒されたんです。音楽で自己表現をここまで楽しそうにやっている人がいるんだ、っていう衝撃。

それまでの自分にとって音楽は、どこか決められたものでした。クラシックピアノを習っていたけど、演奏するのは譜面通りの音楽。身近な音楽といえば、ファミコンのゲーム音楽ドラクエマリオの音が流れるたびにワクワクしてたけど、あくまで受け取る側だった。
でも、吉田さんの歌は違った。声と身体を使って、感情をそのまま音にぶつけているように見えた。言葉で順序立てて話すのが苦手だったコミュ障の自分にとって、それは希望や救いみたいなものでした。言葉じゃなくても、音や動きで人と繋がれる方法があるんだって。
そこから気づいたんです。自分は、単に音楽が好きなんじゃない。感情がむき出しになった瞬間とか、パフォーマンスに宿る衝動、そういう「強さ」が音楽の中にあるのがたまらなく好きなんだって。

1-3. 「Waterfalls」に衝撃を受けたとありますが、どの部分(映像・歌詞・メロディ)が特に心に刺さったのでしょうか?

Waterfalls」が流行っていたのは90年代中盤。自分は中学3年から高校1年くらいの頃で、R&BやHIPHOPが世界のメインストリームになりつつあった時代。
少し遡ると、中学生(1992年〜1995年)の頃にイギリスへ留学していたことがあって、周りではTake ThatみたいなR&Bの影響を受けたイギリスのアイドルグループや、All-4-Oneみたいなアメリカのコーラスグループが流行っていた。だから、そういう“それっぽい音楽”は、割と身近にあったんです。

でも、どこかポップスアイドルの枠にきっちり収められた音楽で、深く考えなくても楽しめるようにデザインされていた。正直、なぜそれが「良い」と感じたのかもよくわからなかったし、そもそも曲自体が深堀りする余白を持たない作りだった気もするし。
でも、WaterfallsのMVを見た瞬間、明らかにそれまでのR&B的ポップスとは違っていました。
女性のハスキーな声が、あえて低いレンジに留まっていること。
女性がワンバース丸ごとを使って、圧倒的なスキルでラップしていること。
そして、Aメロ・Bメロ・サビみたいなわかりやすい展開がない。メロディとハーモニーの積み重ねだけで物語を紡いでいる。
驚いたのは、それだけじゃない。振り付けも、しっかりあるのかないのかわからないほどゆるい。でも、なぜかそれが妙にクールに映った。今思えば、クラシックJ-POPの中で「音楽ってこうあるべき」と思い込んでいた抑揚ダイナミクスの概念が、その瞬間にガラガラと崩れたんだと思います。
そして、何より衝撃だったのはドラッグ依存や犯罪、無防備な恋愛や感染症を表現した歌詞。人は、魅力的に見えるものにどんどん流されて、気づけば堕ちていく。それはやがて滝のように激しくなり、自堕落な生活に呑み込まれていく。そんな強烈なメッセージが込められていた。
一聴、ただのおしゃれなR&Bソングが、実は社会への警鐘すら含んでいる。それに気づいた高校生の自分は、本当に驚いた。
それまで音楽は、恋愛青春みたいなテーマを、ふんわりしたメロディに乗せて届けるものだと思っていたけど、でも「音楽には、もっと深い力がある」。その気づきは、自分にとって希望でした。
音楽が心地よさだけじゃなく、現実をえぐり出す力を持っていることを、あの曲が教えてくれたんです。

1-4. 楽器や機材、DTMなど最初に触れたものは何でしたか?

てかそもそも、90年代当時にDTMなんて言葉、なかったと思うんですよね(笑)。音楽は好きだったけど、それを手軽に形にする術なんてなかった時代。
もともとクリエイティブなことが好きだったから、高校生の頃にWindows98の入ったPCを買ってもらったときは、ひたすらPhotoshopでデザインをしたり、文章を書いたり。AOL ChatとかMSN Chatで人と繋がるのも楽しかった。そんな中で、偶然たどり着いたのがMIDIデータで曲を作っている個人サイト。今みたいにストリーミングもなければ、MP3すら普及していなかった時代。そんな時に、素人が音楽を作ってネットで発表しているって知った瞬間、もう衝撃でしたね。

個人ウェブサイト全盛期。今で言うFacebook。

正直、その人の曲は「うーん…」って感じだったけど(笑)、それでも“素人でも音楽を作って発表できる”って事実が、自分には革命的だった。音楽って、聴くだけじゃなくて作って、届けるものなんだって。そんな発想、今までなかった。
そこから「じゃあ自分のPCでも何かできないかな?」って色々調べていって、Cakewalk(たぶんバージョン5とか6だったかな)を見つけた。最初はPCに入ってたMIDI音源を使って、曲作りを始めたんです。さらにサンプラーEQエフェクトとか、フリーのソフトもゴソゴソ探して、当時なりに“最先端”のことをやってるつもりでした。
でもね、当時(2005年くらい)って、まだテープで曲を作ってる人が多かった時代で。そんな中でパソコン1台で曲作ってるってだけで、年上の人たちから「なにそれ?」「邪道だろ?」って、まぁまぁバカにされたんですよね。正直、めっちゃウザかったです。(笑)
でも、今思えば彼らって新しいテクノロジーが怖かったんだろうなって。知らないものに対する不安って、どうしても拒絶否定に繋がりがちじゃないですか。だから、そこから学んだんです。新しいもの変化に対して、たとえ自分に合わなくても、少なくとも歪んだ認知で否定しないようにしようって。
結局、新しい時代は勝手にやってくるし、それにどう向き合うかは自分次第なんですよね。いちゃもんにもある意味感謝(笑)。

1-5. 音楽を作る以前に、文章やデザインをしていたとのことですが、その表現活動が音楽にどう繋がっていきましたか?

自分がR&BHIPHOPにのめり込んでいったのは、自己実現メッセージ性、そしてそれを多くの人に届く形にしているところに惹かれたからです。
でも、それって文章を書くことやデザインをすることと、結局は同じだと思っていて。
自分が素敵だと思うこと自分自身の魅力を形にして伝える手段が、たまたま文章だったり、デザインだったり、今は音楽だったりするだけ。
どの表現方法でも、根っこは一緒なんです。

1-6. 音楽を作る側になろうと思ったきっかけは?

高校生の頃、R&BHIPHOPに夢中だった自分には当時のJ-POPのチャートが少し物足りなく感じていました。恋愛や青春をテーマにした曲やバンドサウンドが多かったけど、「音楽にはもっと大きな力があるはず」とどこかで思っていた。その可能性を自分の手で確かめたくなったんだと思います。
ちょうどその頃、音楽制作が個人でもできる時代が来るかもしれないという予感がありました。誰かに許可を取る必要もなく、自分の感覚で音楽を作って発表できる――それが、自分の中で行動のきっかけになった。
もともと自分は、チームで何かを作るより一人でじっくり掘り下げて形にするほうが性に合っていました。自分の中にある世界観を、純度の高いまま音にすることに魅力を感じたんです。
でも、曲を作るだけじゃ伝わらない
「だったら、自分で歌ってみよう。」
そんなシンプルな発想から、音楽制作が始まりました。
今で言えば、ベッドルーム・プロデューサーの走りだったと思う。きっと当時も、日本のどこかで同じように音楽を作っていた人たちがいたんだろうなって。そういう人たちに、もっと早く出会えていたら面白かったかも。

2. プロデューサーとしてのスタート

2-1. 当初は、どんなスタイルやジャンルを作っていましたか?

最初はとにかく、自分が好きな音楽を徹底的にコピーすることにハマっていました。たとえば、Destiny's Childシェイクスピア・プロデュースによるバウンシーなビート
「このビート、どうやって組み立ててるんだろう?」とか、Doubleの「Shake」のサビのハーモニーについても、「なんでこんなに心地よく重なるんだ?」って、気になって仕方がなかった。
だから、自分でを重ねて、ひたすら再現してみたんです。
そうやって試行錯誤するうちに、ビートの設計ハーモニーの積み方みたいな、自分なりの音楽の設計図を無意識に作っていたんだと思います。
でも、その頃はまだ“自分らしさ”を作っているなんて意識は全くなかった。
ただ、好きなものを分解して理解したい、その一心でした。

2-2. プロとしての最初の仕事はどのように決まったのですか?

最初は、ただ好きな音楽を完コピすることに夢中でした。でも、音楽のプログラミングがどんどん面白くなってきて。なけなしのバイト代MIDIキーボードを買ったんです。もともとピアノを少し弾けたこともあって、そこから少しずつクオリティが上がっていきました。
そうなると、今度は「オリジナル曲を作ってみたい」って気持ちが自然と湧いてきて。勢いだけで作った曲は、今思えばどれも拙いものばかり。けどその不完全ささえ、当時の自分には挑戦の証だったかな。
そんな中で、自分の曲を発表できる場所として見つけたのが、Muzieというウェブサイト。今で言えばSoundCloudのような存在ですね。そこでいくつかデモ曲をアップしていたら、ある日avexA&Rの方から突然メールが届いたんです。
内容は、「音楽制作の仕事に興味はありませんか?」というもの。
その担当の方は、当時安室奈美恵さんの制作にも関わっていた方でした。
正直、信じられなかったですよね。あの頃は、ネットに音楽を載せるなんてまだまだバカにされる時代だったし、ネット発の音楽に価値を見出す人なんてほとんどいなかった。
でも、その担当の方は、ネットで音楽を探してスカウトするという、当時としてはかなり先進的な視点を持っていたんです。今なら当たり前かもしれないけど、あの時代にその発想ができる人だった。
今思えば、あのメールが全ての始まりでした。
あの時、自分を見つけてくれたこと、そしてチャンスをくれたことには、今でも本当に感謝しています。

3. キャリアの転機や成長の過程

3-1. プロデューサーとして「これが転機だった」と思う作品や出来事は?

間違いなく、少女時代の「MR.TAXI」(2011年)です。

2005年にプロデューサーデビューしてから、ありがたいことに倖田來未さんEXILEさんCrystal Kayさんなど、名だたるアーティストの楽曲を手掛けさせてもらいました。でも正直なところ、どこか“若さ”や“新しさ”だけで呼ばれていた感覚があったんです。
「なんかヘンテコな感じの子がいるから、使ってみたら面白いんじゃない?」
そんな空気を、どこか自分でも感じていた(笑)。
もちろん仕事をいただけること自体は本当にありがたかった。でも、「飛び道具」として消費されて終わるわけにはいかない。J-POPのど真ん中で、しっかりとオーセンティックな作品を作れるプロデューサーであることを証明したかった。20代後半に差しかかって意味のない焦りを感じていたこともあったし。
何度も大きなチャンスをいただいていたのに、正直、「これは曲が先に走ってヒットした!」と胸を張れるものを作れていなかった。どこか満たされない感覚がずっと残っていたんです。
そんな中で舞い込んできたのが、少女時代「MR.TAXI」の制作依頼でした。
当時、K-POPは世界的にブームになり始めていて、少女時代はその最前線に立つ存在。時代の寵児である彼女たちに楽曲を書く――これは、絶対に外せない勝負でした。
だからこそ、当時のK-POPスタイルを徹底的に研究しました。

  • ダンスパフォーマンスが前提にある楽曲構成

  • 耳に残る強烈なフック

  • メンバーごとの歌い分けの工夫

今までは自分の感覚で曲を作ることが多かったけど、この時は戦略的に、緻密に、何度も何度も試行錯誤して制作したものでした。
この経験で気づいたのは、音楽はただ自分の好きなものを形にするだけではダメだということ。誰のために、どんな場所で鳴らす音楽なのか、そこまで考え抜くことがプロの仕事なんだと痛感しました。
そして「MR.TAXI」は、そんな自分の考え方を大きく変えた楽曲です。
あの時、飛び道具ではなく、本物のプロデューサーとして結果を残せたこと。
それが、自分のキャリアの転機だったと思います。

3-2. 音楽スタイルや制作スタイルが変化したきっかけはありましたか?

多くの方がご存じかもしれませんが、「MR.TAXI」は共同制作(コライト)で生まれた楽曲です。この作品を作っていた当時、プロデューサーとしての自分の在り方について、かなり模索していました。
自分を「ベッドルーム・プロデューサーの一代目」と表現しましたが、正直EDMバブルガム・ポップのようなまったく自分のスタイルではない音楽を、しかも他人と一緒に作ることに葛藤がなかったと言えば嘘になります。
けれど同時に、誰かと音楽を作ることでしか得られない喜び学びがあることも事実でした。 もっと言えば、「売れる曲」を作るという経験そのものが、これまでとは全く違う景色を見せてくれた。
売れるから嫌だ」「ポップだから嫌だ」「このジャンルじゃないと嫌だ」 そんなふうに線を引いていた頃の自分が見ていた景色は、驚くほど狭かった
「MR.TAXI」がヒットしたあと、ふと気づいたんです。 何も見えていなかった“自分らしさ”に輪郭を引きすぎて、本当の自由さえ塗りつぶしていた。
作詞家や作曲家、プロデューサーの素晴らしさは、ジャンルスタイルに縛られることではない。ポップミュージックにおいて、音楽というのは結果論だと、痛感しました。
そこから、自分の音楽の作り方は大きく変わりました。 でも、その変化は決して簡単なものではありませんでした。
“自分らしさ”と思い込んでいたものを手放すこと。 それは、これまで積み上げてきた自分自身と、静かに、でも確かに向き合い続けることでもありました。 「自分はこうあるべきだ」という思考から抜け出すのは、容易なことではなかった。
でも、ふと気づいたんです。“自分らしさ”は、案外自分が遠ざけていたものの中にも潜んでいると。むしろ、“自分らしさ”という名の古い箱を抱えたままで、新たに荷物を持つことはできない。そして、すべてを手放しても、最後に手元に残るものこそが、きっと本当の自分らしさなんだと。
その葛藤は、2010年代を通して、長く心の中に影を落とし続けました。 でも、だからこそ、あの時の迷いや苦しみが、今の自分のになっていると感じています。

3-3. 自分の中で「プロになった」と感じた瞬間は?

「プロになった」というより、プロでいる覚悟を突きつけられた瞬間がありました。まさに、先に話した少女時代の「MR.TAXI」の制作です。
巨大アーティストが持つ矜持や情緒を理解し、その期待に応える制作クオリティ。 さらに、緻密に計算されたスタジオ現場を回していく力。どれもが、これまでの自分にはなかったものだった。
その現場に立たされたとき、無理やり成長せざるを得ない環境が目の前に広がっていたんです。あの緊張感は、あとにも先にも少女時代のセッションでしか味わったことがありません。
それまでの自分は、どこかで楽しく音楽を作ることだけに満足していた。アーティストと一緒に、好きなように音を重ねて、好きなように仕上げる。それで「良いものができた」と思っていた。でも、その時間は、言ってみれば幸せで美しい箱庭でした。その箱庭から、無理やり引きずり出された感覚。
目の前に広がるのは、もっとシビアで現実的なプロの現場でした。もう、「好きなように作ればいい」では済まされない。結果がすべて。誰のために、どんな音楽を届けるのか。それを考え抜くことが求められる世界です。
その瞬間、はっきりと自覚しました。 自分は、もうプロでいるしかないんだ。
あの瞬間こそが、リアルに「プロになった」と感じた瞬間です。

4. これまで関わった作品やアーティストについて

4-1. 特に印象に残っているアーティストや楽曲は?

「MR.TAXI」の前に、どうしても触れておきたい楽曲があります。
それが、EXILE、Sowelu、Doberman Inc.による「24Karats」(2006年)です。

この曲は、今でも歌い継がれ、シリーズとしても展開されています。どれだけ関連楽曲が生まれたのか、自分でも正直もう把握しきれないほどだけど、その最初の一曲にまつわる記憶は今でも鮮明に残っています。
当時の自分にとっては、初めての大型タイアップ曲。この曲はもともとファッションブランドのために作られたものでしたが、それまでの仕事とはまったく違うレベルのものだった。
これまでの制作では、「こんな歌詞で」「こんなサウンドで」といったざっくりしたリクエストに応えるだけで自分としては自由度が高かった。でも、この曲ではクライアント側に明確なビジョンがある。自分が担うのは、そのビジョンを的確に、そして最大限に形にすること。自分のセンスだけで音を作るんじゃない。自分の中にあるアイデアと、クライアントの期待を正確に結びつける作業。それは、これまでと違うクリエイティブの視点責任感が求められるものでした。
さらに、スケジュールはタイトで、新人プロデューサーとして「やり遂げなければならない」という重圧もあった。そして今でも忘れられないのは、まさにレコーディング当日、スタジオに向かう途中で見たYahoo!ニュース。そこに、「24Karats」リリース決定の情報がすでに公開されてて(笑)。まだレコーディングの真っ最中。曲も完成していない。それなのに、世間はリリースを楽しみにしている
「これ、絶対に失敗できないぞ…」
背筋がゾクッとしました。制作途中の作品が、すでに世間に名前だけが先に走っている。その事実が、これまで感じたことのないほどの重圧となってのしかかってきた。

そして迎えた3日間のレコーディング。目の前にはEXILEのメンバー、隣にはSoweluさんが座っている。スタジオの空気は、静かで、でも確実に張りつめたものでした。
「これでいいのか?」
そんな問いが、頭の中で何度も響いていました。全員が見ているゴールに、自分もちゃんとたどり着けているのか。その不安は、トラックダウンセッションが終わるまで、ずっと消えなかった。
あの張り詰めた空気ギリギリの緊張感
それでも、最後までやり遂げたからこそ見えた景色がありました。
「24Karats」の経験が、プロデューサーとしての自分に新しい視点と強さを与えてくれたのだと思います。

4-2. 制作の中で大変だったけど、乗り越えてよかった経験は?

「R.Y.U.S.E.I.」(2014年)は、まさに自分にとって乗り越えるべき壁だった楽曲です。
もともと自分の音楽的なルーツは、R&BHIPHOP。だから、4つ打ちのダンスミュージックには正直馴染みがなかった。クラブに行くとしても、足が向くのは硬派なHIPHOPのパーティー。2010年代に入って、クラブのフロアにEDMダブステップが流れ始めた頃、どこかその流れを疎ましく感じていた部分もありました。「なんか違うんだよな」って。今思えば、そんな自分こそが視野の狭さに囚われていたんですよね。じゃあ、どうやってその壁を越えたのか。方法は意外とシンプルでした。
「好きなものを作ればいいじゃないか」という、ひとつの開き直りです。無理にEDMに染まる必要もない。でも、自分が心から好きだと思える要素がたまたまEDMの中にあるなら、それを作ればいい。そう思った瞬間、重たかった扉がふっと軽くなった。
実際、たくさんのEDMを聴き漁りました。正直、それはもう拷問のようでした(笑)。でも、音の海に潜っていく中で、ふと気づいたんです。
展開のわかりやすさ。刹那的な高揚感。そして、美しいメロディ。
この3つの要素は、自分の音楽観とも不思議と重なる部分があった。そこに気づいてからは、どう自分のスタイルに落とし込むかを考えるだけだった。
音楽制作そのものが大変だったわけじゃなくて、苦手意識とどう向き合うか、自分の中の偏見とどう折り合いをつけるか。本当に大変だったのは、そこだったんです。
でも、それを越えたからこそ、「R.Y.U.S.E.I.」という楽曲が生まれた。その経験は、単に音楽の幅を広げただけじゃなく、自分自身の価値観を柔らかくしてくれたと思います。

4-3. 逆に「これが自分らしさを出せた」と思う作品は?

「R.Y.U.S.E.I.」も、自分らしさを表現できた作品のひとつではありますが、その直後に手がけた「J.S.B. DREAM」(2015年)は、より自分の感覚が色濃く出た曲だと思っています。
この楽曲は、音サビのあるTRAPサウンド。まさに当時、夜遊びしているときに耳にしていたような音楽を、まっすぐに形にしたものでした。
クライアントからは、たぶん「24Karats」のような楽曲を期待されていたことは、肌感覚でわかっていた(笑)。でも、「R.Y.U.S.E.I.」での成功もあって、ここはひとつ、自分の“今の気分”に素直になってみようと思いました。「こういう曲が作りたいんです!」なんて声高に言うことはしなかったけど、何も言わずに、何も聞かずに、ただ自分が作りたいものを作って、静かに提出した。そして返ってきたのは――何のコメントもない採用。
直しなし。指示なし。これ以上の賛辞ってないですよね。音楽って、言葉以上に伝わる瞬間があって、あのときはまさにそれを感じた。無言で「これでいい」と言ってもらえた感覚。その瞬間、自分の音楽がちゃんと届いたんだと確信できた。「J.S.B. DREAM」は、自分の感覚をそのまま音に落とし込めた作品。だからこそ、今でも心から楽しかったと胸を張って言える一曲です。

5. 20年間を振り返って

5-1. 最初に思い描いていた「音楽プロデューサー像」と、今の自分はどのくらい重なりますか?

正直に言うと、「音楽プロデューサー像」みたいなものを思い描いたことはないです作詞家なら「この人の言葉が好きだ」、作曲家なら「このメロディはすごい」と思える存在がいたけれど、プロデューサーとして「こうなりたい」と思える誰かが、当時の自分の周りにはいなかった。
だから、誰かを目指して頑張ることもなければ、自分を無理やり枠にはめることもしなかった。何かを定めたわけではないから、失敗してもガッカリすることもなかった。その代わり、期待に応える責任も、自分のやり方を貫く覚悟も、自分の中で自然に育っていった気がします。
音楽は自分にとっていつも生活の中のどこかにあった。特別に意識して手を伸ばしたわけでもないし、何かを掴もうと焦ったこともない。ただ生活の中に音楽があって、気づけばそこに夢中になれる場所があった。それだけの事でしかなくて。
誰かの背中を追いかけて、見えないレールの上を走るより、自分の足元にある石ころを蹴り飛ばしながら進んできた。目の前に転がってきたチャンスや課題を、ひとつずつ丁寧に拾い上げてきた。それが、気づけば自分だけの道になっていた。
その不格好な歩みが、気がつけばstyというプロデューサー像を形作ったのかも。

5-2. 自分の音楽人生で「これは誇りに思う」と言えることは?

振り返ってみて、自分が誇りに思うことは、世間でよく語られる「音楽プロデューサー像」に迎合しなかったことだと思います。自分は音楽を作ることに集中してきた。音楽の外側に表現の場を求めなかった。自分は文字通り、音楽のプロデューサーでありたかった。
もちろん、そういうスタンスは時に孤独を生みました。自分が生きてきた世代には、前時代的な価値観や、エシカルとは程遠い空気が当たり前のように漂っていた。そういう空気に、無意識に敏感でいられたのは、自分の中で誇りに思っている部分でもあります。違和感を覚えたら、迷わず距離を取る。その結果、気づけば音楽業界に友達がほとんどいなくなっちゃった(笑)。でもその選択を後悔したことはありません。
むしろ最近は、若い世代のクリエイターたちが声をかけてくれることが増えた。これが「誇り」とは少し違うかもしれないけれど、素直に嬉しいと感じています。時代が変わっていく中で、自分が貫いてきたスタンスが少しずつ共鳴してくれる人たちに届いているのかもしれません。それは、自分の音楽人生において大切な手応えのひとつです。

5-3. 「音楽業界に友達がいない」とのことですが、だからこそ大切にしている関係性や距離感は?

音楽を作るという作業は、自分にとってとてもパーソナルな行動です。たとえば、「今すぐこの場でパンツいっちょになれますか?」と聞かれたら、たいていの人は戸惑うでしょう。それは、誰にでも自分だけの領域や境界線があるから。音楽に対しての自分も、まさにそんな感覚です。自分のことを他人にシェアする範囲が狭いのは、単に距離を取っているのではなく、相手のプライバシーや心の距離にも同じように配慮しているから
誰かにとっては何気ないことでも、自分にとっては大きなハードルになることがあります。だからこそ、相手が大切にしている距離感や気持ちに自然と心を寄せ、思いを馳せることが多いんだと思います。深く関わることが全てではないし、無理に距離を縮めることが関係性の価値になるとも思っていません。でも、お互いを尊重し合える人たちが今、自分の周りに集まってきてくれていると感じています。
アーティストとのコラボレーションも同じです。仲良くなって友達になることが目的ではなく、良い音楽を生み出すために最適な関係性でいることが大事。プロデューサーとしての役割は、素晴らしい音楽で自分自身や他人の表現を形にすること。だからこそ、冷静に何を伝えたいのか、どう表現するのがベストなのかをディスカッションできる距離感を大切にしています。そういう意味だと、音楽業界に友達と呼べる人はひとりもいないかも。
結果的に、その距離感があるからこそ、アーティストの魅力や音楽がより際立つと思っています。適度な距離感は、信頼の証。その信頼関係の中で、最高の音楽が生まれると信じています。

5-4. 20年の歩みを経て、今の自分にとって「音楽」とは何ですか?

音楽は、未完成のままでいいもの。
20年も音楽を作り続けてきたけれど、「これが正解だ」と思った瞬間は一度もありません。むしろ、音楽に完成なんてないんだと、ずっと思ってきた。
最初は、好きな音楽を真似するところから始まって。
少しずつ、自分なりの形を見つけて。けれど、見つけたと思った瞬間に、それが枠になって、自分を窮屈にすることもあった。“自分らしさ”という言葉は、時に自由を奪う。だから、何度も壊して、手放して、また拾い直してきた。
思えば、音楽だけじゃない。新しいことに挑戦するたび、失敗や違和感にぶつかってきた。でも、そこで立ち止まらずに、「これでいいのか?」って問い続けたからこそ、次の景色が見えた。
音楽は、きっと完成を目指すものじゃない。むしろ、ずっと未完成だからこそ、面白いんだと思う。変わり続ける自分に、素直であること。まだ知らない音に、耳を澄ますこと。その繰り返しが、音楽を続けていく理由なんだと思います。
だから、これからも「これが正解だ」とは思わずに、未完成のまま進み続けたい

それが、20年を経た今の自分にとっての「音楽」です。

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