中国人との対話不可能性、その正体とは
人材育成コンサルタントの孔令愚さんのnoteが面白かったです。
中国大陸における台湾問題の扱いを例に、世の中には残念ながら対話不可能な話題というものがある、ということについて書いたものです。国際問題に限らず、個人の間でも触れないほうがよかったり、触れてもロクなことにならない話題って、いっぱいありますものね。
ただ、それにしても中国という国はこの「対話不可能性」を感じる事柄がちょっと多いよな……と思うことが、正直にってあります。
今日はそれについて書いていきます。
国際問題は対話不可能性の宝庫
台湾以外にも、中国における政治問題は対話不可能性の宝庫です。
香港、ウイグル、チベット、その他少数民族の問題などは、それぞれすべてについて話す前から結論が決まっていて、「公式見解」以上のことを話す余地がまったくない、と感じることがしょっちゅうあります。
そのほか日本の戦争責任や、最近ではそれこそアメリカが無謬の悪であるとする論調などは、ほとんどみんなが判で押したように同じことしか言いません。外交筋や中央の態度に限らず、個人についてもそうです。
結論以外でも、「でも、この部分に関してはこういう考え方もあるんじゃないかなあ」というような部分的な評価や、「相手のほうから見たら、こういうロジックもありうるんじゃない?」というような相対化の試みさえ、ほとんど聞き入れられません。
よって、このあたりについて中国の人と話をすると、それこそ疲弊するだけで得るものは何もない、ということになりがちです。
過去には、夫婦でさえひどく不毛な結果になりました。
もうちょっと客観的な視点や、相対化した考えを持ってくれてもいいのになあ……と思うことはありますが、まあそれこそヨソの国の人間が何を言っても仕方のないことなのでしょう。難しいものです。
政治以外でも感じる強烈な頑なさ
政治的なこと以外でも、別種の対話不可能性を感じることもあります。
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