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言語化とは、地図を描いてゆくがごとく

日曜日なので、中国とは直接的に関係ないことを気ままに書こうかなと思います。少し抽象的な話になってしまうかもしれませんが、ご容赦ください。

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僕の書いている定期購読マガジンの名前は「中国を言葉にするマガジン」です。その名の通り、中国にまつわることを言葉に変えていく、言語化するというコンセプトで毎日文章を書いています。

その「言語化」という営みのイメージをより具体的に掴み、明確にするために、「言語化するとはどういうことか」を考えてみよう、というのが今日のテーマです。

僕にとって言語化とは、「言葉にできることと、できないことの地図を描いていく」ための営みです。

それはどういうことか、言葉にしてみたいと思います。

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個人的な考え方ですが、世界には自分を中心にして、「言葉にできること」と「まだ言葉にできていないこと」と「まったく知らないこと」があると思っています。

「言葉にできること」は、文字通り自分の中で腑に落ちていて、言葉によって説明が可能なことです。そこに何があるのか、どこがどうなっているのかはっきりと地図が描けている部分、といえます。ある現象や風景、心情など、あらゆるものがその対象になります。

そして、その周囲には「言葉にできないこと」があります。そこに土地があるのはわかっているが、具体的にどうなっているのかよくわかっていない、まだその場所の地図が描けていない場所です。そしてその周囲には、自分には関係のないこと、「まったく知らないこと」が広がっています。

イメージとしては、大きな海に浮いている無人島のような感じです。

下手くそな絵で申し訳ないのですが、中心の濃い緑で描いた島っぽいのが「言葉にできること」で、その周囲の薄い緑が「まだ言葉にできていないこと」です。その周囲には「まったく知らないこと」の青い海が広がっています。

そして言語化とは、この「言葉にできること」の範囲を拡張していく作業です。地図を少しずつ正確なものにしていくように、まだぼんやりとしていて捉えきれていないことや、説明のつかないことの解像度を上げ、はっきりとしたものにすることこそが、僕にとっての言語化です。

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そしてこの言語化という営みには、二つの快感というか、優れたところがあると思っています。その二つとは、「ぼんやりしたものを明確に捉え直す快感」と、「新たな「まだ言葉にできていないこと」に出会う喜び」です。

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