「中国は独裁だから」でなんでも済まそうとする前に
こんな記事を読みました。書いたのは「中国共産党 世界最強の組織」の著者、西村晋さんです。
日本のニュースなどで語られる「独裁的で恐ろしい統治機構」としての中国共産党ではなく、社会のあらゆる層に根を張り、住民の声に耳を傾け、民衆の抱えている不満や問題の発見に役立てようとする「手強い」組織としての共産党の姿が描かれています。
その内容、草の根組織としての共産党が具体的にどんなことをやっているかという話もやはり面白いのですが、僕が気になったのは冒頭の文章です。西村さんは、これまで日本で幾度となく語られてきた「中国崩壊論」の問題点を、以下のように書いています。
「中国は独裁である」というのが、日本(あるいは他の国でも)で中国が語られる時の、ある種の前提となっています。
「独裁」の意味が、一人の個人ないし一つの党派が政治においてあらゆることに決定権を持つことを指すのだとすれば、たしかに中国は独裁的であると言えます。それによる問題も多々ありますし、特に近頃は習近平政権の長期化や個人崇拝化によて、その危うさがどんどん増してきているようにも見えます。
いっぽうで西村さんが指摘しているように、中国が独裁的であるということは、民衆の声を吸い上げるシステムがまったく機能していない、ということを必ずしも意味しません。民主選挙という形でなくとも、中国においては政治の側が人々の声に耳を傾けるためのシステムが、少なくとも存在はしています。
もちろんそのシステムも常に十全に機能するわけではなく、結果として民意を得ていない施策が実行されてしまうこともあります。逆に、多数派としての民意のほうを向きすぎて、弱者や少数者をないがしろにするようなことが平気で実行されてしまうという問題もあります(ゼロコロナによる困難や悲劇などは、どちらかというと後者の要素の方が強い気がしています)。
ただそれは、「民主的な」他の国でも同じこと、とも言えます。多数派の民意が間違ったほうに向いてしまう可能性はいつだってゼロではないし、民主的な選挙で選ばれたはずのリーダーが不人気な政策を連発したり、そのなかで少数者が不当に冷遇されたりなんてことは、ザラにあるわけです。
中国をことさらに特殊なものとみなし、「独裁だから政府がなんでも好き勝手にやれるんだ」などという雑なフィルターで何かを語ったような気になったり、ましてやいずれは崩壊する対象として見下すのではなく、その実態や本質を具体的に観察し、学ぶべきことは何か、あるいは学ばないべきは何かをつぶさに見ること。
それが、中国を観察するにあたって必要な姿勢だと、件の記事で再確認しました。
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もうひとつ、「中国は独裁だ」という物言いで思考停止してしまうことの問題が、もう一つあると思っています。
それは、まるで中国に暮らす人を、まったく主体性をもたない存在だとみなしてしまうような危うさです。
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