暴走する環境保護の若者、おとなしい中国の若者、「間違える権利」のこと
最近、こんなニュースをよく見ます。
環境保護団体に所属する人々が、各地で抗議活動と称して名画にトマトスープやらマッシュポテトやらをぶっかけたり、上の記事のように国王の蝋人形にパイ投げをする事件が相次いでいるそうです。
その目的は、彼らの主張する環境破壊への懸念を多くの人に知らしめるため、つまりパフォーマンスとしての側面が大きいようです。彼らはこういった行為と同時に、必ずその場で動画をSNSにアップロードするなどして、懸命に(?)自分たちの主張が正しいことをアピールしようとします。
こういう社会への反抗みたいなことが環境保護という「ただしさ」の名の下に行われていることや、彼らがSNSを活用していることなどに時代性を感じるなあ、などと思って彼らのことを見ています。
いま話題になっているこれらの活動は主に欧米の若者が中心になって行われているようですが、そんな彼らと僕が普段接する中国の若者を対比しながら、ふと考えたことがあります。
今日はそれについて書いてみたいと思います。
多少は温かく見てやってもよくないか
まず、彼ら(環境保護団体の若者)のやっていることは基本的に犯罪行為です。それを自分たちの主張を通すために行うことは、決して肯定されるべきではありません。
法律に則っていない手続き、しかも注目を集めることを主眼にした過激な方法で世間に訴えかけることは、いくら「ただしさ」が背後にあろうと、許してはいけないでしょう。どれだけじれったくても、公正な手続きのもとで自分たちの主張をするべきです。
また、彼ら自身が牙を剥いている「社会」という存在によって自らの生活が支えられている、ということへの思慮の浅さも批判されて然るべきでしょう。彼らが安心して抗議活動を行い、それをSNSにアップロードして英雄気分に浸れるのは、社会がその環境を支えてくれているからにほかなりません。そういう意味で、彼らのやっていることは幼稚に過ぎます。
と、批判されるべき部分はもちろんあると認めた上で、「それくらい、やらせてやってもよくない?」と思ってしまう自分も、どこかにいます。
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