それは本当に〇〇だからなのか

noteで日本と中国の違い、日本人と中国人を比較した場合のそれぞれの特徴などを書いていると、ふと不安に見舞われることがあります。それは、「その違いや特徴は、本当に〇〇という国であること、〇〇人であることに由来するものなのだろうか?」というものです。

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自分自身では、ウソからエピソードを作り出したり、また聞きしただけの話を論拠に断定的な書き方をしないように気をつけているつもりです。

そうして書いたものが、ありがたいことに中国に関わったことのある邦人の方々に共感していただいたり、納得していただいたりという反応を得る機会もたくさんあります。

しかし、それらはどこまで行っても「一部の日本人から見た、ごく狭い世界での共感・納得」にしかなり得ません。共感・納得していただけること自体はもちろん死ぬほどうれしいのですが、その反応を世界の全てだと錯覚し、「自分の言っていることは正しい」と思い込んでしまうようなことにならないように気をつけないとなあ、と日々思っています。

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そもそも「中国」や「中国人」とは、一括りにするには大きすぎる概念です。何を語るにも、母数や規模が日本のそれとは比較になりません。その複雑なレイヤーを意識しておかなければ、たちまち「主語が大きすぎる」話になってしまいます。

そして、それを言い始めれば「日本」「日本人」という概念だってそうです。神戸人や京都人が大阪人と一緒にされることを嫌がる、というネタがあるように(これがすでに偏見の塊)、日本人の中だけを見ても、簡単にひとまとめにできるなどそうそうありません。

そう考えると、「〇〇の国だから」「〇〇人だから」と言っていいことなど、ほとんどないような気さえしてきます。

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しかし、「主語が大きい」ことばかり気にして何も書けないのはそれはそれで不健全な気もしますし、何より実際に触れてみればわかることですが、両者の間には少なくとも傾向としての「違い」が存在していることは疑いようのない事実です。

その違いを言語化し、いい悪いでなく客観的に眺めていく営みは、必要なことだとも思っています。

敬意を忘れないこと、それが全てだと思わないこと、本当にそれが〇〇であることに由来しているのかを、なるべく具体的・定量的な事例をもって語ること(専門性を持たない、ただの中国生活者である僕はこれが全然できていません)あたりに気をつけていければいいのかな、と思っています。

これからもたぶん偏見に満ちた視点からの言葉を投下したり、どこかからの怒られが発生したりすることもあるかもしれませんが、できる限り謙虚にやっていきたいと思います。

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華村@中国
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