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攻撃性・加害性と向き合ってみた。

これは、ミシルさんに電話相談する際に使うメモです。
その他、自由に読んでもらって構いません。

●攻撃性とは

主張の一種(主に自己防衛としての“意志”の表出)
“反射的防衛反応”
“できなさ”の主張
癇癪(かんしゃく)
“めんどくささ”の表れ
“未熟さ”の主張

悪意から生じることもあるし、悪意からでない動機で生じることもある

→ミシルさんが以前言っていた「攻撃性と未熟さは混在している」とはこのことかもしれないと思った。

●悪意とは


故意に傷つけよう、加害しようとすること
“自分始まり”の攻撃性、加害性

●未熟さとは

①適応できなさ
応じられない、距離を測れない、自分からアクションできない、受け答えと自発性のバランスが取れない

②“眼力”のなさ=“見れなさ”
人や物事をありのままに“眼差す”ことができるかどうか。また、知らないでおけるか。(このバランス能力でもある)
=観察力→知る→適応に移れる

→怖いものほど“見れない”。
私の場合、攻撃的な人、好きになる人・近しい人の攻撃性・加害性、同年代や若年層とのコミュニケーションなどを“見れない”


Qなぜ怖いか?
→家族からの加害を受けた記憶

Qなぜ私の家族は私を加害(暴言、暴力、怒り、不機嫌によるコントロール)をしたのか?
→彼らの加害=怒り(自己主張)=攻撃性(=コミュニケーションのショートカット)

Q私の家族の“加害性”の本質は?
→私を「攻撃しよう」「害を与えよう」ではない。=悪意からではない
悪意なき加害。悪意なき攻撃。
(私に害を与えたことは事実だが)

しかしその加害、攻撃には、家族達が主張したかった“できなさ”、“反射的防衛反応”、“めんどくささ”があった可能性が高い。
(実際の彼らの置かれた状況を思い出すと納得できる)(仕事の忙しさ、経済的困窮など)

つまり、家族が私に対して攻撃したのは私への“甘え”であり、
彼らなりの自分の“未熟さの主張”=自己開示、あるいは私の言動に対する防衛反応だったのかもしれない。

つまり、彼らの攻撃以前に、
私に加害性があったのかもしれない。
だから、彼らの加害性、攻撃性を引き出すことになったのではないか?


Qそもそも“害”とは何か?

辞書的な“害”の意味は、
傷つける、損なう、悪い状態にする

私の思う“害”の意味は、
不快にさせる、
困惑させる、
混乱させる、
悩ませる、
物理的負担を与える、
心理的負担を与える、
生活をままならなくさせる


Q私の加害性とはどんなものか?

“傷つき”、“損ない”、“悪い状態になる”という点で考えてみると、
傷つく、損なう、悪い状態になるのは、
害された側の受け止め方が被害的だからそう感じるだけなのではないかと思った。
つまり、“傷つく”ということは、傷つけられた=害を感じた本人が、「私は加害される存在なのだ」「私はいつも害を与えられる人間だ」という認知をもっている可能性が高い、ということだと言い換えられる。

それに、その“害され”は受け取った側にもともとあった問題の“顕在化”なのではないかとも思った。
つまり、相手に悪意がなくてもあっても加害性に害されない人はいるけど、悪意があってもなくても加害性に害されるということは、受け止める側に何かがあるからではないか?


また、“私の考える害”に沿って“私の加害性”について考えてみると、

不快にさせる
→害された相手の価値観、認知の意味づけが、私自身の価値観、認知の意味づけと乖離してるだけの問題ではないかという答えが浮かんだ。
噛み合わないのだと思う。その人と私の価値観が。
もっと言うと、私の価値観と認知がその人にとって“異物”だと認識されてるのだと思う。異物と言ってしまえば、そりゃそうなのだが。
しかし、私の価値観と認識の枠組みが他より逸脱してるのを生きてきて感じている。
きっと、他の人にとっては受け入れがたく、それが私と関わることの不快感を与える考え方なのだと思った。

また、困惑や悩み、心理的負担を私が与えてしまっているのは、
私の内面の体積の大きさ、複雑さを理解できるキャパが受け取る側にないからだと思った。これは私が幼い頃から蓄積してきた思索の脳内記録が膨大だからだと思う。これは私が私を辞めない限り消えて無くならないものだから、捨てる気無し。


以上から、私の加害性は私固有の価値観や認知、私自身のアイデンティティーの、体積の大きさと複雑さからきているのだと思った。

しかしこの結論をふと見返してみると、

「これは、“私以外の価値観、認知の枠組みを無視している”ことになっていないか?」
と思った。

また、
「私が、私のアイデンティティー(=「私はこう」×∞)を、目の前の人や周りの人達のキャパシティ以上に見せすぎている、伝えすぎている、与えすぎているのではないか?」とも思った。

●他者からの否定、批判、否認の背後にある私の加害性

「相手を知らないこと」
「相手を知らなかったこと」
「相手を知ろうとしなかったこと」
これはつまり、

「相手の傷、トラウマ、自己否定感を感じることを知らなかった」ということや、相手の大切にしている物事、認知の構造を認識していなかったということかもしれないと思った。

この内省を振り返ってみて、
まず、
「個々のコミュニケーションの序盤にいたから私が相手を傷つけてしまったのは仕方なく、人を知っていく学習過程の序盤(幼少期〜成人前後)にいたから仕方ない。」と思った。

しかし今ここで文章にまとめていて思ったのは、
「私は、しっかり、そして慎重に相手を知ろうとする段階を飛ばして、その人、その人たちと仲良くしようとしていた、仲良くしようとしているのではないだろうか?」と思った。

先の話で言うところの、
「私の主張、自己顕示欲(=自己防衛と甘えた)が周りや相手のキャパを超えている」
点について言うと、
「周りや相手のキャパを知らない。気づいていない。認知していない。」
また、かなり強い「認めてほしさ」がある。
と思ったのだ。

●なぜ私は過剰なまでに“認めてほしい”のか?


まず一つの理由として思い当たることは、

「自己防衛のため」
そしてもう一つの理由は、
「甘え」=「未熟さを“未熟でいい”と承認してもらえないと、生きてていいと、存在してていいと思えない。」という思い込みがあるから。


私はなぜ甘えるのか?
それは、甘えることが自分が社会の中で生きていくための“泳ぎ方”だったからだ。
そして、それが私なりの社会への加わり方だった。
甘えることそのものが自己紹介とも言えるかもしれない。
要は、こういうメッセージを甘えることで発してきた。

「私は“みなさん”みたいに人付き合いは上手くないけど、こういう生き方を“させてもらってます”。
反感を買ったり、不快に思われるかもしれないけど、私はこういう人間なので、“お気をつけください”。」


このメッセージから私自身が読み取れたことは、

①自分以外の人間を過大評価している

②自分以外が上、自分が下、という上下関係を意識している。
(だから、下剋上精神で反逆や反抗、反撃の衝動が時折噴き出す=攻撃的なつぶやき、自己表現になって現れる)

③周りの人は、関わる人は、私のことを不快に思っているかもしれない。と考えている。


この3点が、今までの人間関係全体からの学び(?)で、他者から受け取ったメッセージの総論だと思う。

この学びとメッセージから、私自身の自己認識が、
「自分以外の人は“良い”、“まとも”」
「私は“悪い”」
「自分が下、他の人は上」
「自分以外の人は他人に心地よさを与えられる存在」
「私は不快を与える存在」
「私はおかしい存在」
という認識になっていることが分かった。

以上の自己評価が、私の中にある“人が怖い”の根拠となっている気がする。

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