シン幸福論
はじめに
代表的な幸福論が三つあります。ヒルティとアランとラッセルの幸福論です。これらの中で,ヒルティの幸福論が最も深くかつ根本的です。しかし,ヒルティの幸福論は,キリスト教信仰を前提にしています。故に,無神論・無宗教が蔓延する現代において,ヒルティの幸福論は物足りないかもしれません。今回は,心理学的観点を用いて,「キリスト教を前提にしない幸福論」を展開します。
なぜ人間は幸福を求めるのか?
「私」の誕生
生まれた直後の人間には,「私」という意識はありません。つまり,生まれたての赤ん坊は,母子一体の境地であり,自我が芽生えていないのです。赤ん坊が見ている世界は,事物に何の区別もない無分節の世界であり,いわば「のっぺりとした一つの全体」であるはずです。
しかし,成長するに従い,自我が芽生えます。どういう過程で芽生えるのでしょうか?赤ん坊が周囲を見回す時,世界の景色が変わります。しかし,自分の身体だけは変わりません。身体はいつも彼にまとわりついて,世界の中心を占めている。つまり,赤ん坊は,自分の身体を通して「私」を意識し始めます(ベルクソン「物質と記憶」)。
世界の誕生
赤ん坊は,自分の身体を中心として,世界観を形成します。自分の身体とそれ以外の区別が,いつしか「内と外」の区別に変換され,空間の概念が形成されます。自分の身体の以前と以後の状態変化が,いつしか「前と後」の区別に変換され,時間の概念が形成されます。時間という縦糸と空間という横糸。この二つの糸により,赤ん坊は「のっぺりとした一つの全体」を分節化し,分節化された事物に名前をつけます。世界の誕生です。カントが言ったように,「時間と空間は認識能力の基本形式」なのです。
社会の誕生
世界の分節化はさらに進行します。軍隊が規律によって秩序を形成するように,人間は規範的価値により社会観を形成します。規範的価値には3つあります。第一に,肉体的基準です。自分が出会う様々な人々を,性別・民族・顔や身体の形状によって判断するのです。第二に,社会的基準です。学歴や地位・年収の多寡により,人間の優劣を決定します。第三に,心理的基準です。性格的な傾向性や自分との相性・フィーリングにより,相手をタイプ分けします。
このように,原初の「のっぺりとした一つの全体」は,時間と空間によって分節化され,さらに肉体的・社会的・心理的価値により秩序づけられ,まるで碁盤の目に石を配置するように,可変的な人間を固定化するのです(ミシェル・フーコー「監獄の誕生」)。
なぜ人間は不幸に陥るのか?
幸福の追求
無分節から分節へ。一つの全体から無数の個物へ。人間の意識は,こうした過程により,個人という意識を獲得しました。一定の価値基準に縛られた個人は,必然的に,高評価を得ようともがきます。美しくなりたい(肉体的価値),金持ちになりたい(社会的価値),善良な伴侶を得たい(心理的価値),と。しかし,欲望はまるで蜃気楼のように,走っても走っても追いつけず,最後には死のラッパが鳴り響きます。
「人間は,10歳にして菓子に動かされ,20歳にして恋人に,30歳にして快楽に,40歳にして野心に,50歳にして貪欲に動かされる。いつになったら人間は,ただ知性のみを追って進むようになるのであろうか?」(ゲーテ)
なぜ人間は,幸福を求めるのでしょうか?そもそも幸せとは,何を意味するのでしょうか?幸せとは,万象万物が一体であった原初への回帰です。つまり,分節化された個物が再び一つになることです。故に人間は,他者を求めます。どのようにして?AさんとBさんは,共通の欲望によって一つになります。さらに,CさんとDさんも彼らに合流し,共通の欲望によって一つになります。こうして,様々な形態の組織ができる。まるで分数を通分して足し合わせるように,人間は公分母によって一つになろうとする。しかし,いくら分数を足し合わせても,決して1になることはできません。つまり,いくら合同一致を繰り返しても,人間は決して満足できないのです。
幸福の終焉
人間の組織は,必ず崩壊します。理由は簡単です。Aさんは,誰かに愛されたいから,Bさんにそれを求めたのです。しかし,このBさんもまた,誰かに愛されたいから,Aさんにそれを求めました。CさんもDさんも同様です。つまり,愛を渇望した人間は誰かにすがりつきますが,その相手もまた,愛を渇望しているのです。故に,すべての組織や人間関係は崩壊します。ぎゅっと押し固めた砂の塊も,手を離せばバラバラの砂粒に分解するように,表面的に合同しようとした集団は必ず分裂します(創世記11-1~9/バベルの物語)。
真の幸福とは何か?
絶対無分節
人間は,分節化したから不幸に陥ったのです。幸福になる唯一の道は,再び無分節に回帰することです。しかし,私たちは,無垢な赤ん坊に戻ることはできません。永遠不変の幸福を得る唯一の道は,絶対無分節の境地を体験することです。つまり,外的に人間と繋がるのではなく,内的に人間と繋がることです。マルティン・ブーバーが述べたように,我は絶対者を通して汝と繋がるのです。絶対者とは何か?それは,キリスト教的には神,仏教的には無,心理学的には集合的無意識です。
自我から自己へ
自我(エゴ)は,絶対者を通して死にます。と同時に,分節化された世界も崩壊します。なぜなら,自我と世界,見るもの(ノエシス)と見られるもの(ノエマ)は,表裏一体だからです。そして,死滅した自我の墓場から,本来的自己(セルフ)が復活します。と同時に,絶対無分節の世界が誕生します。自我から自己へ。旧世界の崩壊と新世界の創造。この心理的過程の描写こそ,黙示録の本質です。いずれにせよ,自我は,孤立した一つの個人(モナド)です。自己は,神と共にある聖者(神のために用いられる器)です。「誰かに愛されたい」と渇望していた自我は死滅し,神の愛に満たされた自己が復活します。もはや自己は,他者に愛を求めません。なぜなら,神の愛が彼に注がれ,心の盃は溢れに溢れ,他者を潤すほど周囲に波及するからです。
おわりに
真の幸福を得た時,人間は幸福を求めなくなります。いや,幸福という文字は,彼の頭から消失します。幸福な人間は,己の幸福を考えません。健康な人間が,健康を考えないのと同様です(三木清「人生論ノート」)。幸福を忘れ,ただ一心に己の使命に集中する。これが,本当の幸福です。
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく,キリストが私の内に生きておられるのです。いま私がこの世に生きているのは,私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によるのです」(ガラテヤ書2-20)
以下は参考書籍です。