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日本滅亡を回避するために~ビスマルクの大戦略に学ぶ~
はじめに
神聖ローマ帝国はナポレオンにより崩壊し,ヨーロッパ中央は小国に分裂しました。これら小国を統一しドイツ帝国を創建した者こそ,オットー・フォン・ビスマルク(1815~1898)でした。
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ビスマルクは通常,「鉄血宰相」や「ヒトラーの先駆者」と称されています。つまり,武断的なイメージが強いのです。しかし,それは誤解です。今回の記事は,ビスマルクの実像と国際政治の本質について解説します。
政治家ビスマルクの誕生
雌伏の時代
ビスマルクは1815年,プロイセンのユンカー(大農場を経営する地主貴族)の家に生まれました。代々プロイセン軍将校の家系です。ベルリン大学で法学と国家学を学びましたが,学生生活は破天荒でした。酒盛りと借金と決闘の毎日。しかし,唯一真剣に受けた講義がありました。それは,アーノルト・ヘーレンの歴史学でした。この講義では,ヨーロッパ各国の国力や歴史に関する考察に加え,個々の国家の目標や利害を解きほぐし,国家間の関係を一つの機能しうる国際関係システムと見なし,合理性と予測可能性を見出そうとしました。天才的外交家ビスマルクの下地は,この時形成されたといえるでしょう。
卒業後,ビスマルクは官吏の道へ進みます。が,借金により出世コースから離脱。ビスマルクは仕方なく故郷に帰り,ユンカーとして大農場の管理に勤しみました。この時の心境を,当時のビスマルクはこう述べています。
「プロイセンの官吏はオーケストラの団員に似ています。第一バイオリンであろうとトライアングルであろうとその人は全体を見通せず,また全体に影響を与えることもなく,自分に割り当てられたパートを,自分の気に入ろうと入るまいと,その通りに演じねばならないのです。ですが私は,自分がよいと思う音楽をやりたいのです。さもなければ,全くやるつもりはありません」(1838年9月29日 父親宛の手紙)
プロイセン首相へ
ほどなくして,ベルリン三月革命が起こりました。市民や労働者が蜂起し,自由主義的かつ立憲的なドイツ統一国家を創建すべく,国民議会を設立したのです。この時,保守主義者であるビスマルクは,国王を救出すべく奔走。一躍「反革命の闘士」として有名になりました。政治家ビスマルクの誕生です。
ビスマルクは1851年36歳の時,政治家から外交官に転身しました。ドイツ連邦議会のプロイセン代表として,自由都市フランクフルトに派遣されたのです。ちなみに,当時のドイツ連邦は,統一国家ではなく,大小様々な国々の混合体でした。その構成は,オーストリア帝国,プロイセンを含む5つの王国,30弱の中小諸邦と4つの自由都市であり,さらにはイギリス王,オランダ王,デンマーク王も加わった国際的な君主同盟でした。簡単に申し上げれば,雑多な集合体だったのです。
いずれにせよ,ビスマルクは11年間,外交官として世界中を飛び回りました。最初はドイツのフランクフルト,次にロシアのペテルブルク,次にフランスのパリ,時にはイギリスのロンドンをも訪れ,最後の任地はベルリンでした。こうした豊富な外交経験が,後のビスマルク外交に生かされることになります。そして,ビスマルク47歳の時,運命の歯車が急速に回転し始めました。
国王と議会,保守主義と自由主義に対立していたプロイセン国内は,国家分裂の危機に直面していました。
「この危機を乗り越えられるのは,豪腕のビスマルクしかいない」
国家分裂の危機を回避すべく,プロイセン王ヴィルヘルム一世はビスマルクを首相に任命しました。26年続く首相時代の幕開けです。
ビスマルクの政治思想
ビスマルクの活躍を記述する前に,当時の国際情勢を概観しておきましょう。当時のプロイセンは,国家安全保障上,危機的な状況にありました。南に位置するオーストリアとは対立し,西方の強国フランスは虎視眈々と領土を狙い,東方には大国ロシアが控えていました。つまり,周囲を敵国に囲まれていたのです。
ビスマルクの目的はただ一つでした。祖国プロイセンの安全を守り,自国の伝統と文化を保護することです。ビスマルクにとって,右派の主張するドイツ統一も左派の主張する立憲的改革も,夢物語の一種でした。なぜなら,国家の安全が担保できない以上,領土拡大も自由主義の実現も意味がないからです。ドイツ統一は「感傷的な青年による月下の妄想」であり,ビスマルクはただ「プロイセン人であり続けること」を望んだのです。
ビスマルクの武断的なイメージは,後世の脚色に過ぎません。なぜなら,ビスマルクは,軍事的リーダーというよりは大戦略的な外交家だったからです。
「我々ドイツ人は神を恐れるが,それ以外の何ものも恐れない。神の恐れから,すでに我々は平和を愛し育んでいるのです」(1888年2月6日の帝国議会演説)
やむを得ぬ場合には戦争を遂行するが,武力衝突は極力避け,外交術を巧みに操って国家安全保障を確立する。戦って勝つのではなく,戦わずして勝つ。これがビスマルクの政治信条だったのです。
宰相ビスマルクの大戦略
ドイツ帝国の成立
1866年6月14日,プロイセン・オーストリア戦争が勃発しました。プロイセン軍は,鉄道・電信・速射用の銃を用い,モルトケの作戦によりオーストリア軍を撃破。仮想敵国フランスの介入を恐れたビスマルクは,直ちにプラハ講和条約を結びました(7週間戦争)。北ドイツ連邦の成立です。
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周囲を敵国に囲まれているプロイセンにとって,戦争の長期化は避けねばならなかったのです。
ビスマルクが最も警戒した国は,ナポレオン三世率いるフランスでした。侵略欲旺盛なフランスは,虎視眈々と中央ヨーロッパを狙っていたのです。故に,絶対的に避けねばならない事態は,フランスとロシアが同盟を結び,プロイセンを挟撃することでした。そこでビスマルクは,プロイセン・オーストリアによる北ドイツ連邦を拡大強化すべく,南ドイツ諸邦を説得。1871年,ドイツ帝国憲法が制定され,ヴィルヘルム一世がドイツ皇帝に就任しました。ドイツ統一国家の誕生です。
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それにしても,当時の国内情勢を考えると,ビスマルクの手腕は見事としか言いようがありません。虚栄心溢れるヴィルヘルム一世や好戦的な軍部,不平を言う南ドイツ諸邦,議会の極端な自由主義派をコントロールしつつ,プロイセンの国益を追求し,プロイセンの軍事力によるドイツ帝国を創造したのですから。
ビスマルクが考案したドイツ帝国の政治システムは,非常に画期的なものでした。なぜなら,それぞれの勢力の意見を適度に尊重しつつ,強力な統一国家を作り上げたからです。ドイツ帝国は,22の君主国と3つの都市国家から成る連邦国家であり,経済・交通・軍事・外交は帝国レベルで対応し,各邦の政府・議会・行政はそのまま維持しました。立法機関は連邦参議院と帝国議会の二院制であり,議席配分は国力に応じて配分しました。秀逸なのは,南ドイツ諸邦が結束すればプロイセンに対抗できるよう,敢えて政治権限を賦与したことです。相手が決して敵意を抱かないようにし,柔軟にコントロールする。これがビスマルクのやり方でした。また,ビスマルクは保守主義者でしたが,自由主義者の要望も取り入れ,帝国議会は25歳以上の男性による普通・平等・直接・秘密選挙により選出されました。つまり,国家安全保障という大義のためであれば,極右勢力でも自由主義勢力でも何でも利用する。つまり,立憲主義や民主政治でさえ,ビスマルクにとっては国を守る手段に過ぎなかったのです。
ところで,「上からの革命」と称されるほど先進的な政治制度でしたが,現代の民主政治と根本的に異なる部分があります。それは,責任内閣制ではないことです。内閣は議会に対して説明責任はなく,皇帝が宰相を任命し,その宰相が唯一の大臣として行政を取り仕切りました。各官庁のトップは宰相直属の部下である長官であり,議会に対して責任を負わなかったのです。つまり,宰相の力量こそ,国家の命運を左右する要石でした。
ビスマルクの外交術
ビスマルクの目的は,祖国ドイツを宿敵フランスから守ることでした。前述したように,一番回避すべき事態は,フランスとロシアが同盟し,ドイツを挟み撃ちにすることです。故に,フランスとロシアの間を分断しなければなりません。そこでビスマルクは,意外な手段に出ました。いわゆるキッシンゲン口述書です。
ビスマルクは,自国の領土(オリエントの地)をイギリスとロシアに与えました。なぜか?イギリスとロシアを領土問題で対立させ,ドイツの外交的仲裁を必要とさせたのです。つまり,イギリスもロシアもドイツを必要とすることにより,フランスによる反ドイツ同盟に加わらないよう画策したのです。案の定,イギリスとロシアの対立は激化。ビスマルクは「取引の成立を真に願う誠実なる仲買人」として列強の利害を調整し,「名誉ある平和」を実現しました。
さらに,ビスマルクはすかさず次の一手を打ちます。フランスによるドイツ包囲網を完全に妨害するため,オーストリア・ハンガリーと秘密軍事同盟を結んだのです(1879年)。
「私はこうして,オーストリアと西欧両大陸の間に障壁を置くという私の政治システムの第一段階と呼んでいるものを実行に移すことに成功した。・・・私は第二段階を実現させるのを諦めていない。それは三帝協定を再構築することである。それは私の見るところでは,ヨーロッパの平和を最大限安定させるための唯一のシステムなのである」
ビスマルクの同盟システム
ビスマルクの大戦略は,緊密な同盟関係を構築し,勢力均衡により平和を担保することでした。違う言い方をすれば,侵略欲に溢れるフランスを抑止すべく,フランス包囲網を構築することでした。ビスマルクが実現したフランス包囲網は,以下の5つの同盟によって構成されます。
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第一に,ドイツと隣国オーストリア・ハンガリーによる独墺同盟です。ヨーロッパ中央におけるこの同盟は,フランス包囲網の要と言えるでしょう。
第二に,ドイツとオーストリア・ハンガリー,及び,ロシアによる三帝協定です。この協定により,もしドイツがフランスから攻撃を受けた場合,ロシアは好意的中立の立場を取ることになりました。
第三に,ドイツとイタリア,オーストリア・ハンガリーによる三国同盟です。この同盟により,ドイツとフランスが戦争した場合,イタリアはドイツに軍事的援助をすることになりました。
第四に,ドイツとオーストリア・ハンガリー,及び,ルーマニアによる独墺羅三国同盟です。ヨーロッパ南西のルーマニアを引き入れることにより,オスマン帝国に対する防波堤を築いたのです。
第五に,オーストリア・ハンガリーとイタリア,及び,イギリスによる地中海協定です。フランスの西方イギリスを巻き込むことにより,遂にフランス包囲網が完成しました。このように,緊密に張り巡らせた同盟関係により,強国フランスを封じ込めたのです。
ある専門家はこう指摘します,「ビスマルクの武断政治と植民地拡大により,ヒトラーの台頭を準備してしまった」と。しかし,それは大きな間違いです。ビスマルクは植民地拡大を嫌いました。なぜなら,それによりドイツの脅威を恐れるフランスとロシアが同盟し,ドイツの安全保障が危機に瀕することを恐れたからです。しかし,熱狂的な世論や周囲の要求を受け入れざるをえず,こうした複雑な同盟システムに頼らざるをえませんでした。現に,ビスマルクの退陣後,第一次世界大戦が勃発しています。世界大戦の原因は,勢力均衡を実現したビスマルクではなく,好戦的なヴィルヘルム二世と右傾化したドイツ国民だったのです。
ビスマルクの前世
古代中国の宰相
ビスマルクの前世は,春秋時代の政治家・管仲です。紀元前7世紀の人です。斉の桓公に仕え,宰相として彼を覇者に押し上げました。
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富国強兵と民生の安定に努め,巧みな外交術により天下の覇権を握りました。ヴィルヘルム一世を欧州の覇者に押し上げ,天才的な外交力により欧州の平和を実現したビスマルクに似ています。
あまり知られていませんが,管仲はソフトパワー(外交や計略)の概念を初めて提唱しました。
「あらゆる手段を使って勝利を得る」
「戦わずして人の兵を屈する」
「力づくではなく,相手の思考の変化や屈服によって,相手国よりも優位を獲得する」
ちなみに,管仲の政治を学び,一つの思想に仕上げた人物がいます。孫子です。この孫子の戦略論はリデルハートによって西洋に紹介され,欧米のリアリズムに絶大な影響を与えました。すなわち,管仲はリアリズムの元祖なのです。
大戦略の発明者
同じことは,ビスマルクにも該当します。ビスマルクの特徴は,目的のためには主義に反するものも利用する柔軟さにありました。つまりビスマルクは,国家安全保障のためであれば,伝統的要素(君主やユンカーの権益)も革新的要素(新聞・結社・議会の自由主義)も利用する現実政治家(リアル・ポリティーカー)だったのです。
ビスマルクは,祖国プロイセンの伝統と秩序を守ろうとする保守主義者でした。しかし,プロイセンの覇権を確立するためドイツ・ナショナリズムを利用し,ドイツ帝国創建に際しては自ら憲法を作成して立憲主義を利用しました。また,ビスマルク自身は領土拡大に反対でしたが,ヨーロッパの勢力均衡を維持するため,列強が有する帝国主義的な植民地政策を利用しました。
管仲→ビスマルクと転生した魂は,大戦略の発明者です。戦略とは,敵国に勝つことです。一方で,大戦略とは戦後の安定も見据えた外交政策です。たとえ戦略が素晴らしくても,大戦略なくして平和は実現できません。なぜなら,戦争の目的は,敵の殲滅ではなく平和の実現だからです。「大戦略→戦略→戦術」が正しい順序でありまして,大戦略なき国家は手段を目的化してしまいます。あたかも,戦術にこだわり大敗した大日本帝国のように・・・。
(注)日本はイギリスやアメリカとの同盟関係を軽視したことにより孤立。最終的には絶望的な世界大戦に突入しました。
プロイセンと日本
政治において,最も重要なことは何でしょうか?経済でしょうか?社会保障でしょうか?教育でしょうか?もちろん,これらは全て重要です。しかし,国民の生命・財産・自由を守るのが政治の役割ならば,安全保障こそ第一に優先すべきです。
ビスマルクのプロイセンは,西隣に侵略国家フランスが存在していました。同じように,我が国・日本も,西隣に侵略国家・中国が存在しています。習近平率いる中国共産党は,ナポレオン三世率いるフランス以上に,侵略欲が旺盛です。現に,南シナ海を奪取し,東シナ海も事実上奪取。今や台湾・沖縄をも奪おうとしています。彼らの目的は,米国と太平洋を二分し,一大中華帝国を築くことです。今こそ日本は,中国の侵略から国民を守るため,軍備増強と中国包囲網を構築しなければなりません。場合によっては,核保有や徴兵制も議論すべきでしょう。しかし,平和ボケした国民は外交に興味がなく,己の利権を貪る政治家に大戦略はありません。
中国包囲網という日本の大戦略。この大戦略の重要さを認識していたのが,故・安倍晋三首相と麻生元総理であり,高市早苗氏です。政治屋の公金チューチューを罰するのも大事です。子育て支援も大事です。それ以上に,国家安全保障も大事です。私の勝手な推測によれば,台湾有事まであと十年足らずでしょう。国家存亡を賭けた危機の時代,今こそ我々日本人の真価が問われているのかもしれません。いずれにせよ,我々日本人は,大戦略なくして第二次大戦に敗北した過去を決して繰り返してはいけません。
以下は参考書籍です。
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