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四福音書について

福音書の違和感

 
 新約聖書には,4つのイエス伝があります。マタイ伝,マルコ伝,ルカ伝,ヨハネ伝です。ここで一つ疑問が生じます。「なぜ,4つのイエス伝には矛盾が多いのだろうか?」です。なぜなら,出来事の日付が違います,イエスの説教も微妙に違います,そもそもイエスの性格が違います。
 答えは簡単です。福音書は,「イエスの伝記ではない」からです。福音書は,イエスの歴史的記録ではありません。福音書は,「福音書記者のイエス観」です。富士山は,観察者の位置により,違った姿を見せるそうです。それと同じように,イエス・キリストは,福音書記者の見方により,違った姿を見せるのです。
 

福音書の個性


四通りのイエス観


 マルコ伝は,「メシア(救世主)としてのイエス」を描きました。旧約聖書で約束された“苦難の僕”として,イエスの生涯を描いたのです。
 ルカ伝は,「義人としてのイエス」を描きました。人類が模範とすべき人間として,イエスの生涯を描いたのです。
 マタイ伝は,「王としてのイエス」を描きました。我々が従うべきリーダーとして,イエスの生涯を描いたのです。
 ヨハネ伝は,「神としてのイエス」を描きました。我々が崇拝すべき“神の化身”として,イエスの生涯を描いたのです。
 このように,4人のイエス観が違いますから,当然,記事の内容や意味合いが異なります。
 

①  イエスの死に方


 マルコ伝のイエスは,「エリ,エリ,レマ,サバクタニ」と言って死にました。その意味は,「わが神,わが神,なぜゆえ私をお見捨てになったのですか?」です。我々の苦難を引き受けた救世主として,マルコはイエスを死なせたのです(イザヤ書53章の予言の成就)。
 ルカ伝のイエスは,「わが霊をあなた(神)に委ねる」と言って死にました。我々の模範となるべき義人として,ルカ伝のイエスは泰然自若(たいぜんじじゃく)と死んだのです。
 マタイ伝のイエスは,「わが神,わが神,なぜゆえ私をお見捨てになったのですか?」と言って死にました。これ,一見マルコ伝のイエスと同じように聞こえますが,よく読んでみると全く違います。この言葉は,もともと旧約聖書にある詩編22章の引用文なのですが,マタイは詩編22章によって意味を拡充しています。そもそも詩編22章とは,“神を失った嘆き”で始まり,“神と共に勝利を得た喜び”で終わります。マルコは「神を失った嘆き」を強調しましたが,マタイは「神による勝利宣言」に変えたのです。つまり,我々人間が従うべき王として,マタイ伝のイエスは十字架上で勝利の凱歌(がいか)をあげたのです。
 ヨハネ伝のイエスは,「完了した」と言って死にました。永遠の計画を粛々(しゅくしゅく)と遂行する神の化身として,ヨハネ伝のイエスは死んだのです。
 

②  ヨハネの洗礼


 死に方だけではありません,同じ記事であっても意味合いが違います。イエスはヨハネから洗礼を受けていますが,福音書によってその意味が異なります。
 マルコ伝における洗礼は,“イエスの復活”を意味しました。救世主は死後,復活しなければなりません。その予示として,マルコ伝はヨハネの洗礼を位置づけています。
 ルカ伝における洗礼は,“イエスの悔い改め”を意味しました。イエスは,すべての人の模範として,神の前で悔い改め,最後まで神に従順でなければならないのです。
 マタイ伝における洗礼は,“王としての油注ぎ”を意味しました。古代イスラエルでは,王は預言者から油を注がれ王位に就きました。イエスは,全人類が服従すべき王として,ヨハネから洗礼を受けたのです。
 最後にヨハネ伝です。ヨハネ伝において,イエス洗礼の記事は存在しません。なぜなら,イエスは神だからです。神が,なぜゆえ洗礼を受ける必要があるでしょうか?
 

③  よく使われる言葉


 記事の内容や意味合いが異なるだけではありません。用いられる言葉も違います。
 マルコ伝では,「驚愕する(タウマゾー)」とか「随従する(アコリュートー)」という言葉が頻繁に用いられます。救世主を見た者は,その言葉や行為に驚き,従わざるを得ないからです。
 ルカ伝では,「悔い改める(メタノイア)」とか「祈る(プロセウコマイ)」という言葉がよく用いられます。模範となるべき義人は,常に悔い改めつつ生き,この世で祈りつつ戦うからです。
 マタイ伝では,「王国(バシレイア)」とか「正義(ディカイオシュネー)」という言葉がよく登場します。本当の王は,神の国のために生き,その正義のために殉(じゅん)じるからです。
 ヨハネ伝では,「わたしは~である(エゴー・エイミ)」とか「永遠の生命(ゾーエー)」という言葉がキーワードになっています。なぜなら,ヨハネ伝は神の顕現物語であり,“自分が何者であるか”宣言する必要があったからです(「わたしは世の光である」「わたしは本当の羊飼いである」など)。また,ヨハネ伝のイエスは神であるがゆえに,我々に霊的生命を与え,我々を再創造することができるからです。
 

真の福音書


イエスとは何者か?


 メシア・義人・王・神,果たして,イエスは何者なのでしょうか?私の考えでは,これら全てであり,と同時に,全て以上です。巨大な山は,決して全体を見ることができず,ある特定の部分しか見ることができません。それと同じように,イエスという人格はあまりにも偉大すぎて,人間の認識力では到底“全体像”を捉(とら)えられないのです。
 部分と部分は矛盾します。しかし,高次の次元において一致調和します(円柱の投影図は,上から見れば円であり,横から見れば長方形です。2次元的には矛盾です。が,3次元の視点で見る時,円柱として成立しています)。まさに,西田幾多郎のいう「絶対矛盾的自己同一(ぜったいむじゅんてきじこどういつ)」なのです。
 いずれにせよ,私たちは,イエス・キリストを知りたいのなら,一つだけ注意しなければなりません。「マルコ伝はマルコ伝として,ルカ伝はルカ伝として,マタイ伝はマタイ伝として,ヨハネ伝はヨハネ伝として,それぞれ別個に研究しなければならない」ということです。「四福音書は歴史的記録である」という間違った考えにより,シュヴァイツァーがその過ちを正すまでの二千年間,聖書研究は遅々として進みませんでした。そもそも,聖書は複数の人間が書いた文書の寄せ集めですから,「聖書の用語法」や「聖書的観点」など存在しないのです。
 

第五福音書


 マルコ伝はマルコ伝として,ルカ伝はルカ伝として,マタイ伝はマタイ伝として,ヨハネ伝はヨハネ伝として研究し,彼らの主張を真摯(しんし)に受け止めていく中で,いつしか心の内に深く深く沈潜(ちんせん)し,“無意識の深淵”からキリストが立ち昇る時がきます(深層心理学では,このキリストを自己(ゼルプスト)と呼ぶ)。そのキリストこそ,本当のキリストです。そして,内なるキリストは,“創造の業”に参与するようあなたを召す(コーリング)はずです。これが,本当の福音書です。つまり,真(まこと)の福音書とは,読むべきものではなく,敢行(かんこう)するものなのです。
 今までは,神が人に啓示してきました。これからは,人が神に啓示しなければなりません。口を開けて神の恵みを待つのではなく,“勇気ある創造的敢行”こそ,神の御心なのです。そして,この創造的敢行こそ,イエスが言った「聖霊が教える秘教的真理」なのです(ヨハネ伝16-13)。
 

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