『三つ子の魂、百まで』vol.11 最終回
持続可能な暮らしを求めて
自然って何者なのか考えた事はありますか?空気や水、獣や草花だってそう、自然といっても沢山あり私たち人間もその一部の存在だと私は思っています。
森林で林業作業中に考えることが多いんだけど、おそらく自然って何者でもないんです。自然について考え出すとやがて地球、惑星の事から宇宙に至るまで話が進みます。
宇宙銀河だってまた何かの一部なのかもしれない。大地震を経験して自然のおそろしさを肌で体感し、また、自分て何者なんだろうと考える様になり、やがて自然の多い場所へ着た。惑星がグルグル廻っているように自然には流れがあって私たちも自然の一部なんだとしたらその流れに乗って生きた方が上手くいくんじゃないかなと田舎に棲んで気付いた。
だからといって明日から江戸時代の生活に戻れと云っても現実的じゃないから、自分に無理のない範囲でやってみればいい。自分の中に何かひとつでも循環があったならそれを習慣化していけばいい。都会でも持続可能な暮らしは出き始めているし、田舎でならやれることは無限大、自分次第でどうにでもなる世界が待っている。
私たちもまだまだ発展途上なので偉そうな事は云えませんが、思い立ったが吉日、何かを始めるには今の自分の方が明日の自分よりも若いし何かを始めるのに遅い早いはない。
未来に不安を感じて生きてても自然が無くなってしまえば人間なんかは滅ぶのみ、自然を愛する心は自分を愛するというシンプルな構造で出来ている。持続可能な暮らしとは心に”ゆとり”を与えてくれるものなのではないでしょうか。
三つ子の魂、百まで
親の気持ちは親になってみないと判らないとよく云われます。これは本当で、私も両親や祖父母に云われたことが親になってみて初めて理解できた経験が多数あります。そのくらい強烈な衝撃を子供たちは与え続けてくれます。そして、強制的に自分を見つめさせられて反省させられる事もしばしば。
自分達の悪い所を彼らはちゃんと見ていて、親の口調、行動を瞬時に覚えて真似する。子供をきちんとしつけたいと思わない親御さんは居ないでしょうが、そう思うなら先ずは自分が手本を見せなければならない。言葉ではなく行動で示す事でしか彼らにはそうそう伝わらない、それが原因でカッとなる自分をまた反省したりで、もうそりゃ毎日飽きません。
親が子供にしてあげられる事には限りがある、彼らの行動の総てを管理はできないしするべきではないと思う。五歳も過ぎれば人格はかなり形成されているから、その前に人として他とどうやって関わればいいのかを私たちが行動で示せばいい。後は彼らが自ら学んでいくものではないかと子供たちの成長を見ていて感じます。
誰でも子育ては初めて経験するんだから正解はないと思う、強いて云うなら子供一人ひとりとしっかり向き合っていれば彼らがヒントをくれる。自分も含めて、私生活や仕事に追われ余裕のない日々を目まぐるしく過ごしている。何の為にこの身を捧げているのかと疑問に感じる事もあるが、きっと子供や家族を守る為にやっているのでしょう、でもそれは裏を返すと自分の為にもなっている筈。
他人は自分を写す鏡、家族はその最たるもの。自分が穏やかでいるには家族が穏やかでなくてはならない。反対に家族が穏やかでいるには自分が穏やかでなくてはならない。クソッタレと辛く苦しい事も沢山あるその分、愛しいと心から感じる悦びは何者にも代え難い。
最愛の他人
最後に友達からも変人呼ばわりされている私の様な人間と付き合ってくれているカミさんに感謝したい。
少し不自由な暮らしを苦労しながら楽しもうとしてくれている彼女が居なければ今の生活は有り得なかった。不自由な中にある自由と悦びを彼女と子供たちから与えて貰っている私が幸せ者でないと云えば罰が当たる。
底辺で生きる私たちに決して優しいとは云えないご時世ですが何時の世もそれは変わっていない。嫌だ嫌だと腐っていてもまた陽は昇るのでどうせだったら面白可笑しく楽しんで生きたい。
良いことばかりじゃないけど悪いことばかりでもない、陰と陽は二つで一つ、上がったり下がったりの足し引きゼロが我が人生、これからも真剣にふざけて生きていこうと思います。
おわり
循環型創作処 studioTree
田島 正義
あとがき
最後に保育の経験も資格もない私の様な人間に自分と同じ子育て真っ最中な人々に向けた執筆依頼をしてくれた「えどぴ 保育の専門性を高める会」の久保田 修平くんと拙い文章を最後まで根気強く読んで下さった貴方に心から感謝いたします。貴方の人生に私たちの生き方が少しでもお役に立てればこんな幸せな亊はありません。貴方の志合せを心よりお祈り申し上げます。ありがとうございました。