< サトルアロマセラピストからのメッセージ2022年版・その1 「エネルギーの法則」と「香癒道」 >
この世界には、いわゆる物理法則の他に、「エネルギーの法則」なるものがあります。
「エネルギーの法則」は生命(いのち)や意識を持つものに例外なく適応される「真理」、いわば宇宙の摂理みたいなものです。
よく「人の数だけ真実がある」と言いますが、「真理」と呼べるものはそんなに多くはありません。そういう意味で、宇宙は割とシンプルにわかりやすく出来ているのでしょう。
中でも特に重要なのが、以下の3つの法則です。
その1:因縁因果の法則(原因と結果の法則)
その2:波長同通の法則(同調と巻き込まれの法則)
その3:内的創造の法則(想像=創造の法則)
ここでいう「エネルギー」という言葉も一応定義しておきましょう。「エネルギー」には二つの意味が込められています。
一つは「目に見えない力」「パワー」といったニュアンスと、もう一つは「波動」、つまり「周波数」や「情報」といったニュアンスです。
「パワー」はいわゆる「電力」や「磁力」といった、目に見えないけれど厳然と存在する物理的な力のイメージです。
これに対して「エネルギー」を「波動」と言い換えたときは、力(パワー)というより「情報」という意味合いが強くなります。
実際は「エネルギー」と「波動」は連動しており、周波数が高くなればパワーも強くなり、情報密度も高くなります。wifiやスマホの周波数が上がれば情報量も多くなるのと同じです。
ではこの法則を個々に見てみましょう。
その1:< 因縁因果の法則(原因と結果の法則)>
2500年前にブッダさんはこれを「因果」といいました。「因果律」です。これは「全ての結果には原因がある」という意味になります。
ジェームズ・アレンの名著「原因と結果の法則」も同じことを語った著作です。英語ではこれを「Cause and Fact」といいます。物理法則の世界でも、ニュートン力学の領域では「原因と結果の法則」が厳然と存在します。
これを人生に置き換えれば「今自分が置かれている状況や状態には、必ず原因がある」という意味になります。
「不慮の事故に巻き込まれた」とか「たまたま不幸な目にあった」ということは起こり得ません。全て「自分から始まり、自分に返ってきた」だけで、「誰のせいにも出来ない」ということです。
これを別名「カルマの法則」といいます。仏教の世界で「因果応報」とも訳されます。
「カルマ」とは、サンスクリット語で「行為・行い」という意味です。つまり「やったこと」は全部自分に戻ってきてしまいますよ、と言っているわけです。
そこに特にネガティブな意味は込められていないのですが、わたしたちが「それはカルマだね」というときは、たいてい「ネガティブに送ったものが、ネガティブな形で戻ってきているよね」という意味で使われます。
では、「カルマ」は本当に「行い」だけなのでしょうか?
「カルマ」には、以下の3つが含まれます。
「行為」「言葉」「思い」の3つです。
「行為」は実際に何かを為すことですから、この世界に影響を与えた結果は必ず戻ってきます。
そして「言葉」にも力(パワー)があります。心無い一言がその人を再起不能にすることができますし、小さな励ましの言葉がその人に生きる希望を与えもします。それなりの立場にある人、エネルギーの強い人が放つ言葉は、世界に大きな影響を与えます。つまりカルマになるわけです。
そして「思い」にも力(パワー)があります。特に人間は「感情」のエネルギーが非常に強く、さらに「思うこと」を現象化する力がある以上、この世界に大きな影響を与えています。人間の意識はおそらくこの地球上で最も強いエネルギーです。「思い」や「感情」も当然カルマになります。
言わなければ分からないだろうと、誰かに対して怒りや恨みを持っていたり、会社や社会に対して批判の思いを持っていたりすると、それは全部この世界に発信したことになり、宇宙に反響するように自分の身に降りかかってくるのです。
ですから「やったこと・言ったこと・思ったこと」は全部カルマになると考えなくてはいけません。行為だけではなく、思いも言動も、慎重に選ばないと、自分の身に戻ってくるのです。
ちなみにこれを物理法則の「作用と反作用の法則」で説明することもできます。何かを50kgの力で押し出せば、必ず手前側にも50kgの力がかかります。人の意識でも、10のネガティブな「思い」を発信すれば、自分にも「10のネガティブなエネルギー」が残っているということです。宇宙は偏在を嫌うので、そのエネルギーは何らかの形で現象化し、解消する流れになると言い換えてもいいでしょう。
これはある種の代償行為とも言え、これをバランスの法則と呼ぶこともあります。
そして「カルマ」は今生だけに限りません。過去世のカルマもまた今生に反映しています。現実世界(地上世界)で作ったカルマは霊界では解消できず、あくまで現実世界で解消するしかありません。
そういう意味で人は平等ではないと言えます。それぞれの魂が抱えているカルマが違うし、その生でどのカルマと向き合うかもそれぞれの魂の選択です。魂の本質の部分は平等ですが、人生は決して平等ではなく、宇宙の摂理である「エネルギーの法則」が誰にも公平に働いているわけです。
このことを、宗教的な表現で「神様が見ている」とか「バチを当てる」と言いますが、別にこれは「神様」を前提にしなくても、物理法則のような「宇宙の摂理」と考えていいのでしょう。
日本人はこのことを古来から体得していたように見えます。「身から出たサビ」とか「親の因果が子に報い」などと言いますが、これは仏教伝来以前から続く文化のようです。日本人はもともと反省好きですが、長い歴史の中でこの法則を経験的に理解し、文化的に身につけているのでしょう。
その2:< 波長同通の法則(同調と巻き込まれの法則)>
同じ「波動」を持ったもの同士が響き合う、という法則です。別名で「類友(るいとも)の法則」ともいいます。「類は友を呼ぶ」というやつです。
2500年前にブッダさんはこれを「縁起」と言いました。「縁があって起きる」つまり「ご縁ですね」と言っているわけです。
今生のご縁には過去世からのカルマも絡みますから、その1とその2の法則は関係し合っています。一つの法則を二つの側面から見ていると言ってもいいでしょう。
物理法則にも「共鳴」という現象があります。430Hzの音叉を鳴らせば、近くにある同じ周波数の音叉が共振して鳴りはじめます。それと同じことが人生の中でも起きるわけです。
例えば、自分の状態(波動の状態)を知るには、自分の人間関係を見渡してみると分かります。周囲に愚痴っぽい人が多いなら、自分もそうだと思った方がいい。たとえ口に出して言わなくても、心の中で愚痴や不平不満が多ければ、周囲にそういう人を引き寄せてしまうわけです。このことを指して「鏡の法則」と呼ぶこともあります。自分のことはなかなか見えないけれど、「周囲の人たちは自分の鏡になる」という意味です。
一方でこれを「(狭義の)引き寄せの法則」と呼ぶこともあります。自分を振り返って、何かのきっかけで大きく意識が変わった後、人間関係がガラッと入れ替わった経験はないでしょうか。これは人間関係に限らず、物や事象も同様です。勘のいい人は、人の意識や、直近の未来の出来事に同調してパッとそのことを意識する。シンクロニシティが起きる。電話がかかってくる前にその人が思い浮かんだり、食べたいと思っていたものが誰かのお土産だったり、その日の晩御飯に出たりするわけです。こういった現象を「カルマの法則」に対して「シンクロの法則」「類友の法則」と呼ぶこともあります。
さらに、エネルギーの強い存在は周囲を同じ波動で染めてしまいます。愚痴っぽい人と話していたら、いつの間にが自分も愚痴をこぼしていたり、批判的な言動の多い職場にいるうちに「裁きぐせ」がついてしまったりといった経験はないでしょうか。これが「巻き込まれる」という現象です。
人と人が接触すれば、必ずオーラも交流しますから、影響を受けないではいられません。そうやって人と人は影響され、組織や団体が固有のエネルギーを帯びるようになります。大きく見れば、それがお国柄やその民族の文化になっていくわけです。
そしてその組織やチームの構造にもよりますが、トップにいる人間の意識が全体の波動を決めてしまいます。いくら下々の者ががんばっても、トップの意識レベル超えることは難しいのです。かつて経営の神様と呼ばれた船井 幸雄先生は、このことを指して「トップが90〜95%の割合でその会社の社風や運気を決める」といっていました。
団体や組織のエネルギーはそれだけ強力で、会社や宗教団体の場合、組織が大きくなればなるほど「巻き込む」力が強くなります。社長が創業者だったり、教祖様が生きているの場合は尚更です。
小さなグループやネット上のサークルですらこれは起きます。自分が関わるグループや職場は、内容だけでなく波動的な面からも慎重に選んだ方がいいでしょう。
そして影響を受けたと感じたら、それを払って、素の自分に戻れる手だてを知っておく必要があります。
その3:< 内的創造の法則(想像=創造の法則)>
これも生命(いのち)あるものに共通の法則と思われますが、特に人間に顕著に与えられています。
動物は基本的にその種の本能の領域を超えることができません。でも人間はそれを逸脱することが許されています。自分の意志で本能をコントロールすることができ、ときに誰かのために自分の命を投げ出すことすらできる。それが「自由意志」というものです。
この自由意志を使って、自分の人生を作りなさい、世界を作りなさい、と言ってくれているのです。
一体誰に…?
中村 天風先生はそれをヨガ哲学の教えから「宇宙意志(Universal Spirit)」と呼び、イエス・キリストは聖書の中で「天なる父」と呼びました。それを「神様」と言ってもいいし、この宇宙を造った「造物主」と言ってもいいのでしょう。わたしはよく「大いなる魂」という言い方で呼びかけます。
わたしたち人間は「自由意志」と同時に、宇宙の創造に参加できる「力(パワー)」も授かりました。
それがこの3つ目の法則、「想像(イメージ)したことを創造(現象化)する力」です。
つまり「自分でもやってごらん」と、この宇宙を創造した存在が許可してくれている。「自由意志」を行使するだけでは、人生がままならなくて苦しむだろうから、望む人生を創れるよう、本来「造物主」が持つ「創造の力」を分けてくれた。
このことをバシャールは「宇宙は片側しかないコインを渡しません」と言っているわけです。まさに宇宙と人間一人一人の共同作業(コラボレーション)で、今この瞬間も宇宙は創造され、進化しているのでしょう。
この法則の内容はとてもシンプルです。人間は「自由意志」と同時に「願い」を持ちます。その「願い」を「イメージする」だけで、将来現象化する鋳型(アーキタイプ)がすでに作られているから、それが現実世界に降りてくるのを楽しみに待てばいいのです。
ただし現実世界には「遅れの法則」というのがあって、現実になるのに時間がかかることもあります。現象化には自分のカルマも関わってくるし、時代の流れやタイミングもあります。そして自分一人が願っているわけではありません。たくさんの人の思いが大きな流れを作って、その中で一つ一つ現実化してくるわけです。
しかし間違いなく、こうして人は願いを叶えながら人生を作っています。
ですからネガティブな未来をイメージ(想起)するのは非常に危険です。不安や心配、恐怖も現象化するからです。天風先生はこのことを「諸刃の剣」だと諌めています。「正宗の名刀を、菜っ切り包丁のように(雑に)扱うなよ」と。
またこの力を発動するには「自己イメージ」が非常に重要になります。いわゆる「アイデンティティ」です。それが自分にふさわしいと感じなければ自分の人生にそれは起こりませんし、それを叶えるという「信念」がなければ、確固とした形で現象化してきません。そのため潜在意識の領域から働きかけていく必要があります。
この法則は90年代以降、ニューエイジムーブメントの中で繰り返し語られてきました。「ザ・シークレット」などの著作が有名です。一般にはこれを「(広義の)引き寄せの法則」と呼びます。
またこの法則を、最先端の物理学である「量子論」を使ってある程度説明できます。極限まで微小な領域になると、ニュートン力学の「原因と結果の法則」が通用しなくなるからです。何もない空間から物質が生じたり消えたりする。物質には確率的にしか存在できない「あいまいさ」がある。
時空間はある種の曖昧さを許容する形で設計されていると言ってもいいでしょう。
このことを、「結果を想起することで原因(プロセス)が作られる」と言い換えることもできます。「結果と原因の法則」つまり「因果逆転の法則」です。
わたしたちの魂は、確かに造物主の一部を内在しています。そういう意味で、生命(いのち)の本質は宇宙という次元を超えた存在です。
このことをはっきり伝えているのがヨガ哲学と古神道です。神道の「分け御霊(わけみたま)」という概念がそれにあたります。ヨガ哲学も、縄文以来の日本文明も、今回の文明期より以前の智慧を伝えています。そこにこれからの時代を形作る「核」があるように思うのです。
かつてアロマの先生は、その1とその2の法則のことを「起こることは全て意味があり、それは常に愛の中で起こっている」と口ぐせのように言っていました。
これはサトルアロマセラピーにおける真髄の一つです。このエネルギーの法則をベースにカウンセリングをし、カルマの解消をアドバイスするわけです。
「カルマ」とは決して罰ではなく、軌道修正のための愛のメッセージであると捉えます。たとえ誰かを傷つけたとしても、同じ目に合う必要はなく、ただ気づいて反省し、自分を赦し、軌道修正ができれば、カルマは解消されると考えるのです。
そこには「この世界は愛でできている」という、宇宙に対する全幅の信頼があると言ってもいいでしょう。
この法則を踏まえると、あらゆる病気も怪我も、意味のあるメッセージということになります。だから、症状だけを消してしまってはいけないのです。
「病気も怪我も、その人自身が治すものであって、治療家はそれをサポートしているに過ぎない」これが自然療法家にとって最も重要なスタンスであると前回も触れましたが、ではその人の「何が」治すのでしょう。
「その人の自然治癒力と、気づきが治す」と考えるわけです。
それがたとえがんであっても、それは気づきのための愛のメッセージと捉える。
これはとても難しいことですが、できるかぎりそう受け止められるように導いていきます。ただ消してしまっては、何のためにがんになったのか分かりません。原因はその人の思いかもしれないし、その人のライフスタイルかもしれません。
その原因に気づいて、反省し、赦して、その流れを修正することで、はじめて病気というメッセージを受け止めたことになります。メッセージの意味が無くなれば、そのメッセージは消えます。大抵の場合、気づいただけでも治癒の流れに乗ります。
実際、末期がんから生還した人の手記を読むと、がんに感謝できるようになった人は間違いなく完治しています。
治療家はこの前提を踏まえないと、オーラが澱む可能性があります。「症状を消す」こと自体がカルマになるからです。
実際たった1回の施術でがんを消してしまったり、車椅子の人を一瞬で立たせたりといった著名なヒーラーや治療家ほど、内臓を病んで急逝する事例を見てきました。または生まれた子供が障害を持ってるなどして、最終的に治療ができなくなるのです。本当に良いことをしているなら、もっと幸せになっていいはずなのに…
かつてのアロマの先生もそういうタイプの人で、90年代初頭に開業した最初の1年はトリートメントばかりしていたといいます。たった2週間の施術で末期の子宮がんが消えてしまうなど、噂が噂を呼んで、遠方から難病のクライアントが通ってきたそうです。たとえカウンセリングをしていても、たった2週間でがんが治った人が、それまでの人生を振り返って生き方を変えられるでしょうか…
結局奇跡的に治癒をした人ほど、反発したり、誹謗中傷を流されるなどして離れていきました。
「まるで、その人の魂からお叱りを受けたようだった」と先生はいいます。そしてほとんどの人が再発しました。結局気づきの機会を…カルマの解消の機会を1年遅らせただけだったのです。
これが、医者のオーラを澱ませるもう一つの決定的な要因でもあります。
西洋医学もいわゆる対症療法的に、症状を消すことしか考えません。
「病気はメッセージ、病気は愛です。それを受け止めてはじめて病気になった価値を人生に活かすことができます」なんて言ってくれる治療家がいれば素晴らしいのですが…西洋医学の医者には難しいでしょうか。
ここまで行ってはじめて対症療法に対する原因療法、そして根本療法まで辿り着けたことになります。いつか、このアプローチができるようになったとき、ようやく人類は病気から解放されるのだと思います。
わたしたちアロマセラピストは我が国では「治療家」を名乗れません。でも「癒し手」でありたいと思っています。やっていることは、あくまで伝統療法(メディカル)だからです。
医師法では、医療関係者しか治療や診断をしてはいけないとされています。「治った」とか「治癒」したという言葉は使えません。プライベートな環境ならまだしも、公の場で「精油を使ったらこんな風に治ったんです」とは言えないのです。
その代わり「癒された」という言葉なら言ってもいいとされています。不思議なことに「精油を使ったら、こんな風に癒されたんですよ」という表現なら問題ないのです。
ちなみに「治す」という漢字は「さんずい」にカタカナの「ム」と「口」を書きます。「さんずい」は水という意味ですが、この場合「くすり」を指しています。「ム」は鉗子のような「道具」を、「口」は道具箱を表します。つまり薬や道具を使ってなおすわけです。そこには対症療法的なニュアンスが感じられます。
「さんずい」を「にすい」にすればもっと分かりやすく、鍛冶屋の「冶」になります。つまりトンテンカンテンやってなおすというわけです。
一方「癒し」という漢字は「やまいだれ」に「心」を「諭す(さとす)」と書きます。作りである「兪」には「運ぶ」「楽しませる」といった意味もあります。つまり「心」が伴わなければ、癒されたことにならない、とこの字は語っているのです。そして「心」を「運ぶ」は「気づきをもたらす」という意味にも取れます。
この「癒す」という文字の方が、わたしたちのアプローチに相応しい感じがします。わたしたちセラピストは法的に「治療」行為ができませんが、「癒して差し上げる」ことはできます。それでいいのかな…と思うのです。
精油の処方は即効性が高く、いわゆるおクスリ並みの治癒効果を発揮します。なんでこんなに効くのかと、医療関係者ほどびっくりされます。
もう20年以上前になりますが、医療関係者だけが集う「アロマセラピー学会」において、精油を医療関係者だけにしか使わせない法律を作ろうという動きがあったほどです。実際アメリカとドイツはそういった法律が施行され、アロマセラピストは精油を処方できなくなりました。
精油は前近代の時代に「精髄(クイッテッセンス)」の一つ、もしくはその原資とされ、錬金術師たちが散々いじくり回した歴史があります。
彼らは近代以降、化学者として歴史の表舞台に出てきました。精油はいわば化学薬品のお手本のようなものですから、効いて当前と言えるのです。
でも、精油をただ症状を消すためだけに使っては、西洋医学のおクスリと同じになってしまう。だから「心」が伴う「癒し」が大切なのです。
現代はほとんどの人が「医者に治してもらおう」と思っています。クライアントも同様で、エネルギーの法則やカルマの解消法のお話をしてもなかなか入っていきません。かろうじて受講生、修了生がこのアプローチを理解してくれますが、カルマと向き合うのは厳しいものです。ときに耳の痛い話を聞かなくてはなりませんし、自分の人生を振り返るには、ある程度の霊性の高さ、魂レベルの成長が不可欠です。だからかつてのアロマの先生も、トリートメント主体のサロンからアロマセラピーのスクールへと業態を切り替えたのでしょう。
「自分で自分を癒すこと」「自分と家族を癒すこと」を伝えることが、一番の早道であると気づいたわけです。
その志を引き継いで、わたしもここまできました。
日本発信型のサトルアロマセラピーを伝えたい…最近ではこれを「香癒道」という言い方で表現しています。「道」と付けたのは、伝えている内容がテクニックではなく、生き方や精神性に関わってくるからです。
今はまだ「魔女のアロマセラピー講座」というタイトルですが、そろそろ「香癒道」の講座に変えた方がいいかな…と思い始めています。