帰省に寄せて
なんというのか、お盆らしいお盆。
昨年の夏、祖父が亡くなってからもう1年たったのか、と思う。
親戚一同お盆休みに入り、私はすべてのレッスンを終え、福岡に帰る新幹線に乗り込んだ、その日に祖父は亡くなった。
お通夜・お葬式・墓そうじ・墓参り…あれよあれよと進み、あっという間に過ぎた昨年の夏休み。誰もが仕事を休まなくてよい日程で亡くなったのは、人生のほとんどを仕事に捧げた祖父らしい、とみんなで話したのを覚えている。
同窓会・初盆の法事・結婚式。
さて今年は昨年のそれと比べると、何と言うのかお盆らしいラインナップである。インスタグラムを介して中学校の同級生が同窓会に誘ってくれた。卒業以来、実に約20年ぶり。(あれ、成人式の後も同窓会あったかな。)
「小さな集まりだ。」と聞いていたが、何と14人も参加している。
組織に属さないフリーランスで、定例の歓送迎会・忘年会などが無い身としては、新鮮な大会合である。「そもそも私のこと覚えている人いるんだろうか」「何を話したらいいのか」と緊張しすぎて、ひとり小倉駅で呼吸を整えながらアイス緑茶を爆飲する。
久しぶりに会った同級生は、中学生のときの面影を残したまま、しっかり大人になっていた。結婚したり、離婚したり、転職したり、家を建てたり、会社を経営したり、子供がいたり。
それぞれのイベントを経験すること=「大人になる」ということでもないと思うが、会話の端々に気遣いと優しさが滲むなあ、と感じる。
みんな痛いこと、つらいこと、恥ずかしいことを経験して今に至るのだと察する。
中学生の私たちは、もっと無邪気に残酷で、あまりに無知で臆病でもあり、自意識でぱんぱんに膨らんでいた。
どの中学生も少なからずそうであるように。
どこからか「最近の若い子って本当に使えなくない?」と誰かが発した問いに、「うーん、でも私は逆に若い子のほうがよく気が利くと思うよ。」とまた誰かが答える。
ことの是非はさておき、私たちが良くも悪くも「最近の若い子」ではなくなったことと、それぞれの体験や実感がこもったコメントが何だか可笑しい。
ちなみに御多分に洩れず、自意識ぱんぱん中学生だった私は当時、生徒会長を務めていた。
副会長・書記・各委員会の委員長で構成される生徒会執行部のメンバーと過ごした楽しい日々はよいのだが、選挙期間だけはいただけない。
校内中にポスター(美術部の友人に頼んだ)を貼り、自分の名前を書いたタスキを肩にかけ、登校時間に校門で「おはようございます!よろしくお願いします!」と高らかに叫ぶのである。
正気の沙汰ではない。
両親も「この子は誰の子か。」と嘆いていた。
自意識はもっと別のカタチで発露したまえ。とかつての自分に声をかけてやりたいが、まぁ時効成立だろうか。
ひとまず、地元に幅広い人脈をもち事業を手掛ける副会長に、同窓会幹事という奇特な役回りを担ってくれたことへの謝意を述べたい。
ありがとうございました<m(__)m>
誰かの優しさと、気働きで。
祖父の初盆を済ませ、従兄弟の結婚式のため台風接近中の東京へ向かった。
悪天候のなか、新郎新婦や、新郎両親である叔父・叔母はさぞ気を揉んだことと思う。「遠くからありがとうございます。」とずっと各所で声をかけてまわっていた。
普段一人でいることが圧倒的に多いからか、人が集まるところは誰かの優しさや気働きでまわっているなあ、とことさらに感じるお盆だった。
「1人が好きだ。」とうそぶきつつも、誰かとつながらずには生きていけない。誰しもが。
さぁまた日常へ。
※タイトル画像は移動中に食べた駅弁、東筑軒さんの『大名道中駕籠かしわ』。全部うまうまで最高ですので、小倉駅にお立ち寄りの方はぜひ。