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はずれくじだとわかっていても、引かねばならないときはある。
笑顔を絶やすな、引き攣っても。
2024年某日某所。
誰もが「あの日は寒かった。」と振り返るその日、海っぺりでタイツ。
寒風吹きっさらしの刑にあいながら、身体は震え、頬や唇からは色が失せていく。どうでもいいけど、海風で髪もぐちゃぐちゃだ。
飛びそうな意識のなかで、私は自分に言い聞かせていた。
はずれくじを、アタリに変えろ。
ここまで来たんだ、味わい尽くせと。
あたり、はずれ、という言い方も…
どうかと思うが、まぁ「はずれくじ」というのは現に存在するものだろう。仕事、趣味、家族・友人・恋愛関係…さまざまな場面において。
年齢を重ねて経験が増えるにつれて、ものごとの選択が上手になっていく傾向にある。
実際にやってみる前に、触覚が働くのだ。
このメンバーなら面白そうだぞ、とか
この流れはマズいことになりそうだ、とか。
けれど所詮自身の経験に基づくものでしかないため、触覚に頼りすぎるのも危険だ。安牌ばかりとっていては世界をどんどん狭めてしまう。
私は保守的な人間で、放っておくと安牌に頼りがちなので、意識的に「初回は何事も基本断らない」ようにしている。
ちなみに以下いくつかの条件に複数当てはまると、
私の危機察知センサーは反応する。
・実行までのリードタイムがタイト
・メール・DM等の文面が粗雑
・リスケ(日時・場所の再設定)が多い。
・目的とアクションが不明瞭。
・約束した時間・期日が守られない。
・電話やメールに対してレスが悪い。
(返信があまりに遅い等)
・人が集まっていない。
(誰かに逃げられたor人数合わせの予感)
偉そうに並べてみたけれど。
上記の条件は私の会社員時代をベースにつくられていて、フリーランスになった現在では、若干の傲慢さも感じる。総じて「座組みのしっかりしていない物事のほうが、世の中多いよね」とも思う。
お声がかかる、というのはいつ何時も有難い。
条件なんてなかなか揃わないからこそ、私のごとき貧弱フリーランスも生きていけるというものだ。
「何か発見·学びがあるかも。」と飛び込んでみる。
そして、やると決めたからには、力を尽くす。
さぁやってみると、なかなか悲惨な扱いを受けたり、収穫のわりに消耗が多くてげっそりしたり、立ち尽くして憤死しそうになることもある。
一方、それと同じ(か、ちょっと少ない)くらいの割合で、うわー新世界!とか、ただ単純に楽しいとか、この人の役に立ててよかった等、喜びを得ることもある。
のっけから「はずれくじ」だと決めつけていては、もったいない。
その「はずれくじ」をアタリにするのか、ハズレにするのか、最後のピースは自分の度量にかかっている。
震えながら帰宅。
冒頭の場面から用件を終え、思考停止状態で見つけたローソンでホットのカフェラテを購入。
啜りながら帰路につき、車の暖房MAXにするも、まぁ見事にあたたまらない。
芯から冷えているらしい。
屋外なんだとわかっていたら、背中とお腹と足底に、カイロを貼ってくるべきだった。
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想定よりも厳しい条件の用事を終え、今回自分の引いた「くじ」について考える。
アタリか、ハズレか。
結果はいつかのお楽しみ。
少し先になるまでわからないけれど、一先ず事の顛末を誰かに話して、笑ってくれたら良しとしますか。