公共事業と遊び心(2010年ponte寄稿)
イングランド北部の都市ニューカッスル・アポン・タイン。観光地としての著名度は低いが、かつては軍事上の拠点であり、造船と貿易で栄えた歴史ある街である。橋のある街として知られ、街の中心を流れるタイン川には七つの橋がまとまって架かっている。桁橋、アーチ、トラス、と十分も歩けば橋の展覧会さながらの景観が楽しめる。ひとつひとつの形状はまったく異なり、様々なシルエットが錯綜する。形態や色がまったく異なる橋であるが、どれにも共通している点が一点ある。それは大型船舶がくぐるため、橋脚が非常に高いということ。最古の橋は一八五〇年に完成した背の高い橋で、名前はそのまま「ハイブリッジ」。日本語なら高橋。その他の橋もすべてハイブリッジとほぼ同じ高さに架けられている。唯一低い橋は、ルーレットのように回転する可動橋で、その名も「スイングブリッジ」。橋を見るだけで舟運と陸運が共存した歴史が感じられる。
街の目玉となるアーチ橋「タインブリッジ」はアホウドリの巣となり、近寄るとその鳴き声と臭いに圧倒される。橋が作る風景は五感に訴えてくる。
そのタイン川に、西暦二千年、新しい橋が架けられた。橋の名前はゲーツヘッドミレニアムブリッジ。その見かけはかなり斬新で、尖ったアーチが傾いて配置され、そのアーチをぱたりと倒したように、歩くところも弧を描いている。
本来路面の真下に配置されるべき構造部材のアーチが、傾いている上に路面も弧を描いており、見る人が見れば、もったいないアーチの使い方をしていることに気づくはずである。実際この橋の工事費は、コスト優先の形式の三倍程度と伝えられている。
この橋の特徴はその奇抜なデザインだけではなく、ニューカッスルの歴史を踏襲し、船を通すとことの出来る可動橋であるということ。その開き方も今までの常識を覆すもので、旋回式でも開閉式でもない。橋自体が横に転がるように回転することで桁下に船を通す隙間をあけるというもので、この動き方は世界に類がない。橋が動く時間は橋詰めに明記され、その時間には橋の周辺に人だかりができる。橋が回転するとさながら花火を見物するかのように、一部で拍手が起こる。あがった橋の下を通る船は数十人乗り?の小さな観光船。しかも橋をくぐるとそのままUターンして元の場所に戻ってしまう。すなわち観光のためだけにあがっているのである。橋があがった(転がった?)状態での水面からの高さは、前述のタインブリッジやハイブリッジには及ばず、昔ながらの大きな船はくぐることができなさそうに見える。
橋の両岸はおしゃれなパブや美術館が新設され、橋によりまったく新しい景観と賑わいが創出されている。夜は最新のLED照明により虹色にライトアップされ、その虹色は一秒単位でじわりじわりと変化する。この美しい夜間景観のおかげで、橋の周りは夜も散歩やジョギングをする人が絶えない。一つの橋が明らかに街を変えた。歴史の積み重ねを受け入れつつ、橋が未来を切り開いた。そんな印象を強く受ける。
「こんな殺伐としたところに普通の三倍のコストで橋を架ける?」、「観光のためだけに動く橋?」、「ありえない!費用対効果を正確に出せ!」おそらくこれが日本の感覚だと思う。今だと、このような一見無駄な事業は、事業仕分けで真っ先に仕分けられそうである。公共事業は、みんなが幸せになるために、みんなのお金を使って行う事業である。そのお金は有効に使われる必要があり、遊びで使うわけにはいかない。だから公共事業を行う事業者は細心の注意をはらう。その結果、施主が個人である建築などと比較すると、公共事業である橋はどうしてもコストを優先した無難な形となりがちである。外国の橋と比較して、最近の日本の橋は「遊び」がないと思う。戦前期の橋や、バブルの頃の橋は良かれ悪しかれ「遊び」があった。しかしバブルの頃の遊びが過剰と評価され、振る袖もなくなった今、「遊びは不要」という考えが標準化しつつある。公共事業は悪という図式が成立しかけている今、ミレニアムブリッジのような橋は日本には生まれないのだろうか。
イギリスをレンタカーで回って不思議に思ったことが一つある。どの都市にも必ずパブがあり、平日の昼間にビールを飲みながら大の大人がサッカー観戦をしている。ちょうどワールドカップの時期だったということもあるが、あるパブでは子供がサッカーのユニフォームを着て店の外にあふれてサッカー観戦をしている。繰り返すが平日の昼にである。遊びというか余裕のような感覚が日常生活に溶けこんでいるのだろう。そこには日本に見られる閉塞感は微塵も感じられない。近代科学の礎を築いたニュートンを産み、後に産業革命を起こした、産業のリーダー・イギリス。私見であるが、イギリス人の根っこに「遊び」を感じた。世の中を良くすること、楽しくすることが第一、お金はその次。歩く人の大半はにこやかでのんびりとした顔をしている。
余談だが、先日仕事で琉球大を尋ねた。沖縄は車社会なので、学生の9割は自動車で通っており、キャンパスには広大な駐車場がある。地元の方に伺うと、最近学生の車が大きく変わっているらしい。琉球大の駐車場というと、社外パーツを付けたり、自分で色を塗り替えたりと、昔はやんちゃな車がいっぱい止まっていたそうだ。今はほとんどがノーマルで地味な色の軽自動車。確かに若者の車離れという記事をいたるところで目にする。こんなことは一例に過ぎないが、私はこの十年で様々な点で日本から脳天気な遊び感覚がなくなってきていることを危惧している。
「勝鬨橋をあげる」という事業は、まさに「遊び」の事業である。数億円と言われるお金をかけ、しかも開いている間は東京都の重要なインフラ「晴海通り」を閉鎖する必要がある。今の日本の感覚にはなじみにくい公共事業である。でも技術的には可能であることが実証されている。
公共事業は大勢の人の「意思」で動く。そのひとり一人の心に閉塞感があるかぎり勝鬨橋はあがらないと思う。閉塞感の正体は「失敗に対する恐れ」なのではないかと思う。高度成長期からバブルの時はそれがなかった。バブルで手痛い失敗をして人の心に「恐れ」が宿った。まずはそれを駆逐する必要がある。自分の中に宿った「恐れ」は自分で駆逐するしかない。私見だがその最短距離は、外国を見てその空気を生で感じ、自分の周囲を客観的に見つめ直すこと。そしてそれは研修のように押し付けられるものではなく、自分の意志で決めること。あとはひたすらどうすればみんなが楽しく幸せに暮らせるのか、自分の専門を生かしながら勉強し、考えること。これに尽きるのではないかと感じている。
しかるべき場所には、遊び心のある公共事業があってもいいはずである。勝鬨橋は、日本に笑顔を取り戻す起爆剤の資質を有している『橋』と思う。