通潤橋の弟「ひ」洗玉橋(2023ponte投稿)
ひふみよ橋のポンテ投稿をきっかけに、「ふ」の橋のたもとにある「ほたると石橋の館」の館長内田 理絵さんと縁ができ、石橋にかかわるイベントに声をかけていただけるようになりました。一〇月二一日は、「ひ」の橋「洗玉橋」の架橋一三〇年の記念イベントにお声掛けいただき、夫婦で参加したので、報告します。
一、今でも愛される洗玉橋
イベントは、「八女上陽の『ひふみよ橋』を守る会」の主催で朝一〇時~一五時まで、半日かけて行われた。マイクロバスによる現地移動~神主さんによる神事~記念橋渡り~エコバルーン飛ばし~記念撮影~八女市長祝辞~現地での石橋案内(馬場紘一氏)~和太鼓演奏~記念講演(上塚寿朗東陽石匠館館長)と、盛り沢山な内容となり(写真1)、翌日の西日本新聞にもその様子が報じられた。参列者の数も、途中からの合流者を入れると、延べで一〇〇名程度はいたと思われ、山奥にある橋長32.5mの橋の規模を考えると、いかに愛されている橋であるのかをうかがい知ることができる。
二、別格の位置づけ:通潤橋の弟分
予備知識がなくても、現地を訪ねると「ひ」の橋:洗玉橋は、他の「ふ」「み」「よ」と比べて別格の橋であることに気づく。架橋が明治時代(明治二十六年。他三橋は大正)、親柱と高欄に擬宝珠の装飾付き(他三橋は装飾なし)、側壁の石積みは切石の乱積み(他三橋は目地が水平の布積み)など。何よりも大きな違いは、通潤橋を手掛けた名匠「橋本勘五郎」が棟梁ということ(当時の勘五郎は七〇歳!他の三橋は次世代の作)。馬場紘一氏の現地説明によると、作者が同じということもあり、洗玉橋は、通潤橋の八〇%の縮小コピーの形状をしているとのこと。確かによく見ると全体のシルエットが似ているし、通潤橋の最大の特徴である鞘石垣(アーチ橋を支えるために、両端の橋台部に造られた末広がりの石垣)も小規模ながら配置されている(写真2)。
解説されないと気付かないが、要石には「肥後上益城矢部吹上兄弟橋、八代種山棟梁 橋本勘五郎、倅 源平、孫 為八」と刻まれており、講演会場の農業活性化センターにはその拓本が展示されていた(通潤橋は、当時種山石工の間では吹上橋とよばれていた)。作者が本体にそう刻んでいる以上、洗玉橋は通潤橋の弟分であることに間違いはない。洗玉橋がそこまで貴重な橋という認識は、わたしの中に恥ずかしながらなかったのだが、今年、国宝に指定された通潤橋と比較すると、洗玉橋は八女市の指定有形文化財にとどまっている(ひふみよ橋のうち、ふみよの三橋は、今年八月に国の登録有形文化財に登録されたが、あくまで登録文化財)。国宝の弟であれば、もう少し文化財の格をあげてもいいのにと思うところだが、それができない理由も現場説明の場で教えていただけた。理由は、次の項で。
三、荒廃から、そして復元へ
洗玉橋は、すぐ上流に車両の専用橋がかかったことで、今は歩行者専用橋として利用されている。それゆえ意匠に特徴がある擬宝珠付きの高欄や親柱を、歩きながらじっくり観察することができるのだが、実はこれはオリジナルのものではなく平成七年に復元されたもの。それでも四半世紀以上の時を経ているため、いい感じに汚れて橋と一体化して見え、何も知らない人が見ると、誰も当時のものと疑わないくらいになじんでいる。それがオリジナルへの復元ならよいのだが、意匠を変えてしまっていることが、市の指定有形文化財より上の格付けに上げられない要因になっているとのこと。確かにオリジナルを改変すると、後世に技術や意匠が誤解されてしまう。ではオリジナルの高欄はどうしたのかというと、高度経済成長期に取り外された。なぜか?
川に直角に架けられた橋に対し、前後の道路は川に沿っているため、橋前後の道路は、かぎ型に二度直角に曲がることになる。林業が盛んだった当時、丸太を運ぶ際、橋詰めのカーブで丸太が引っかかって邪魔という理由で、高欄は外され、一部は墓の石垣に転用されたり、川に捨てられた(写真3)。
今となっては信じられないことだが、高度経済成長期の洗玉橋には高欄がなく、バスの転落事故が起こってしまった。いくらなんでも危険ということで、昭和三六年に上流に車両専用の橋を、車が安全にカーブできる四五度近い斜角を付けて新設(写真1)。役割を終えた洗玉橋は建設省から撤去を命じられたが、当時の町長・議長が頑強に拒否し、今に至ることとなった。高欄取り換え工事直前の平成7年の洗玉橋は、蔦カズラに覆われ錆びだらけの鉄高欄が取り付けられた荒れた状態であり、大清掃活動ののち(写真4)、あたらしい高欄が配置された。
四、あたらしい洗玉橋
オリジナルの高欄は平成十三年に川床から一部が偶然発掘され公園に置かれているが、劣化が激しくそのまま使うことは安全上むずかしい。もしオリジナルに復元したら、束柱の間隔が跳びすぎて現在の基準を満たさないため(スキマから人が転落する可能性がある)、元の意匠を踏襲して現在の基準にあう意匠で復元したと思われる。当時の担当者も断腸の思いで決断したにちがいなく、これ以上事情を知らないわたしが偉そうに意見を述べることは控えたい。少なくとも、何も知らずに初めて徒歩でわたったわたしは、この高欄に温かみ・親しみやすさを感じた。オリジナルの改変というとよくない印象があるかもしれないが、その時代時代の事情にあわせ、できる努力を尽くしてきたのだと思う。
イベントの締めで、本橋の棟梁であった橋本勘五郎さんの子孫の方が挨拶をされた。勘五郎さんは、造った橋を、ひとが喜こんでわたってくれるのが何よりも嬉しいと口にしていた。一三〇年経った今、こうしてみなさんに愛されているのを見て、自分も嬉しいとおっしゃっていたのが印象的だった。歩行者が安全に渡れるようになった、あたらしい洗玉橋は、今でも地元の誇りであり、愛されていることは間違いない。
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