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はぐれものにとってのサークルと、自己批判
大学、そしてそのサークル。高校生にとってはとてもキラキラして見えるだろうし、実際高校時代の私も大学のサークルをそのように見ていた。
しかし。大学入学から早くも一年半ほどが経った今、それは中学・高校と同じように、『はぐれもの』の犠牲があった上で成り立っており、結局私みたいな人間にとっては幻想でしかない、そこに居場所があるとは限らないということがわかった。
『サークル』の輝き
一年半前。私は偏差値50ほどのなんの変哲もない高校から、奇跡的に国立大学に合格し、世間や親戚から称賛されるようなバラ色の大学でキャンパスライフを送ることが確定した。前回の記事を読んでくださった方ならわかると思うが、その頃の私には成功を成功として喜ぶ心はすでに消えていた。それでも、これから送るであろうキャンパスライフに心を躍らせていた。
大学に入学して、真っ先にやることと言えばサークル選定だろう。各サークルが集まって自サークルの宣伝をする合同説明会というイベントが弊学にはある。新入生だった私はそれに参加し、気になったサークルを片っ端から見まくった。
とはいうものの、入るサークルは説明会の前から既に決まっていた。音楽系、それもロックバンドができるサークルである。
栄光なき孤立
私は小学生の頃は家でゲームばかりやって友達を家に招いたことも、外で遊んだことも、ほとんどなかった。中学に上がれば、私も体が貧弱だったからか、学校に疲れてゲームをやる気力は消え失せ、学校が終われば布団に潜ってただYouTubeを観るだけ、というまるで疲れ果てた中年の社会人のような生活をするようになってしまった。今でも、私はその生活を続けている。
そんな私でも、輝けそうだった唯一の場所。それが大学のサークルだった。中学の頃からの夢であったバンドをやる機会も、今しかない。私は即決で、ロックバンドができるサークルに入った。最初のうちは心を躍らせていた。しかし、後々になって考えてみると、新歓の時点で私はすでに、集団から孤立していたのである。
新歓と1年前期
ロックバンド系のサークルは二つあり、私はその両方に在籍し、勿論両方の新歓に行った。新歓が始まると大体は自己紹介か、グルーピングが始まる。私は自己紹介でもグルーピングされたグループの中でも、存在感がなかった。1時間ほどたつと大体の集団は固まってくる。だが、そのぐらい時間が経っても、私はひとりだった。
1年生は他の1年生と打ち解け、先輩たちは先輩同士で、または気の合う後輩と盛り上がっている。
「また、馴染めない集団を選んでしまった」
「なぜ自分から地獄に突っ込んでいくのか」
ひとりの時間が一秒、一秒と長くなっていくたびに、そんな悪魔のささやきが私の心を支配する。そんな私の惨めさに同情してか、話しかけてくれる先輩はいらっしゃった。当時の私はつかの間の『部員との交流』を楽しんだが、結局は先輩が目をきかせて話しかけてくれるなんて最初のうちにしかないのである。新歓が終わり、5月、6月と時間が過ぎていくと、刻々と状況は悪化していく。数少ない話せる相手は数人の先輩と、一人の同期。それ以外の先輩や同期とは、話したこともない、気まずくて挨拶も交わせない。私が臆病者だったせいで、陰キャだったせいで、人見知りだったせいで、そんな状況を生み出してしまった。私が犯した過ちはこれだけではない。音楽系サークルには欠かせない、楽器の練習である。
ロックバンド系サークルには、大体新入生ライブというものがあり、そこで新入生は拙い演奏を披露する。当然、私もそうすることになるわけだが、不幸なことに私には同期に友達がいなかった。しかも音楽の嗜好も私とは全く違う。頭を悩ませていると、私と同じようなジャンルが好きな先輩が先輩たちを集めて私とバンドを組んでくれた。それはそれはもう、嬉しかった。ゲームを諦めるとか、そんな趣味も満足にできないような人間にも、バンドを組んでくれる人間がいるのだから。しかし。過ちは繰り返される。
ギターの練習が、できない。
よくよく考えれば、アタリマエのことだった。昔から自分のやりたいことすら満足に努力せず、投げ出すような人間だった自分が、他人との関係が入ったところでギターの練習なんか、するわけがなかったのだ。それでも一方のサークルでは演奏を満足に終えたので良かったのだが、一方のサークルでは準備をしておらず、直前に他の先輩部員が代打を務めた。好きなバンドのコピバンだったので演奏を楽しく聴いていた、が…
…情けない、また好きなことから逃げてしまった、こんなことでは一生好きなことなんかできない。そんな思いが心の中を渦巻いていく。状況が一気に悪化するのは、その後のライブイベントからであった。
私はいくつかバンドを組ませてもらったが、結局、私はギターの練習を怠った。帰宅してもギターを練習する気が起きない、体が重い、数年以上にわたる慢性的な倦怠感と憂鬱感…理由は幾らでも思いつくが、そんなものは大半の人にとっては言い訳に過ぎない。ライブイベントの本番になっても、私は、酷い演奏をし続けた。そんな演奏をし続けるようなやつは、周りからの信頼を失っていくだけなのである。
孤独な打ち上げ
ライブイベントのあとには必ずと言っていいほど打ち上げがある。私のような友達がいない人間にとっては、周りとどうにかして交流を深めるこれとない機会だ。しかし。そんな機会をものにできないから私ははぐれものになった。打ち上げが始まり、同席の人たちは会話をしだす。私は飲食をしながら、話を聞くことに徹する。時間が経つと、その人たちは他の席に移っている。
気づいたら、その席には私しかいない。端っこで、ちまちまとドリンクを飲んでいるだけの存在になってしまった。
どれだけ打ち上げに出ても結果は同じだった。毎回毎回、僅かな希望を胸に背負って打ち上げに出席するものの、ただただ懐と心が冷えるだけであった。楽しそうに話している同期。そんな同期に笑いながら接する先輩。もう、サークルにいることが限界なのかもしれない。そう思うことすらあった。
一番ひどかったのは、昨年夏。外箱での打ち上げである。終バスを過ぎ、果てには終電もない。勿論帰る選択肢はあったが、どこまで行っても周りより心が幼い、私の微かな希望がそうさせなかった。ライブハウスの中で、同期たちは歌ったり、話したり、ゲームをしたりしていて、それはもう宴の様相を醸し出していた。
私はというと、そのドアを開ける勇気がなく、通路でずっと、突っ立っているだけであった。4Gも通らず、スマホをいじるという手段もない。
孤独な8時間は、長かった。笑い声と歌声が響く中、ひとりで突っ立っているだけの私。気づいたら、ぽろぽろと涙がこぼれていた。高校の頃想像していた自分は、こんなんじゃなかったのに。ギターもバンドも、ずっとやりたかったことだったのに。体裁は保っていた私の心が、最初に崩壊した瞬間であった。私は、その涙を部員には絶対に見せないように、隠し通した。今後、打ち上げのあとに何回も涙を流すことになるが、その涙を、私は徹底的に、一人の先輩にだけを除いて、隠し続ける。せめて孤独なサークル生活が脅かされることがないように。
飽くなき自己批判
さて。この記事のサムネイルである日本共産党の宮本顕治には、こんな歴史がある。1950年代。GHQからの赤狩りを受けた日本共産党は、51年綱領では「我々は武装闘争の準備をしなければいけない」と表明。徳田球一を始めとする党内主流派の所感派は、それまで唱えていた『平和革命論』を放棄し、武装闘争・暴力革命の道へと進み、党内で私兵組織『中核自衛隊』『山村工作隊』を組織するまでに至る。国際共産主義運動組織であるコミンフォルムは、1951年、主流派である所感派を支持し、宮本顕治率いる国際派に『自己批判』を命じ、宮本顕治は自己批判書を党幹部の志田重男に複数回提出し、結局暴力革命路線を肯定することとなった。
共産主義組織とは切っても切り離せない、『自己批判』。
私のような人間には、これはアタリマエのことであり、常日頃から自己批判を行うように強要されているかのように自己批判を続けている。
サークルで馴染めず、ギターの練習もできず、打ち上げでも孤独だった私は、「自分は怠惰でありそれを治さなければならない」「もっと人と打ち解ける努力をしなければならない」という自己批判を繰り返した。自己批判を繰り返した私に残っていたものに、自己批判した先に目指していた「趣味に没頭できる自分」も、「時間をかけてでも人と打ち解ける自分」も、いなかった。そこにいたのは、ただただ、自己批判をさらに強め、怠惰と孤独から抜け出すことができない、私の姿だった。