流行と既視感について
2024年5月19日
私は今季、人生で初めて大河ドラマを観ている。
そのドラマは、NHKで日曜日の午後8時から40分ほど放送されている『光る君へ』というもので、かの有名な紫式部や藤原道長を中心に、彼らが生きた平安時代の貴族の世界が描かれている。
歴史が特段に好きなわけではないが、平安時代の日本文化の始まりな感じはかなり好きである。
特に平安時代の文学は、昔の人の心の中を覗かせていただく感じが好きである。
『光る君へ』に私はどっぷりハマり、日曜の夜が楽しみになった。
そして、春休みに「そうだ、京都いこう」という運びになった。
(ドラマの影響だけでなく、憧れの人の出身地でもあり、興味があった)
もちろん向かったのは京都御所。
京都には修学旅行で訪れたことがあったが、その時よりもずっと驚きと発見があった。
「あっ!ここはあの場面の場所だ!」
「あの人は、この辺に住んでたのかな」
目の前の景色と頭の中の映像をリンクさせながら、1000年前に思いを馳せた。
想像よりも都の世界は狭く(馬と徒歩が交通手段のため当たり前だが)、彼らが“海を見たい““ここを抜け出したい“と思うのも無理はないと思った。
しかし、こんなに今でも美しさを感じる建築物をつくった先人はすごいと思った。
京都に行ってから観たドラマは、それまで以上に面白く感じた。
これが既視感?なのかもしれない。
“なんかみたことあるぞ“という感情は、作品と私の距離を近づけた。
遠い国のお話だったはずが、行ったことある場所のお話へと姿を変えた。
縮まった距離によって、私はこの物語をより一層楽しめているのだ。
既視感が安心感となり、作品を受け入れやすくなったのかもしれない。
今まで、既視感は作品に対する“おもしろさ“を阻害するものとして捉えていた。
“これ観たことあるよ“と思った瞬間、その作品への興味が失われていく感覚。
“この場所、知っているよ。また同じ景色だ“となってしまう感覚。
既視感はつまらないと思ってしまっていた。
だが、今回は違った。
既視感があることで、“私の知ってる世界だ“という安心感が得られた。
これはとても嬉しいことだった。
もしかしたら、知らない世界の物語にしては、その世界は現代の世界に似ていて、既視感を生み出そうにも生み出せないもどかしさがあったのかもしれない。
既視感も案外悪くないな。
ただ、既視感は人の興味を阻害するのは事実としてあると思う。
流行っていた音楽、フレーズ、人。
この流行に乗ろうとしても似たものが受け入れてもらえることは少ない。
いつか流行は消え“時代遅れ“と言われる。
集団は唯一無二を求め続け、既視感のあるものは淘汰され、また新しいモノに“ハヤリ“と名前をつけては消費し、廃れる。
現代では、昔のモノも新しいモノとして捉えることさえある。
やはり、ハヤリというものの力は凄まじい。
淘汰と新生を繰り返すのは1000年前も今も変わらない。
と、このドラマを観てて思う。
そうやって発展し、後世へと繋がってゆくのだ。
既視感あるものが淘汰され、1000年もの歴史を紡いだ。
人の心が揺れ動く所以なのかもしれない。
ただ、時代の波に流されつつも、
少しは既視感に心を委ねる余裕は持ちたいものだ。