第五幕「一杯のコーヒー」

 湾岸をとばす。私のバイクは久しぶりの遠出に、歓喜の声を上げていた。晴れた濃い青い空に朝日の黄色が広がっていく中、トンネルを抜け、長い直線を走る。まだ、まわりにはクルマは少ない。スロットルをさらに開けた。シフトアップ。メーターは九十のあたりをふらついている。
 長い準備期間を終え、私達惑星開拓団は一週間後、この地球を捨て去る。後二〇〇年もすれば、この地球に人は住めなくなるという。住めなくなる、というのは大袈裟で、生存維持が可能な環境が破綻してしまう、というのだそうだ。これだから科学者というのは、世間から煙たがられるのだ。その原因を作り出したのは、利己的な民族意識と、科学技術と、宇宙に人類の未来をという、わけのわからない国家的宗教的イデオロギーだった。私は目を細めた。
 発つ鳥あとを濁さずという諺があるが、それを私が思いだしたのはつい半年前のことだ。日本人の私でさえ、開拓団には大賛成していたのだ。他国の人々がこの諺を耳にしたところで、地球を文字どおり破壊してきた自分たちの犯した罪の重さなど、ほこりを払う程度にしか感じないだろう。事実、私がそうだ。それほど世の中に擦れたのか。そんな感慨を持つ歳になったということか。私は三十七歳になっていた。
 普通乗用車をパスした。わざと車体すれすれを通る。クラクション。思わず顔がにやけてしまう。以前、後ろに女を乗せていた時にこれをやり、その晩にふられたことを思い出した。最近の奴等は度胸がない。そう思っていた。単なる馬鹿だったのだ。どうやらその病気は今も治ってないらしい。
 Tシャツにブルージーンという、前世紀の遺物を身につけただけの格好は、割と好みにあっていた。風が気持ちいい。太陽の光が海面に反射し、潮の香りもあいまって、何故か無性に懐かしさを覚える。胸にこみ上げてくるものがある。それにつき動かされて、さらにメーターの針を右に振らせた。
 目的地にはすぐに着いた。小さな喫茶店。何故こんな街道沿いの離れたところに店を出したのか、今もって不思議でならない。ただ、朝は早い。もうすでに、営業中の古ぼけた看板を出していた。私みたいな変わり者たちの相手をするのを、半ば趣味にしているのだろう。
 煙草を一本、ゆっくり喫ってから、扉を押した。
 けむる店内。コーヒーの薫り。スタンダードと呼ばれるジャズ。窓から入る朝日。五十年前に、私はタイムスリップした。
 カウンターの中の男と目が合う。軽く笑みを交わし、スツールに腰掛けた。他に客は二人。若い男と女の連れ。この店の雰囲気に戸惑いながら、それでも静かに、何も喋ることなく、コーヒーを啜っている。
 昔ながらのミルの音が静かに響く。お湯を沸かす音がそれに調和し、言葉のいらない世界がそこに生まれた。金属音とともにジッポで煙草に火をつける。食器の音がして、目の前にコーヒーが置かれた。キリマンジャロ。いつものやつだった。小皿に塩が盛られていた。ひとつまみ、カップに入れる。忘れていない。それが嬉しかった。ここに来たのは、もう四年も前になる。
 男にカップを持ち上げてみせた。肩を竦める。男の肩越しに、二つ、写真立てが見えた。一つは、私と男と、女が一人。妙な恥ずかしさがこみ上げてきた。私の視線に気づいた男が、写真に振り向き、照れくさそうな顔をしながらカウンターの奥に向けて視線を泳がせた。私はその写真の隣にある、もう一枚の写真を見た。男と女と、幼児が一人。子供の泣き声が奥から聞こえた。そういうことか。私はコーヒーを一口、飲んだ。
 終始、言葉のない時間が過ぎた。思い出話に花を咲かせるわけでもなく、近況報告をするような柄でもない。いや、私は最初そのつもりで来たのだが、男の顔を見た瞬間に、どうでもよくなった。
 いつの間にか若い男女の二人はいなくなっていた。料金が、キャッシュでテーブルに置かれていた。一応の心得はあるようだ。男がカウンターから出て、そのテーブルを片づけ、キャッシュを受け取る。そのサマを、崩れ落ちてゆく煙草の灰とともに見つめていた。何も、変わってはいなかった。
 カップが空になってからだいぶ経った。何をするわけでもなく、ただそこにいただけの私はここにいる必要はなくなったと感じた。なすべきことは、ない。キャッシュをカウンターに置き、ヘルメットとグローブを掴み、エントランスに向かった。ふと立ち止まり、振り返った。何かが男と私の間にあった。何かが繋がっていた。そして何かが薄れていった。片手を挙げて、私は外に出た。
 潮風が私の髪の毛をくしゃくしゃにした。コーヒーと煙草の味が、口の中で何とも言えない苦さを調合していた。その苦さが胸の中にも染み込んできたようだ。太陽はもう完全に水平線から出ている。この風景を忘れないようにしようと心に決め、バイクにまたがり、エンジンをかけた。
 太陽の光が、やけに目にしみた。


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