とある風景

『……いつもそうなんだね、貴方って』
「え?」
『気の無い返事ばかり。仕事熱心なのは解るけど、いつもそうだと、私もつまらないよ』
 午前一時の電話。僕はまた自己嫌悪に陥ってしまった。いつまでこんなことやってるんだ、まったく。
「……ごめん、そんなこと、言わせるなんて……」
 そうだ、よっぽど思い詰めていなければ、こんな事を口にするはずないというのに。受話器を持ち直して、一人暮らしの部屋を眺める。彼女がここに来てくれたのは、もうどれくらい前になるんだろう。
『そう謝られても、私はどうしようもないよ。貴方の事も、理解してるしさ。今のは単なる愚痴よ、愚痴。聞き流してくれていいわ』
 またしばらくくだらない話をして、僕たちは通話を終えた。ふう。
 はっきりしない関係がだらだらと、大学入りたての頃から続いている。くっついたりはなれたり。そればかりを繰り返していた。それを思う度に、胸の中に不快な塊が膨張してくる。現に今も……。
「ああもうっ」
 ベッドに倒れ込み、手探りでコンポのリモコンを捜し当て、スイッチを入れた。途端に大音量が響き、身体をびくっと震わせ、慌ててボリュームを絞る。布団を伝って、心臓の早い鼓動が聞こえてきた。なんだか一人で気恥ずかしくなって、仰向けになる。
 会社。一つの歯車となって一生利潤を求め身を擦り減らす。学生の時に持っていた淡い期待は消え去り、エリートの下でこき使われ、醜い人間関係、派閥争い、何より、殺人的な仕事の作業に自分を順応させていく。一度はそんな生き方に納得はしたものの、またここにきてわがまま虫が騒ぎだした。
『これぐらいの仕事も出来ないの? ハ! 男のくせに軟弱なのねェ』
 女主任の言葉が、耳に残っていた。自分たちの企画とまた別のものだったから、手をつけなかっただけなのだが、彼女に言わせればそれでもやるのが仕事らしい。ただでさえ自分の仕事で手いっぱいだというのに。
 これを理不尽と憤慨するか、男は黙って受けるものなのかは、僕には解らない。解らないから余計に中途半端に終わってしまう。その他つまらない事でぐちぐち言われ、仕事は立て込んでいるというのにどんどん増えていくし。
 甘えだと言われてもしょうがないが、今自分ではどうしようも無いところまで来ているのだ。いつこの欝積したものが爆発するかわからない。
 彼女との会話は、そんな状態の僕のオアシスみたいなものだった。話も合うし、付き合いが長い分、考えている事や心情を解りあえるから。ただ、それが今では少し、辛い。億劫だと感じてしまう事、欝陶しいと感じてしまう事、それが彼女に対して悪いと思い、どうにかしなければと自分なりに努力するが、先ほどのような事の繰り返しで……それにまた苛立ちを感じて歯ぎしりをする。
 それでも。
「明日も早いし、もう寝るか」
 と言ってしまう辺り、軟弱と言われてもしょうがないのかもしれない。


 光るネオン、ざわめく人波、響くクラクション。わりと早く仕事が終わった帰り道、僕は懐かしい道を歩いていた。
 今日もまた、あの女主任にきついお言葉をいただき、課長には企画書の書き直しをやらされ、先輩は同情してくれるが、やはりこき使ってくれる。
 派手な服装の女性が多く目につくこの駅前。それに、いきがっている高校生や中学生、ヤバイおじさんたち、普通のカップル、僕と同じような、会社帰りのサラリーマン。様々な人間を目にする。一体この人達は、何を考えて毎日を過ごしているのだろう。
 賑やかな駅前を抜けて、しばらく歩くと、目指す道場が住宅街の手前に見えてきた。コンビニと本屋の明かりに照らされて、歩道に多くの自転車が見える。
 僕は高校時代、剣道を少し嗜んだ。大学に入ってからは素振り程度だったが、就職したての頃はこの道場に通って、稽古した。仕事以外に何か熱中できるものがほしいと思ったが、思いついたのが剣道の他に何もなかったのだ。いい師匠についたので、初めて剣道を楽しむ事が出来るようになったのだが、結局時間が出来ずにここしばらく足を向けていなかった。久しぶりに、何も考えずに汗をかきたいと思って、ここにやって来たのだ。ただ今日は、感覚を取り戻すため、見学しに来ただけなのだが。
 入り口の前に立った時、ガラガラと引き戸が開いて、何人かの少年が、おしゃべりしながら出てきた。稽古が終わったのだろう。背広姿の男には一瞥もくれず、自分の自転車にそれぞれ向かっていったが、見覚えのある顔の少年がこちらを見て軽くお辞儀をした。軽く笑って頷き返し、僕は懐かしい道場に入った。
 キェーッ。イヤーッ。耳に馴れた気合いの声が響いてきた。聞き覚えのあるものなら、顔も思い出せる。わくわくしながら靴を脱ぎ、すぐ稽古場になっている部屋を覗いてみた。
 だだんっ。踏み込みの音が僕を圧倒した。同時に身体が熱くなってきた。今は大人の人たちが稽古する時間だ。試合でもしているんだろうか、打ち合っているのは二人だけで他の人たちは周りで正座してじっと二人を見ていた。
 二人が鍔迫り合いから離れた。一瞬の沈黙が空気を支配する。
 道場は二箇所で試合が出来るほどの広さで、今、出口側の試合場で試合をしている。僕は邪魔にならないように静かに戸を閉めて座り、見学する事にした。何となく場違いな思いにとらわれる。
 打ち合っている二人のうち、太めで背の高い方がゆっくりと、しかし隙のない動作で上段に構えた。僕の方からは背中しか見えないが、その気迫は表情が見えなくても伝わってくる。
 小刻みに身体を揺らしていたのが、ぴたりと止んだ。かえってそれが不気味な感じを受ける。逆に相手の方が足を使って、揺さぶってくる。円を描くように回り、先ほどの二人の位置が逆転した。回っている方の剣士は、被っている面の後ろから束ねた髪の毛が覗いていた。女の人か。
 試合場の中央にいた二人だったが、しばらくして気づくと、いつのまにか僕のいる方に移動していた。よく注意して見てみると、太っている男の気迫に押されて、女の方が下がっているのだった。その証拠に、先ほどから、あの気合いを発する声が聞こえない。
 男と目が合った。彼は束の間僕を見て、にやりとした。そのことを不思議に思うまもなく男は竹刀を振った。
「っりゃあぁぁ!」
声とともに鮮やかな面が決まった。女は身動きとれないまま、立ち尽くしていただけだった。
「一本! 勝負あり!」
 二人が蹲踞して礼をするのを見届けてから、周りの者達は緊張を解いた。ざわめきが少しずつ大きくなっていく。と、一人の男が立ち上がって、汗を拭きながら大声で言った。
「では二人ずつに組んで、打ち合い、始めてください」
 彼の名は伊佐木信吾、僕の記憶が正しければ今三十三才。師範補佐ということだったが、実質的な師範だ。大柄な体格は向き合った者を圧倒するが、意外に気さくな人柄で、通ってきていた頃は何かと面倒を見てくれた人だ。今試合をしていたのも、彼だった。
 打ち合っている人たちに二言三言アドバイスをしながら、僕の方にやってきた。
「やあ、お久しぶりです」
 手を挙げて僕に声をかけてくれたというのに、立ち上がって頭を下げる事しか出来ない自分に苛々する。
「着替えもしないで、どうしたんですか?」
「……いえ、今日は久しぶりだから顔見せにと思いまして」
「そんな事心配いりませんよ。みんなどうしたんだろうって話してたくらいですから」
 年下の僕に対しても、丁寧な言葉遣いは変わらない。顔を和ませて首筋の汗を拭った。爽やかな笑顔というのを久しぶりに見たような気がする。
 気合いの声、竹刀のぶつかる音。
「……あの、源太郎先生は?」
「師範でしたら、いつものように奥にいますが、呼びましょうか」
「いえ、とんでもない。僕が行きます」
 ちょうどその時、白い胴着をつけた一人の人が伊佐木さんに手合わせを願い出た。伊佐木さんは快く引き受けた。この白い胴着の人、どうやらさっきの試合の女の人らしい。ちらと見えた彼女の瞳が、真剣だった。すみません、と伊佐木さんと女の人は頭を下げ、僕から離れていった。頭を下げた瞬間の伊佐木さんの目が、僕を見下したように輝いたと感じたのは僕の気のせいなのだろうか。見下す? 理由がわからない。
 僕は源太郎先生のいる、奥の稽古場へ行く事にした。先生はもう六十歳を越えているが、その剣技は錆び付く事などなく、大会に出れば必ず上位にくいこむと言われていた。
 今いる稽古場の左奥に、別棟に通じている通路がある。壁は茶色だが、所々に傷やしみが出来ていた。その壁づたいに邪魔にならないよう進んでいった。何度か、僕の目の前で壁にぶつかり、すみませんと謝る人がいた。剣を降ろして姿勢を正して頭を下げる姿に、何かしら心が洗われる思いがした。
 すのこが敷いてあるその通路は、蝋燭で灯をとっていた。そよぐ風に柱の炎が揺れ、僕の影を生き物のように操る。まさに、時代劇か何かに出てくる道場そのものだった。別棟の細長い板間の向こうに、ちょっとした広さの、これまた板間が見えてきた。
 きしきし鳴る板間を抜け、小道場の手前で一旦膝をつく。
「先生、入ります」
「……入りなさい」
 ゆっくりとした動作で足を踏み入れて、最初に目に入ったのは、向かって左側、一段高くなっている上座と呼ばれる所に、腕組みしてじっと座っている源太郎先生と、その目の前に置かれている、刀だった。先生は僕の顔を見ると、厳しい表情から一転して微笑みかけてくれた。僕の事を憶えてくれていたらしい。
「御無沙汰していました」
 刀を挟んで向かいに正座した僕は、軽く頭を下げながら挨拶した。先生はそれに対して、二、三度頷くようなそぶりを見せただけだった。
「……これを見なさい」
 今までどうしていた、とか、どうして来たのか、などと言うのかと思っていたのだが、その先生の言葉に肩透かしを食らった感じだ。
 これとは、果たして床に置かれている目の前の刀の事だろう。ごく普通の居合い用の刀のようだった。黒い鞘に赤い線が一筋入っている他は、これといって目を引くものはない。
「これが何か?」
「君はこれで形が出来ますか?」
「……と言いますと?」
「いやなに、上段者以外の人間が真剣を持ったらどうなるものなのか、とふと考えただけなのだが」
 先生は何が言いたいのだろうか。この道場に通っていた頃も、一種、はぐらかすような会話をしていたのを憶えている。
「これを抜いてみなさい」
 一瞬、何を言っているのかわからなかった。まだまだ未熟者の僕に真剣を持たせるなんて、何も知らない子供に拳銃を渡すようなものだ。
 しかし先生の目は、冗談を言っている目ではなかった。隠そうとしても隠しきれない鋭さが感じられた。
「よろしいんですか」
「やってみなさい」
 組んだ腕を崩さず、先生は静かに瞼を閉じた。
「…………」
 よくわからなかったが、一礼して鞘と柄に手をかけ、深呼吸してから両腕を開いていった。鈍い光を放ちながら、妖しい魅力を持つ刀身があらわになってくる。その輝きに魅き込まれそうな気分になってきた。両腕が震えるのを、僕ははっきりと感じた。怖い。
「そんなに気負わなくてもいいのだがな。怖いことを怖いと言うのは、決して恥ずかしいことではないと思う」
 見ると、先生が頬を緩めながら僕の方に近づいてきて、刀をもとのように収めた。そのまま刀を持ち上げ、又上座に戻った。
「稽古の時に、打たれるのが嫌だといって遠い間から一刀必殺するのは構わないが、それでは何のための剣道かわからない。ぎりぎりの所で生死が分かれる、このような刀を使っていたからこそ、技も磨かれるし、精神も強くなるものだと思うが、どうでしょう」
 先生の言葉。ふと、先ほどの、鋼の輝きを思い出した。そう。元は真剣で競いあったはずだ。斬るか斬られるか、それだけしかなかったんだ。
「はい、そう思います」
「それを忘れぬよう、しっかり稽古していきなさい」
「はい。有り難うございます」
 平伏して、僕は小道場を出ようと立ち上がった。
「ああそうだ」
 不意に先生が何かを思い出したようなので、僕は黙って言葉を待った。先生はにっこりした顔でこう言った。
「よく来てくれたね。元気そうでよかった」
 僕はこの言葉を聞いて、さすがに嬉しくなり、
「はい!」
と、まるで小学生のように大声で返事をしてしまった。後で思い出すと、恥ずかしい気もするのだが。

   ◇ ◇ ◇

 今日もまた、道場に来て稽古している。さすがにブランクがあるため、身体がついていかないのだけど相手はそんなことはお構い無しに打ってくる。
「……っああぁ!」
 このところ、伊佐木さんと剣を合わせることが多い。二人とも意識はしていないのだが。
 びしばしと伊佐木さんの竹刀が僕の身体に当たる。的確に技が決まっていく度に、僕が死んでいく。伊佐木さんが死んでいく。いや、当てるだけの剣道では真剣を持ったとしても死なないかもしれない。そんなことはないか。
「めぇんっ!」
 ぱしっと良い響きで、伊佐木さんの面が決まった。竹刀を顔の前に立てた間抜けな格好で、僕は首を竦めていた。間脳から脊髄にかけて、何かで貫かれたような感覚が広がってくる。
 息が上がっていた。両腕が重く、太股はつりそうだった。
「ではやめてください」
 伊佐木さんが殆ど怒鳴り声でそう言うと、皆一斉に蹲踞した。
「では最後にかかり稽古を行います。元立は六人、三段以上の人がやってください」
 てきぱきと指示に従う人達。しかし内心僕は逃げ出そうかと本気で悩んでいた。よりによってかかり稽古のある日に来てしまったとは。
 かかり稽古とは、元立と呼ばれる人と行う稽古なのだが、はっきり言って地獄である。間合いを取って相手の出方を見るなんてことはしないで、かかっていく僕たちはとにかく技を出して打っていくだけである。元立の人はそれをかわしたり逆に打ち返したりする。たとえ元立の人を抜いたとしても、すぐさま振り向いてかかっていかなければならない。まさに全身全霊を以て相手に向かって行くのだ。それを約三十秒。
 簡単だと思うかもしれないが、これを元立全員と当たるまで行う。元立六人、今日の人数は約二十人。休んでいられるのは、自分の前の人が終わるまでの間だけ。疲れきった僕でなくとも、かかり稽古と聞いただけで憂鬱になる人間は絶対いるはずだ。
「始め!」
 言葉が聞こえたかと思うと、かかっていく人間の気合いの声がその場を支配し、ほとんど狂乱の世界と化す。何も考えられない。肉体的な感覚だけが自分の全てだ。
「やめぇ!」
 はやい……! こんなに早く自分の番がくるとは誰も思っていない。心の準備が出来ないまま、始め、の声で向かっていった。
 何かを叫びながら、面の向こうに見える元立の人の眼を睨んで竹刀を振り回した。剣道のけの字も自分では感じられない。面、小手、引き面、抜き胴……。頭の中は、眼の前の敵の映像で一杯だ。いつまで続く? さっきはあんなに早く終わったのに! 身体ごとぶつかっていったが逆に弾き返されて、足がふらついた。ふざけるな、もう時間はとっくに過ぎてるぞ。元立の小手が決まり、手が痺れて危うく竹刀を落とすところだった。
「……っこのっ」
「やめぇ! 交代して」
 軽く礼をして、隣の列に並ぶ。始め、の声に、また竹刀のぶつかる音が道場に広がっていく。胴着が吸えなくなった汗が身体を伝って落ちていくのを、自分の事では無いように感じながら、ぜいぜいと肩で息をした。何だか夢の中にいるような錯覚にとらわれる。ぼんやりとして身体がふわふわしている感じだ。
「やめぇっ!」
 僕の番が回ってきた。蹲踞から構えに入る。目線が合った。身体の中で、何か熱いものが沸き上がってくる。
 始めの声に世界が急変する。どう打っていけばいいか、などと考えない。目の前の敵をただ倒すだけだ。視界いっぱいに元立の姿が広がった。


 気がつくと、周りの人達がざわざわしながら散っていった。伊佐木さんはしきりに汗を拭っている。小手を外す人、竹刀を軽く振っている人、座り込んで休んでいる人。そこで僕は、今日の稽古が終わったのだと認識した。途端に膝の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。呼吸が苦しい。息を吐いているのに吸っているような気がする。やはりこれからはタバコは控えよう、と苦笑した。
 強ばった手で面を外し、手ぬぐいで汗を拭く。きつい汗の匂いがやたらと解放感を引き立てた。
「大丈夫ですか?」
 視線だけを向けると、伊佐木さんが僕を覗きこんでいた。
「終わりの礼の時、身じろぎ一つもしないんで心配したんですが」
「……いえ、大丈夫です。やっと終わって、気が抜けたというか、何というか……」
「今日のは厳しい内容でしたからね、私も少し疲れましたよ」
 少し……。こっちは死ぬほどだというのに。やはり鍛えかたが違うのだろうか。
「皆さんタフですね。こんなきつい練習が終わったっていうのに、もう笑っていられる」
「そうですか? まあ、好きなことをやっているんだから、このぐらいは疲れたうちに入らないのでしょう」
「好きな事、ですか」
 伊佐木さんのその言葉に、僕は妙に納得してしまった。そうだ。そうでなかったら毎回毎回時間をつくってこんな練習には来ないだろう。
 もう一度周りを見る。皆、なにかしら、すがすがしいというかさっぱりしているというか、そんな表情をしていた。部活をやっていた頃、同じ光景を見たことがあるのを思い出した。
「……そうですね」
 微かな呟きが、深い息とともに僕の口から洩れた。伊佐木さんは僕を見て何か言いたげな様子だったが、結局何も言わずに終わった。

   ◇ ◇ ◇

 先輩の桂さんと得意先の会社をまわって、今は電車に揺られている。窓から差し込む午後の陽射しが首筋に当たって、座っている者を眠りに誘う。桂さんは僕の五期上の人で、新婚ほやほやだ。何度目かの欠伸の後、桂さんが僕に顔を向けた。やに臭い息が、良い気持ちで微睡んでいた僕の顔にかかり、少々むっとしながら目を開ける。
「お前さあ、最近なんかいいことあった?」
「え、いいことって……」
「いや、俺が言うのもなんだけど、お前の顔がいい顔になってきたからさ。仕事もしっかりこなすようになってきたし。あのキツいおねーさまも、なんかお前を最近頼りにしてる、とかなんとか言ってたぜ」
 あの女性が……。この女性はあの女主任の事だが、そんな素振りはミジンコのミの字も見せた事はなかった。確かに僕にまわってくる仕事が少し増えた気もするが、何故なんだふざけるな、と考えるよりもさっさと終わらそうと自分でも感心するぐらいに仕事に集中しているのだ。それにあの人も、以前よりも厳しいお言葉をくれるようになり、いよいよ嫌われたか、なんて事まで考えていたのだ。それを桂さんに言うと、
「まあ、あの人もあれで結構面食いだからな」
「……はあ?」
「ふふ、お前はお前の彼女とうまくやれってことさ」
「……はあ」
 桂さんはそう言って、ニヤニヤしたまままた欠伸をした。さっぱり要領を得ないまま、僕もまた微睡みの世界に引きずり込まれそうになった。


『……それで? 仕事がうまくいってるんならそれでいいじゃない。私はかなり面白くないけど』
「面白くない……。そりゃなかなか会えなくなるのは事実だけど」
『だから貴方はわかってないっていうのよ』
「え、なに?」
『何でもないって。申し訳ないと思うんなら、今度の木曜、仕事あけたら私に付き合いなさい』
「はいはい、分かりました。お嬢様の仰せの通りに」
『本当! へぇ、何でも言ってみるものね』
「……ちょっと待ておい」
『待たない。約束したからね、もう決まったからね!』
 屈託なく笑う彼女の声に、僕は苦笑した。電話越しに彼女の嬉しさが伝わってくる。そんな感覚にしばらく身を任せ、結局通話を終えたのは夜中の二時を過ぎていた。
 久しぶりに彼女に電話してみた。このあいだの電話からずっと連絡を取っている暇がなかったからだ。むこうでも気にはしていたらしいが、きっかけが掴めなかったらしい。きっかけもなにもあったものではないと思うのだが、電話なんて。
 しかし、いつまでもこんな関係は自分でもどうかと思う。真剣に、二人の落ちつく場所を探さなければ。
(落ちつく場所、か……)
 明日の朝出すゴミをまとめながら、僕は考えた。縛られない関係というのもある意味贅沢なことで、恋愛において相手を束縛したいと思うのは当然のことである、なんてことをどこかの本で読んだことがある。それは解るのだが、どうも僕は独占欲が強いらしく、相手の自由を全部奪いかねない気もする。結構痛い想いもしているから、なおさらだ。
 手を洗って、ベッドに腰掛ける。ざっと部屋を見回してみる。いつになくきれいに感じられるこの部屋は、しかしなにかがよどんでいた。キッチン、テレビ、本棚……いつも見ていて何の気にもならないはずの部屋の構成要因が、いやこの部屋という空間自体が、なにか異質のものに感じられた。
(そうだ、彼女がこの部屋に来るといつも窓を開けて空気の入れ換えをする。しっかり換気はしてるし、掃除だって当たり前だって言っても、きかない。これが、そのわけか……?)
 もう一度、改めて部屋を眺める。竹刀が目に入ってきた。柄の部分は黒くしみが付いていて、剣先に被っている白い皮も、もうぼろぼろに見えた。なにか、疲れていた。そんな印象を受けた。
(…………)
 なぜか彼女の顔が頭の中をよぎった。無性に彼女に会いたくなった。木曜が、明日であればいいとさえ、思った。


 道場に来ていた。珍しいことに、源太郎先生も稽古に姿を見せ、僕は我侭を言って、つきっきりで指導してもらっている。
「あまぁいっ!」
 僕の会心の引き面がかわされ、間合いを詰められて突きを食らった。いつもだったら無様に倒れるところだが、源太郎先生の手前、何とか堪える。先生も僕も、いつもとなにかが違っていた。後で聞いたところによると、この時の僕たちは鬼気迫るものがあったという。
「即死だ」
 源太郎先生の呟きが、僕の耳を打った。
「即死だぞ」
 僕は大きく頷き、また構えに入る。先生も構え直す。身体が熱い。自分でもどうしようもないくらいに、熱いものが身体からこみ上げてくる。微かな気の乱れも許されない。生きるか死ぬか、それしかないんだ。
 おおおぅと僕が吠えて先生に打ってかかった。竹刀がぶつかる。二人の気合いの声。ぎりぎりときしむ鍔。離れて先生が小手を狙いに来る。殆ど倒れそうになりながら抜き銅。当たったのは先生の腕だった。すぐさま振り向く。すぐそこに先生が迫っていた。真正面からぶつかる。渾身の力を込めて弾き返そうとするが、先生はびくともしない。ぶつかる視線。先生は僕を殺そうとしている。やられてたまるか。
 必死になって打ち合う。先生は静と動、緩と急を織りまぜて僕を翻弄する。僕は馬鹿みたいに攻めることしかできないけど、それがかえって先生の意表をつくいい手段なのかもしれなかった。どれぐらい時間がたったのかわからない。ぴたりと動きを止めて、僕たちは対峙した。何度死んだことか。ゲームじゃあるまいし、生き返ることなんてないというのに!
 視界は源太郎先生の姿しか映していない。この強大な敵を倒すにはどうすればいいか。それだけを考えている。いや、考える前に身体が動いているのかもしれなかった。
「ふんっ」
 先生が打ってきた。体をかわしてこちらから間合いを詰めていく。がしっという音とともに鍔迫り合いになった。これで何度目なんだ? いかんせん鍛え方が違う。徐々に押されているのが自分でもわかった。ここが勝負だ。じらすように鍔迫り合いを続けた。しつこいぐらいに付いて回った。
 頃合を見て後ろに跳び退き、先生が迫ってくるのをしっかり見ながら素早く上段に構える。
「どおう!」
「めぇんっ!」
 先生の逆銅と僕の面が、ほぼ同時に決まった。……いや、先生の方が一瞬だけ早かった。でもこれなら相打ちにはもっていけたはずだ。
 残心を残して、落ちついたところで蹲踞する。乱れた息が、激しい鼓動が、自分の命を感じさせる。礼をすませて、源太郎先生に駆け寄った。
「有り難うございました」
「最後はしてやられたようだね。見事だった」
「いえ、先生の技が先に決まってました。真剣では相打ちになっても剣道では負けです。まだまだです」
 先生は僕の言葉に軽く頷いてにっこり笑った。それがなぜか、僕には嬉しく感じられた。
 稽古が終わると源太郎先生に呼ばれ、僕はあの別棟に足を運んだ。行ってみると伊佐木さんもそこにいた。そして、あの居合い太刀もそこにあった。僕は無言のまま、向かい合って座っている二人の邪魔にならないように、伊佐木さんの後ろに座った。
 僕が入っても暫くは沈黙が部屋を支配していた。三人の息遣いと、そよぐ風の揺らめき以外は、何もなかった。
「さて……これからこの刀で形を行う。しっかり見ているように」
 厳かな先生の言葉は、果たして僕に向けられたものだろう。頷き返すと、先生は静かに立ち上がり、目の前の刀を手にした。伊佐木さんももう一本の刀を持ち出し、源太郎先生と相対した。二人ともゆっくりとした動作で腰に太刀を差し、お互いの距離をとる。呼吸が一つになっていく。
 何の躊躇いもないようだった。おもむろに太刀を抜ききり、体をさばいて切りつける。
「イヤぁ!」
 刃が空を斬る鋭い音を伴って、先生の太刀が伊佐木さんの小手に振り降ろされる。刃が触れる寸前、ぴたりと止まるのを見て、僕の身体は震えた。二人がゆっくり離れる。そしてまた、先生の刀が伊佐木さんにむかって襲いかかる。
 自分が斬られる思いがした。二人の太刀の、一振り一振りが、僕の魂を斬り刻んでいくようだった。しかし、目を逸らすことは出来なかった。逃げることは許されない。目の前を煌めいて流れる刃の軌跡を、僕はしっかりと受けとめようと思った。
 形が終わり、先生と伊佐木さんは大きく息を吐き出して刀を置いた。お互いに礼をして顔を和ませる。
「お疲れさまです。見事な形です。ずっと見入っていました」
「そうですか、そう言ってもらえると嬉しいのですが、師範が引っ張ってくれたから……まだまだです」
 頬を上気させた伊佐木さんが、僕の言葉に応えてくれた。珍しいことに普段の伊佐木さんには見られない、まんざらでもないというような表情をしていた。それほど上手くいったという自信があるのか。
 僕は決意とともに先生に向き直り、平伏して言った。
「先生、自分にその刀で、私に形をやらせて下さい」
 この言葉は、先生を多少なりとも驚かせたようだった。僕は返事を聞かないまま言葉を継いだ。
「この前は確かに嫌な予感がして刀を抜ききることを躊躇いました。しかし今なら出来ると思います。自分も精進したいと思います」
 はたからみれば、何を大げさな、と思われるかもしれなかった。でもこれは僕の正直な気持ちだった。以前出来なかったことを、今、乗り越える。ただそれだけのことだ。
「…………」
 先生は、しばらく考えた様子だった。ちらと伊佐木さんに視線を走らせ、そして無言のまま、刀を僕に渡してくれた。立ち上がり、伊佐木さんの持っていた刀を腰に差して、僕を待つように、立ち上がって腕を組んだ。
 前よりさらに重みが増した感じだ。しかしそれがどうしたというのだ。僕はこの刀を抜く。刃を真正面から睨んでやる、自分自身で。
 鯉口を切る。刀身があらわになっていく。先生と伊佐木さんが注目しているのが、痛いほど分かる。嫌な感じが増してきた。この刀を抜ききってしまえば、何かが変わる。そう、何かは分からないが、変えなきゃいけない。不気味に光る刃が僕を震え立たせる。
 一気に鞘を払った。煌めきが散った。冷たい煌めきだった。
「…………」
 身体から、僕の垢が落ちていく。先生はほうと、感心した様子で僕を見ていた。伊佐木さんは何やら悔しそうな目で僕を睨んでいた。二人の表情と刀を見比べ、僕は自分のやったことの価値をはかりかねた。
 先生が先に動いた。僕が打太刀をやることになった。中段からの小手。さばいて面。先生の白髪を揺らすところでぴたりと止まった。お互いに下がる。上段の構え。僕は刀を開いてやや下段の構えで、打ち下ろされる刀を擦り挙げて、小手。しばらくの間、衣擦れの音だけがその場を支配した。
 一通りの型を終え、礼をして刀を鞘に収める。文字どおり、手に汗を握った稽古だった。
「信吾君、私は彼も師範候補に入れることは出来ると思う。もちろん、彼には悪いがそうするつもりはないのだが」
 その言葉で、僕ははっとして伊佐木さんを見た。目があった。恨めしそうな表情は一瞬後には消え、伊佐木さんはいつもの爽やかな笑顔に戻った。その瞬間、僕は何か後ろめたいような、嫌な感じを覚えた。
「はい、その通りですね。やはり自分はまだまだです」
 軽く頭を下げた伊佐木さんの拳が、固く握られているのを僕は見てしまった。いずまいを正して、伊佐木さんはその場から立ち去ってしまった。僕は刀を慎重に戻して、先生のもとに返した。
「何故、あんなことをおっしゃったのですか」
「彼は、もっともっと知るべきなのですよ」
と言ったっきり、先生は押し黙ってしまった。なんのことかを聞きたかったが、僕は敢えて聞かないことにした。それがいいと思ったのだ。そして僕も、その場を後にした。


 木曜日。約束通り彼女と会い、あちこち歩き回って、ようやく小さなバーに落ちついた。飲みながらの会話。久しぶりに会う彼女はとても魅力的で、パンツスーツが良く似合っていた。
「そんなにお洒落してたら、言い寄る奴だって多いだろうに」
「そうねえ、少なくはないよ」
 涼しい顔でゆっくりと彼女は言うが、正直なところ、僕は心中穏やかでない。だけどそれを表に出すのは許せないので、多少気にしているというような素振りで上目遣いに彼女を見た。
「へえ、そりゃ光栄なことじゃない? 相手にしてもらえる奴はうらやましいね」
 淡いライトの下の彼女は、僕の知っている彼女じゃないみたいだ。いつもなら気付かないであろうことまで目につく。知らないイヤリング、知らないスカーフ、落ちついたこの店には似合っているが、無性に気に入らない。……駄目だ、彼女は僕の管理下にいるわけじゃない。
「貴方、自分の立場分かって言ってるの?」
「立場?」
「こうして貴方と一緒にいるのは何故?」
 赤い唇に端を歪めて、彼女はぴっと僕を指さした。そんな表情をするときは、彼女は大抵意地悪なことを考えている。……意地悪ですめばいいが、などとひどく後ろ向きなことを考えて、頭を抱えてしまった。
「……独りよがりの男の嫉妬を煽るため?」
 自分で煽ってどうする。
「はあ……待ってるのってこんなに辛いとは思わなかったけど、今更こっちからってのもなあ」
「え、なに? 頼むから自己完結しないでくれ」
「それは貴方」
「…………」
 グラスを傾けるペースが、お互い早くなってきた。そうでもしなきゃ、ってところか。でも何で彼女が?
「私って本当にいい女よね」
「それは認めるけど、僕の知ってる君はそんなに酒好きじゃなかったように思えるけど」
「鍛えられましたからね、いろいろと」
 ドクンと、胸が圧迫された。嫌な想像をしてしまった。くそっ、どうにかしてくれ。
「いろいろ、ね」
 喋らなければいいものを、僕の口は飼い主を無視するよう訓練されているらしい。気分が悪い。
「……貴方、分かってないんじゃなくて、本当に、めちゃくちゃ、ものすごく損な性格してるんじゃない?」
 両ひじをついて、彼女がのぞき込むようにして言った。そんな彼女の仕草が、僕の胸を余計かき乱していく。
「いや、両方だと思うよ、何のことかわからないけど」
「…………」
「それより外に出ないか。気分が悪い」
 返事を待たずに先に席を立って支払いを済ませた。振り返ると彼女が心配そうな顔で立っていた。
「どうしたの?」
「行こう」
 バーテンダーの不思議そうな顔を横目に、僕たちは外に出た。車の走る音や行き交う人たちの声が、僕たちを包む。夜風が妙に心地良い。
 僕たちは暫く無言で歩いた。彼女は僕を心配そうに見上げながら、寄り添うようにしている。ネオンの光に浮かぶ彼女の顔を見ていると、なんとも言い難い感情が、胸の中で渦巻き始める。
 人通りの多い駅前の通りに入ってしまった。人混みは嫌いだ。特に彼女が隣にいると、彼女に注がれる男達の視線が気になってしょうがない。……みっともない。男の嫉妬なんて。でもそれは強まる一方だった。彼女は僕の気持ちを知っているんだろうか。
「……もし君に一緒にいて欲しいって言ったら、どうする?」
 気づかぬうちに、こんなことを言っていた。
「え、どこに行くの? 気分が悪いんでしょう。今日はもう帰ったほう……」
 彼女は立ち止まってしまった。衝動的に僕は彼女の手を引いて、小さな路地に入った。薄暗い陰になっていてあまり人目にはつかないような所だった。
 僕は彼女をじっと見つめた。もう限界に近い。
「どうなの?」
 彼女は黙ったままだ。その表情は驚き以外の何物でもなかった。僕の言った意味が通じたのか。
「……それって、冗談?」
「どう聞けば冗談になるの!」
「気分、悪いんじゃないの」
「誰のせいだよ」
「…………」
 もうダメだ。僕は彼女を抱きしめた。彼女の身体がびくっと震えた。こんな、溢れる感情を抑えずに彼女をいきなり抱きしめるなんて……。自分の中の嵐が激しくなっていくのにひどくおびえながら、それでも手を緩めることは出来なかった。彼女のぬくもりが、さらに僕の鼓動を速めていくようだった。
「ちょっ……どうしたの」
「独りよがりの男の嫉妬さ」
 独りよがり。伊佐木さんの顔が思い出された。僕が剣を抜いたときのあの悔しそうな顔。握りしめられた拳。師範の座を約束された人だからこそ、僕のような他人がしゃしゃり出てくるのを極端に嫌うんだ。自分だけを特別視したいがために。はたから見れば、独りよがりのわがままな子供だ。
「子供だよ、これじゃあ……」
 恥ずかしい。先生に厳しいことを言われた伊佐木さんの気持ちがよくわかる。爪が食い込んで血が出るくらいに手を握りしめて我慢しようととしても、出来るものではないだろう。
 そして僕も同じだった。彼女の心の中で自分だけが特別な位置を占めているなんて勝手に思っていた、ただの間抜けな男だ。僕の気持ちは、僕が伝えなければわからないというのに。
「……それがわかれば、貴方も大人じゃない」
「茶化さないで」
「……だって、そうでも、しなきゃ……っ」
 熱い息が僕の耳もとにかかった。身体を小刻みに震わせる彼女に驚いて身体を離すと、うつむいた顔に、表通りの光が反射する何かが流れた。僕はますます驚いた。
「何、どうしたの?」
「貴方の不意討ちが、成功しただけ」
「は、不意討ち?」
「……やっぱり貴方、なんにも分かってないね」
 微かに上気した頬を両手で覆い、彼女ははにかんでみせた。そんな彼女を見て、僕は戸惑うばかりだった。

◇ ◇ ◇

 面の金具の向こうに、伊佐木さんについて回っていたあの女の人がいる。今日は練習試合の日だ。僕は今、先鋒で出ている。
 少しざわついていた道場がしんと静まり返って、誰もが僕たちに注目していた。礼をして、中央に歩み寄る。蹲踞。剣先が触れるか触れないかの緊張が、僕を支配していく。しかし、前の落ちつかない緊張ではなく、変な話だが、楽しむことの出来る緊張感だった。
 目の前の女の人と視線があった。彼女は軽く笑ったようだ。目を細めている。
 立ち上がった。ここからは生きるか死ぬか、だ。変な感傷はもういらない。
「始め!」
 声とともに、竹刀が鮮やかな軌跡を描きだした。

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