第六幕「白昼夢」


 夢を、見ていた。長い長い、夢だった。

 意識が少しずつ覚醒していくのが、何故か私には感じられた。重く、ねっとりとした闇からまるで眠り姫が目覚めるような、奇妙な喪失感が私を包み込む。浮き上がってくる。「私」が浮き上がってくる。
 最初に目に入ったのは、曇ったプラスティックのカバーだった。ひんやりとした空気が充満した、まるで棺桶の蓋のようだと感じた。ぷしゅうーという音と共にそれが離れていき、生温かい外気が肌を撫で回していく。ひどく気分が悪い。青白い光だけが、私の虹彩を刺激していた。
「…………」
 下着姿だった。なのに羞恥心はミジンコほども存在しなかった。感情も、まだ王子サマのキスは受けていないらしい。ぐらぐらする頭をなだめすかして上半身を起こすと、下腹部にぴりっとした痛みが走った。ここは一体どこなのか。隣で衣擦れの音がした。薄目で見ると、一人の男がトランクスを直していた。
「……Good Mornin'、サヨコ」
 気怠そうな声で男が私に手を挙げた。逞しい胸板に、普段だったら顔を赤とうがらしのようにしただろう。今、私の中はまだ凍結状態だ。
「……Hi、ケネス。よく眠れたかしら」
「これ以上はないってくらいに。一緒にシャワー浴びないか」
「ダイアナが先約でしょう?」
 ケネスは失笑して、ドアに向かった。濡れた金髪が、精悍な顔にミスマッチだった。みっともない。そう思っている自分が一番みっともない格好をしていることに、私はすでに気づいていた。
 四本の足を使って粘ついた感じの棺桶から這い出し、ほうと大きく息をついた。下腹部の信号はまだ続いていた。その部分をさすりながら周りを見回す。ここは我がスペースシップのコールドスリープ室だった。約七十年の意識不明の状態から、生まれたての胎児のように、わけも分からずに目が醒めた。他の仲間も頭を振りながら、自分の記憶と取っ組み合っているようだ。その戦いに勝利しないことには、温かいコーヒーも飲めやしない。私がミルクをたっぷり入れないと気が済まないのは、部隊内ではかなり有名になっていた。
「サヨコ、スタイルいいね」
 ブロンドショートの混血人が肩を叩いた。あまり話をした記憶はないが、彼女のことは嫌いではなかった。スタイルだって、彼女の方が断然良いに決まっている。胸は私のほうが少し大きい。と、下腹部の痛覚が強い信号を発した。
「Hi、キム。元モデルが何言ってるの」
「あたしはやせすぎなのよ。あなたの身体は黄金律だわ」
「おだてたって何も出ないよ。織江君なら、何かくれるかもね」
「オリィが?」
 痛みが少しずつひどくなってきている。何だろう。我慢できないほどではなかった。それよりも早くさっぱりしたかった。他の人間も序々に起き出している。さっさとシャワールームに行かないと、下着姿のまま、廊下に延々と順番待ちをしなければならなくなってしまう。いくら日本人が並んで順番待ちをするのが趣味だからって、こんな姿では舌を噛みきったほうがまだましだ。突然、猛烈な恥ずかしさが私を苛んだ。痛覚も私を虐めて楽しんでいるようだ。下着のまま。しかも濡れている。こんな格好で呑気に立ち話をしていたの? 恥ずかしさのあまり身体が小刻みに震えてくる。私は声を上げ、わき目もふらずにシャワールームに駆け込んだ。できなかった。下腹部が激痛を発した。うずくまる。全身に悪寒が走る。
「サヨコ?」
 鋭利な刃物で内臓をずたずたにされていく。そんな感じだった。壊れてゆく。取り返しのつかないほど、私の何かが崩れていく。ぬる、という感触があった。何も考えずに股間に手をやる。……ああ神様。
「サヨコ……?!」
 キムの悲鳴。指先が赤い液体でコーティングされていた。血尿、ではない。もっと根元的な、「女」としてのアイデンティティーが失われた証だ。私にはわかった。はっきりとわかった。痛みが断続的に続いている。わかりたくはなかった。ここでの任務の半分が、実行できなくなったのだ。わかりたくない。痛みが、手負いの獣のように私の内で暴れ回った。
 まわりでざわざわと人だかりができていた。こんな恥ずかしいところを皆に見られるなんて、いっそこのまま死んでしまいたい。〈彼〉の顔が見えた。隣に、いつも一緒にいる〈彼女〉の顔もあった。本当に舌を噛みきって死んでしまおうと思った。本能はそれを許さない。随意筋が持ち主の意志を無視して収縮する。身体がのけぞり、口を大きく開け声をあげた。
「あああああぁぁぁっ」
 痛みで意識が朦朧としてきた。願わくは夢であって欲しい。〈彼〉の心配そうな顔は夢ではないようだ。声まで聞こえた。
 死んでしまいたい。

 地球人類の過度な期待をポケットに詰め込んで、私達はとある惑星に開拓団としてやってきた。開拓団。そう言って幾つの星を侵略し破壊してきたのか。私達はその行為に狂喜乱舞した。

 夢を、見ていた。
 子供が私にじゃれついてくる。胸を、唇を、髪を、触る。くすぐったい幸福感。私自身、〈彼〉の腕に抱かれている。あどけない子供の笑顔。優しい抱擁。気持ちのいい風。午後の柔らかな陽射しが白い壁に反射して私達を照らす。揺れるカーテン。はしゃぐ子供の声。土の匂い。草の薫り。潮の香り。飛行機雲。〈彼〉の体温。涙が、溢れた。
 はっと目を開ける。暗闇の中、非常灯の明かりだけが私達を照らしている。ケネスの鍛えられた腕が、私を包み込んでいた。シーツの生温かさに、気怠い眠気が頭を支配する。
「…………」
 また涙が流れ落ちた。ケネスは無言で髪を撫でてくれた。輸卵管破裂を起こした私にとって自分の子供をこの手に抱くことなど、私が男になるのと同じくらいの確率でしかない。それは夢だ。涙を拭ってくれたケネスの手をかき抱いて、私は身体をちぢこませて、幼い子供のように、泣いた。どんなに願っても、〈彼〉の子供を宿すことはない。〈彼女〉にはできる。その事実が私を切り刻んで、白人や黒人、スパニッシュ、フレンチ、いろんな男の腕の中で傷が癒され、同時にまた心がミンチにかけられる。〈彼〉に性的交渉を持ちかけたことは、一度も、なかった。
 叶わない、夢だ。そんな夢、惑星降下の摩擦熱で燃え尽きてしまえばいい。私も一緒に燃え尽きたい。

 船室から恒星の瞬きが見えた。この暗黒の広がりの中、自分の存在を誇示するかのように、光り輝いている。ここでうかれてお酒を飲んで酔っぱらっている人間よりは、よっぽど魅力的だ。
「ちょっとサヨコ、一人でテンション下げないでよ」
 ほんのり頬を上気させた、我が上司のキャサリンがグラス片手に艶然と微笑んだ。女の私でも鼓動が高まるほど、媚びた色気を振りまいている。
「はあ……。私はこういう場になれていないもので」
 食堂を飾りたて、惑星降下祝いと書かれたたれ幕が、やたら目につく。まだ一週間も先のことだ。わざわざ騒ぐほどのことでもないだろうに。私は一人でいたほうが気楽だった。
「もう、そんなことじゃあたしみたくなっちゃうよ」
「キャサリンのように綺麗になれるのなら……」
「口だけは上手いんだから、ふふふ」
カルロスぅ、と彼女はどこかへ行ってしまった。彼女のようになる。この船の機関士のイヴォコフという男と、ずっと昔、激しすぎる恋をした。開拓団で再会したときには、ただ寂しい握手をしただけだと、地球にいたときに本人から聞いた。そんなふうになってみたい。
〈彼〉と〈彼女〉の姿も見えていた。もう一人仲のいい男が二人に声をかけ、楽しそうに笑っている。名状し難い感情が胸の中で渦巻いた。この船の存在そのものを無くしてしまいたい。そんな感じだ。そういえば、ケネスはどこにいったのだろう。
 私は仲間の誘いを断り、独り自分の部屋に帰ろうとした。薄暗く無機質な廊下をゆっくり歩いて、階層移動のエレベーターに乗る。近代的な設備も、今は過美な最先端技術の慢心物にしか見えなかった。浮遊感。酔いが早くまわるかも知れない。ぼんやりとそんなことを考えながら、壁によりかかる。途中の階で止まった。扉が開く。人影。
「…………!」
「……Hi、ケネス」
 宇宙服に身を包み、いかにもこれから特別任務とでもいうような表情が見えたのは一瞬で、私と眼があった時点で、彼の緊張感は霧散したらしい。呆けた顔が、巻き毛の金髪とミスマッチだった。
「……もしかして貴男だけ宇宙旅行にしゃれこもうってわけ?」
「何でここに……」
 扉が閉まる。また浮遊感が私を襲った。気持ち悪い。二人ともそのまま無言で、私の部屋のある階まで来てしまった。ケネスの部屋も、ないはずがない。ケネスは何をするのだろう。……まさか。
 扉が開く。ケネスが動く気配はない。私も彼に従おう。扉が閉まる。ケネスがさらに驚いて私を睨み付けた。その視線に私は持てる力すべてとありったけの度胸を総動員して、睨み返した。睨み合いが続く。二人の息遣いだけが、まるで人工呼吸器の音のように響いて、かえって息苦しくなった。点滅しているボタン。
「……格納庫は十五階層だけど」
 またまたはっとしたケネスは、叩き壊す勢いでパネルを押した。浮遊感の一人時間差攻撃。歯を食いしばって何とかブロックするがアウト。軽いうめき声が洩れた。
「敵前逃亡、任務放棄は理由も聞かず軍法会議もなし、その場でいきなり射撃訓練の的になるだけよ」
 苦い声。自分の声じゃないみたいだ。ぴんとひらめくものがあった。それは狂った考えだった。あの時から狂っていたのだろうか、私は自分のアイデアに半ば惚れ込んでしまった。
「二人ならそれも免れることができるかもしれないけど。……選択権は、貴男にはないよ、この場では」
 そう言った時点で、エレベーターは十五階層に時刻どおり到着した。扉が開く。ケネスは動かない。また睨み合いだ。不意に荒々しい衝動が私を支配し、いきなりケネスの首に手をかけ、そのままエレベーターの外に押し出した。幸い人の気配はなかった。
 ケネスが銃を突きつけた。船の中では役立たずだということに、この男は気づかないらしい。ケネスを壁にどんと押さえつけた。撃つなら撃てばいい。どうしようもない虚無感が生まれた。いっそこのまま殺してくれればいい。さあ。
「さあ早く」
 思わず口に出た言葉をどう勘違いしたのか、ケネスは銃を降ろし、束の間私をじっと見つめて、ついてこいと顎をしゃくった。力が抜けた。
 〈彼〉の顔が浮かぶ。〈彼女〉の笑顔が隣にある。床にぺたんと座った。悲しいとも、情けないとも違う。私は、ここではもう必要のない人間なのかもしれない。子供の産めない女性隊員なんて。見回りの兵士の足音が聞こえた。
「……おい、何やってんだ」
 ケネスの声。さっきひらめいた計画を少しばかり変更しなければならない。どうせ大気圏で死ぬつもりだったのだ。少し早くなっても何のかわりもない。銃を持ったままのケネスの腕を掴み、自分自身に向け、ケネスの人さし指を、押した。薄暗い、何か雑然とした空間の中、銃声が、こだました。
「…………」
 熱い衝撃が貫いた。ちょうど、左胸だ。結構自分の胸は気に入っていたんだけどな、という考えが頭を掠めた。どたどたという音が聞こえ、二、三人の人影が見えた。私は倒れた。
「…………! 貴様?!」
「……ちがう! こいつが勝手に……!」
 ボクボクッ! ケネスは殴られたらしい。そこまでしか意識できなかった。ケネスには悪いことをした。あんなに優しくしてくれたのに。しかしもう遅かった。後は、暗い淵に沈んでいくだけだ。これであの夢を見ないで済む。いや、夢の中でずっと過ごせるかもしれない。カーテンが揺れる、あの場所で……。

 サトウ、貴男の子供が、欲しかった……。


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