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阿野全成伝 第一章第2話:雪の夜の誓い

第1章「醍醐の萩花、悪禅師参上」全10回

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ぽたん、ぴたん、ぽーん、ぴしゃん。

冷たい雨が愛鷹山を覆い始めた。滝の水音に混じる雨粒の音が、山全体に響き渡る。建久三年(1192年)8月末、陽が傾き始めた午後三時ごろのことだった。夏の名残が残る暖かな光が木々をかすめる中、秋の気配を含んだ風が山肌を撫でていた。全成は白装束のまま滝壺の前に立つ。濡れた長い黒髪が背中に貼りつき、滝行の冷たい水がその髪を束にしながら滴り落ちる。水滴が肩を伝い、静かに大地へと吸い込まれていく。その一瞬一瞬に、山の気配が静かに息を吹き返していくようだった。やがて空が曇り始め、風の匂いが変わる。葉を揺らす冷たい風が吹き抜けた後、ぽつり、と一粒の雨が肩に落ちる。全成が滝の下に身を沈めるころには、雨音が徐々に山を包み込むように広がっていった。

ぽたん、ぽたり。ぴたん、ぴたたたた。

葉を叩く雨粒が木々の間を通り抜け、山の空気を揺るがす。枝に触れた水滴がぽーんと弾け、地面に広がるぴしゃんという音がリズムを加える。雨の音は滝音に重なり、山全体が一つの交響曲を奏でているかのようだった。滝行を終えた全成は静かに滝場を後にした。雨に濡れた髪は長く背に流れ、背中に貼りついて冷たさが体に沁み込む。これが世俗に戻っても彼が必ず続ける日課だった。額に落ちる雨粒を拭おうともせず、足元の土を踏みしめる。
「そうだ…あの時の吉野の山の中も、こんな感じだった。」
ぽつりと漏らしたその言葉が雨音に消えると同時に、空が急に暗くなった。夕立がさらに大粒の雨を降らせ、滝場のそばを流れる桃沢川の水量を増し、濁流となって勢いよく渓谷を駆け下りていく。全成は滝を離れ、近くの岩陰に身を寄せた。雨粒は次第に大きくなり、滝音と混じり合って激しさを増していく。彼は静かにその音に耳を澄ませ、目を閉じた。滝の音と雨音が交わり、心に過去の記憶が滲み出してくる。吉野山の雨音、箱根を目指して駆けた山道、佐々木兄弟との出会い──すべてが音とともに胸の奥を満たしていく。全成はやがて雨の中に立ち上がった。冷たい水滴が装束を伝い落ちる中、滝場での鼓動のような音を心に刻み込みながら、彼は再び歩みを進めた。

治承4年(1180年)、28歳の全成は、源頼朝の挙兵を支援するため、東国を目指していた。父・義朝の死から20年が経った。全成は醍醐寺での修行の日々を送っていた。
「頼朝殿、ついに挙兵せり」
祖父・秀義からと告げられた全成は、その言葉を胸に、東国への険しい山道へと歩みを進めた。愛鷹山を降りる雨の音を聞きながら、全成の脳裏に吉野山の風景が蘇る。鬱蒼とした木々に包まれた寺院の一角で、祖父と向き合ったあの日の記憶。頼朝の挙兵を支える計画は、すでに細部まで整えられていた。醍醐寺を抜けた後、吉野山を経由し、箱根山にいる叔父・定綱たちと合流する。全成の足取りは険しい山道を越えながらも、迷いはなかった。

夕立がやんだ。山全体を覆っていた灰色の雲が薄れ始めた。濡れた木々の葉が金色の光を受けて輝き、雨粒が一筋の光を弾くようにきらめく。沈む夕日が山肌を照らし、遠くの木々が柔らかな影を落としている。三島の国衙を望めば、その荘厳な佇まいを取り囲む樹々の緑が遠く霞み、周囲には田畑と集落が広がる。全成は立ち止まり、その光景に目を細めた。湿った空気の中に、わずかな温もりが戻り始めていた。
「20年だ…。」
さかのぼること、平治元年(1159年)、京の郊外東山にある佐々木の館では、子供たちの笑い声と喧騒が雪の庭に響いていた。部屋の中央に置かれた火鉢が暖かな光を放ち、冷えた空気をわずかに和らげていた。常盤は、生まれて間もない牛若を抱きながら、外から聞こえる賑やかな声に耳を傾けていた。
「庭が春までもつかしら。」
常盤が苦笑いを浮かべて呟くと、縁側に座っていた定綱が、わずかに肩をすくめた。
「まあ無理でしょうね。虎が暴れてるみたいだよ、姉上。特に今若、全く手がつけられない。」
雪が降り積もる庭では、今若が竹刀を振り回しながら大声を張り上げていた。長い黒髪が乱れ、泥や雪にまみれながらも、その美しい顔立ちは常盤に似ている。膝下まで届く髪が振り乱れるさまは、荒々しくも目を奪われるような光景だった。
「辰若、そっちだ!犬若、回り込め!」
今若が指示を飛ばすと、辰若と犬若が雪の中を駆け回る。勢いよく竹刀がぶつかり合い、乙若が転びそうになりながら必死についていく。兄弟たちの笑い声と叫び声が庭中に響き渡り、雪を蹴散らしていた。
「定綱、少しは止めてきたらどう?」
常盤が牛若をあやしながら窘めると、定綱は軽く息を吐いて応じた。
「姉上だって、あいつらを止める自信がある?」
常盤が返事に詰まったその時、火鉢のそばに座っていた母・関屋が静かに口を開いた。
「怪我もそうだけど、それより屋敷内に泥を持ち込まないでほしいわ。」
微笑みながら、お腹にそっと手を当てる関屋。その中には新しい命が宿っていた。
「母様、その子にも苦労をかけることになりそうね。」
常盤が心配そうに言うと、関屋は静かに首を振った。
「いいえ、大丈夫よ。この子も強くなるわ。」
今若が竹刀を振り上げ、声を響かせる中、子供たちの闘いは激しさを増していた。今若、辰若、犬若は同じ年に生まれ、三つ子のように振る舞っているが、その家族関係は複雑だ。今若は常盤の長男で、父は河内源氏の棟梁・源義朝。一方、辰若と犬若は、常盤や定綱と同じ母・関屋の息子であり、父は義朝の重臣・佐々木秀義。彼らは宇多源氏に属し、今若とは叔父と甥の関係にあたる。さらに、関屋は義朝の腹違いの姉であり、彼女自身も河内源氏だ。当時、婚姻を通じて同族や勢力間の結びつきを強めることはよくあることであった。常盤は「千人の美女」に選ばれ九条院に仕えた後、義朝の寵愛を受け、十五歳で今若を産み、続いて乙若、牛若を抱えている。後継者である頼朝の母由良御前亡き後、彼女は義朝の継室となった。一方、関屋は秀義の継室となり、辰若、犬若、そして新たな命を宿している。

雪の積もる庭から蹄の音が近づいてきた。縁側から外を眺めていた定綱が立ち上がり、
「父上が戻られた!」
と声を上げる。今若、辰若、犬若、そして乙若は、一斉に声を上げながら厩のほうへ駆け出した。
「父上!」
辰若と犬若が秀義のもとに飛び込む一方、今若と乙若は義朝に駆け寄った。乙若はそのまま義朝の腰にしがみつき、幼い声で
「お父様、お馬に乗ってきたの?」
と尋ねる。義朝は笑いながら乙若を抱き上げ、頭を撫でた。
「そうだ、乙若。今日は遠くまで行ってきたぞ。」
秀義もまた辰若と犬若の肩に手を置き、少し厳しい口調で言う。
「お前たち、さあ、着替えて部屋へあがれ。」
日も暮れ、義朝と秀義は夕餉で満腹になった子どもたちをそれぞれ連れ、寝かしつけた。子どもたちの安らかな寝顔を見守りながら、二人の表情には一瞬の安心が浮かんだ。しかし、雪が静かに降り続ける夜、ようやく静けさを取り戻したその静寂の奥底には、戦いを前にした緊張が確かに漂っていた。義朝と秀義は腰を下ろして火鉢で冷えた手を温めた。常盤が抱いている赤子の牛若に、義朝がふと微笑んで声をかけた。
「常盤、牛若は元気そうだな。」
「ええ、とても元気です。でも、あなたこそお疲れでしょう。都の様子はいかがですか?」
義朝は一瞬目を閉じ、低い声で答えた。
「信頼様が動き始めた。清盛が熊野にいる隙を突いて、信西殿を排除する計画だ。」
その言葉に、火鉢のそばで身を正していた関屋が眉をひそめた。
「信頼様が?それは本気なのですか?」
義朝は短く頷く。
「本気だ。だが、その先に何が待つか、清盛が戻ればどうなるか……まだ分からない。」
火鉢の火がぱちり、ぱちりと小さく弾け、静寂の中にかすかな音を響かせている。秀義が静かに口を開いた。
「義朝殿、信頼様のお考えが正しいかどうかは分からぬ。しかし、佐々木一門はあなたについていきます。」
義朝は秀義に目を向け、深く頷いた。
「秀義殿、感謝します。」
その時、関屋が穏やかな声で口を挟んだ。
「義朝、ここでできることします。あなたは、ただ前だけを見て進んでください。」
義朝は少し間を置いて、関屋をじっと見つめた。視線に、わずかな感謝と共に、どこか沈んだ重圧が滲んでいる。
「…姉上、ありがとうございます。」
彼の声には感謝の気持ちが込められていたが、子供たちのほうへ目をやり、短く頷いた後、続けた。
「お前たちが無事でいてくれることが、わしにとっての支えだ。」
関屋は静かに微笑み、義朝の言葉を受け止めた。

冷たい冬の風が竹林を揺らし、館の中では火鉢の炭が静かに赤く光っていた。常盤は牛若を抱き、その小さな顔を見つめながら、どこか遠くを見るような目をしていた。
「九条院での暮らしを思い出しますか?」
関屋が静かに声をかけると、常盤は小さく頷いた。
「はい…あの頃は、こんな風に京が揺れるなんて思いもしませんでした。」
常盤は、宮廷の喧騒や義朝との出会いを懐かしく思い返していた。
「でも、今母上と一緒にいられる。それだけでもありがたいことです。」
その時、庭から慌ただしい馬の蹄の音が聞こえ、門を開けた。義朝の小姓である渋谷金王丸が泥だらけの姿で駆け込んできた。
「金王丸?義朝様は無事なの?」
常盤が立ち上がり、牛若を抱えたまま金王丸を見つめる。金王丸は額の汗を拭いながら、深く頭を下げた。
「常盤様、義朝様は六条河原で平氏軍に敗れ、美濃へ向かっております。」
その言葉に、常盤の顔が青ざめた。
「では、義朝様は…。」
金王丸が続けた。
「まだご無事ですが、追っ手がかかれば危険です。」
その言葉を聞いて今若が立ち上がり、涙ながらに訴えた。
「僕も行く!父上を助けに行く!僕も8つになる!もう戦える!」
必死に金王丸の袖を掴み、顔を上げて訴える今若の姿には決意がにじんでいた。金王丸は膝をつき、優しく今若を諭す。
「若君、そのお気持ちは嬉しい。しかし、義朝様はあなたを守るために戦っています。お母様を守ってください。」
「でも!僕だって強いよ!父上を助けたい!」
その様子を見ていた関屋が静かに立ち上がり、金王丸に向き直った。
「金王丸、よく頑張ったわね。少し休みなさい。」金王丸は深く頭を下げた。常盤はただ静かに涙を流し、牛若を抱きしめていた。

夜の冷たい風が障子を揺らし、座敷では関屋、常盤、秀義が小声で話し合っていた。
「ここにみなで留まるのは危険だ。定綱は一足先に下野の宇都宮へ行かせた。関屋、お前は身重だ。中村の妹を頼れ。そして…。」
秀義は汗と泥にまみれた鎧姿のまま、苦悩の表情を浮かべながら告げる。
「常盤、お前は京にいる叔母の美濃局のもとを訪ねるんだ。」
秀義は一息つき、常盤と関屋の目をじっと見つめた。
「わしは辰若と犬若を連れて定綱を追う。皆、それぞれの道で生き延びろ。」
その言葉には覚悟と憂いが滲んでいた。常盤はしばらく黙考した後、不安げに口を開いた。
「でも、本当に無事に辿り着けるのでしょうか…。」
秀義は微かに眉を寄せながらも力強く頷いた。
「信じるしかない。生き延びるためには、それぞれの道を選ぶしかないのだ。」

翌朝、美濃局の館に到着した常盤は、館の扉を叩いた。扉が開かれ、美濃局が姿を現す。常盤は頭を深く下げ、必死に頼みの言葉を口にする。
「叔母上、どうか私たちをかくまってください。」
美濃局は一瞬常盤を見つめた後、周囲を確認すると急いで3人を扉の中へ引き入れ、ゆっくりと口を開いた。
「常盤、私も助けたい気持ちはある。しかし、あなたたちをここに迎えることはできない。」
常盤はその言葉に驚き、必死で問いかけた。
「なぜですか?」
美濃局は静かにため息をつき、口を開いた。
「実は、つい先ほど、美濃の青墓での出来事が入ったの。朝長が討たれ、頼朝が捕らえられたと。」
常盤は驚愕し、目を見開いた。
「青墓で…?」
美濃局は頷き、続けた。
「源氏の残党狩りよ。次々と…。その中で、頼朝も捕らえられてしまった。」
常盤はその言葉に呆然としたまま、何も言えなかった。美濃局はさらに言葉を続けた。
「そして、夜叉も兄頼朝を守って討たれたと。」
常盤はその言葉に驚愕し、心が凍りつくような思いがした。
「夜叉も…?まだ11歳だと…しかも姫が討たれる?」
美濃局はしばらく黙った後、続けた。
「そう、将来が楽しみだったのにもったいないこと…。あなた一人ならなんとかなるかも…けれど男の子3人の命までは保証できない。」
常盤はその言葉にしばらく沈黙し、震える声で聞いた。
「では、私たちはどうすれば…?」
美濃局はしばらく考え、静かに答えた。
「大和の宇陀の里に向かいなさい。あなたの母の実家の。遠いけど源頼政様の領地だから、誰も手出しできないはず。それに新宮十郎行家が頼政様の近くにいる。行家は私たちの弟で、自由に動けるわ。きっと力になってくれるはず。」
常盤はその言葉をじっと聞き、やがて深く頷いた。
「分かりました。どうか、私たちの無事を祈ってください。」
美濃局は静かに常盤を送り出した。

その夜、常盤たちは雪深い山道を進んでいた。追っ手の気配を警戒しながら、冷たい風と吹雪の中で足を止めることもできず、ただ歩き続けていた。雪は容赦なく降り積もり、視界を白く閉ざしていく。
「母上、寒い…。」
乙若が震える声でつぶやく。その小さな体が震え、肩をすぼめながら手を握りしめている。その声は痛々しいほどか細かった。今若は背負った荷物を背中に押し込むように調整し、ふらつく足を懸命に前へと進めていた。常盤は二人の子どもを気遣いながらも、厳しい表情を崩さず、周囲を見渡した。そして、雪に埋もれかけた小さな祠を見つけた。
「あそこなら風を避けられるかもしれない…。」
常盤は決断し、子どもたちを急かして祠へと向かった。祠は古びて小さかったが、蓑や笠で身を隠しながら身を寄せるには十分だった。常盤はまず雪に覆われた祠の中を手でかき分け、子どもたちをその中に座らせた。蓑を脱ぎ、それを二人の上に掛けると、さらに自分の袖を広げ、今若と乙若をそっと包み込んだ。
「母上、大丈夫なの?」
今若が心配そうに尋ねる。
「お母様は平気よ。あなたたちはしっかりくっついて暖を取ってね。」
常盤は笑みを浮かべて答えた。その顔には疲労の色が滲んでいたが、その目には強い覚悟が宿っていた。母や兄のぬくもりの中で、乙若の顔にも少しだけ暖かさが戻っていた。吹雪は相変わらず激しく、祠の入り口から冷たい風が吹き込んでくる。常盤は積もった雪を手で押し固め、入り口を覆うようにして風を防いだ。
「この雪が私たちを守ってくれるはず……」
彼女は心の中で祈りを捧げた。
「どうか、この子たちが無事でいられますように。」
そのとき、今若がそっと顔を上げた。
「母上、僕は戦います。どんなことがあっても、絶対に守ります。」
その言葉に常盤は驚き、そして深くうなずいた。
「ありがとう。あなたたちは強い子だわ。でも、今はお母様が守るから、しっかりと体を温めて休んでね。」
常盤は優しく子どもたちを抱き寄せ、祠の中で体を寄せ合った。外では吹雪が続き、風の音が山中に響いていた。小さな祠の中、母の蓑の暖かさに包まれながら、子どもたちは少しずつ目を閉じ、安らかな眠りへと落ちていった。その夜、常盤の心には一つの願いだけが繰り返されていた。
「どうか、この子たちのうち、誰か一人でも生き延びて後生を弔ってくれれば…」
常盤の心の声が、冷たい空気に溶け込むように広がった。その瞬間、今若の胸に母の強い願いが直接響いたような感覚が走る。
「母上…」
彼は驚きに目を開き、震える手で母の手を握りしめた。
「私が守ります。どんなことがあっても、私が母上の願いを果たします。」
今若の決意のこもった声に、常盤は一瞬驚き、そして微笑んだ。
「ありがとう、今若。」
その声は祠の冷えた空気を温めるように、優しく響いた。
(了 作:伊東 聰、2025年1月12日日曜日)

<作者紹介>伊東聰
阿野全成を追いかけて32年。阿野館こと沼津市井出の大泉寺にて、2021年より原則土日祝日に観光ガイドを行っています。機会があればぜひ足をお運びください。
※不在の場合もありますので、確実にお会いしたい方は事前にご確認ください。※


愛鷹水神社伊豆半島ジオパーク 撮影:伊東聰

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