ダブル村上 〜龍と春樹と、時々、中上健次〜【KJ's】
村上春樹と村上龍。
奇しくも同姓で同年代、でも、ことごとく対照的に語られることの多い2人の作家。「どっち派?」という下世話な文学トークになった場合、自前の調査ではほとんど意見が真っ二つに分かれる。両方バランス良く好きという人は希少ではなかろうか。
僕の周りでは龍派がやや優勢ではある。
それぞれの作品分析や批評をかますほどの力量は持ち合わせていないのだが、実は、僕は両方とも好きだ。しかも、半生を通してかなり影響を受けていると言っていい。
10〜20代は龍派
若かりし頃、つまり10代から20代は圧倒的に村上龍だった。
『限りなく透明に近いブルー』『愛と幻想のファシズム』『コインロッカーベイビーズ』... 他にも、刺激的な短編やエッセイを貪るように読んだ。
ストーリーや村上龍自身の発言に影響されて、やや偏った思考や嗜好を持ってみたこともある。
そして、その世界をDIGった先に中上健次がいた。
20代後半で中上ワールドに溺れた僕は、『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』の三部作で完膚なきまでに打ちのめされ、精根尽きてしまった。いい意味で。
中上について語ると脱線するのでやめよう。
今思うと、村上龍や中上健次を読み漁った若かりし頃、その熱狂というのは社会に対しての憤りや抵抗をおおいに孕んでいたように思う。「会社」や「業界」や「社会」の歯車になってラットレースのような暮らしに染まりながらも、精神的にはアウトローであろうとした。
その狭間で引き裂かれそうになる自我。
現実世界では中産階級まっしぐらな僕は、彼らの作品に同化することで秘かな知的反抗を行なっていたのだろう。
同じような動機で読んでいたのがビートニク文学とか、レクター博士のハンニバルシリーズとか、60〜70年代の新左翼が起こした事件のノンフィクションとか、ポストモダニズム関連とか。
列挙すると、あまり仲良くなりたくない類の人間の本棚だ。
いずれにしても、およそ30歳を境に、村上龍や中上健次のような肉体的なリアリズム作品からは少し距離を置くようになった。
30代で春樹派
一方で、村上春樹については遅咲き読者だ。集中的に読むようになったのは30代になってからだと思う。
決定打は『ねじまき鳥クロニクル』。
村上春樹的メタファーでいうところの「井戸の底」にがっつりと降り立ってしまった。
30歳を過ぎてすぐに結婚(2009)をして、子供(2010)が生まれた。仕事に対するモチベーションや主体性、責任もいくぶんか増した。
時を同じくして東日本大震災(2011)があった。
そんな環境変化まっただ中の自分を感化させた『ねじまき鳥クロニクル』が村上春樹の転換期作品(いわゆる「デタッチメントからコミットメントへ」)であったことも偶然ではないだろう。
20代における知的反抗期を経ての春樹作品との邂逅。
そこには、現実と折り合いをつけながらなんとか上手くやっていかなければ!という切迫したアイデンティティクライシスがあった。そして、「現実との折り合い」をつけるためには村上春樹の物語が必要だったんだと思う。
それは理不尽な世界との対峙でもあり、自分自身の一部を喪失することや、アルターエゴとの決別でもあった。
だって、村上春樹の作品ってだいたい冒頭に誰かが主人公の元を突然去っていって、得体の知れない「悪」のなかに巻き込まれながら、謎めいた人物に導かれて最後はその人(たぶん自分の分身)と決別するじゃないですか。
大人の階段のぼる、僕はまだ40代さ
龍から春樹への移行が精神的な成熟だとは言わない。逆の人だっているし、片方しか好きじゃない人もいっぱいいる。
ただ、僕個人に関していうと、その転向は「大人になる」ということと相関しているのだろう。
巡り巡って40代になった今、かつての彼らの作品に対してのように、熱狂したり、救いを求めたりする読書体験はほとんどない。
代わりにビジネス書や自己啓発本をたくさん読むようになった。
これはこれで、さらなる成熟へと僕を誘っているのかもしれないけれど、そんなことは後々になってみないと解らない。
もちろん、何かを得たり感じたいから意図的に本を選びとって読むのだけれど、その物語のなかに自己を投げ入れ、現実世界でシェイクされながらアウトプットされるものが何かが解るのはいつだって事後的だ。
だから、アマゾンの「欲しいものリスト」がいつも無闇に膨れ上がってしまう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?