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私のこと。
私は、生まれた時から「音」を知らない。
私を知る人からみたら、いくらか、語弊があるかもしれないが、生まれた時には「音」がこの世にあるということを知らなかった。
先天性風疹症候群による先天性の聴覚障害を持って、世の中に出てきた。
母が私を妊娠中に風疹にかかってしまったのが、原因。
この事実を知っていたのは、父だけだった。
母は、産後までずっと全くこのことを知らずにいたらしく、ただ祖母だけがなんかこの子はおかしいと怪しんでいたそうだ。
やがて、大きな音に反応しないということに、母は気づき色々な病院に連れていっても結果はどこも同じだったそうだ。
「手術することは出来ません。一生治りません。」
母は、私を道連れにして自殺しようとまで考えるほど打ちのめされたと、後で教えてくれた。
三歳でろう学校の幼稚部に入学
もう言葉では言い表せないほど、厳しい壮絶な戦いが待っていた。
この頃の、私と言えば補聴器に慣れず、つけるのを嫌がって投げていたらしいが、記憶にない。
この時のろう学校は、まだ「口話至上主義」ではなく、私より上の学年の人たちは、手話で会話をしていたが、私たちの時に手話禁止になったのである。
担任の先生が、親たちに
「お父さんお母さん、大変心が痛むと思いますがこの子たちの将来を見据えて考えて欲しい、今後、手話が使える人が増えたとしてもわずかに過ぎない、この子たちがコミュニケーションで苦労すると思います、だから手話を使わないで下さい」
的な事を話され、それからというもの、発音の訓練、聞き取りの訓練、読み取りの訓練が始まった。
家に帰ってからもそれは同様で正しい発音が出来るまで泣いても何回も繰り返し繰り返し言わなければならなかった。
「なんで出来ないの!」
出来ない事への焦燥感があったであろう、母にぶたれたこともある。
絵日記を毎日書くことが習慣で、文章も助詞を間違うと「ちがうでしょ!!」って鬼のような顔で言われたこともあった。
大泣きしても、その訓練はすぐには終わることは無かったから、親をたたいたりして癇癪を起こして物を壊したこともある。
しかし、訓練の時間が終われば楽しいこともいっぱいあったので、それだけは幸いだったと思う。
父と、車に乗って旅行に行ったり、そこらへんの子供と同じように買い物に行ったり、、、家の近くが海だったので、色んな魚や貝を捕ったりして、本当に訓練以外は普通の子供と同じように遊んだりした。
しかし、高校生ぐらいの時だったか何年かたってから、祖母が「あんたのお母さんはな、ここに来ては泣いていたんだよ、なぜここまで厳しくしないといけないのかって」と教えてくれた時、父も母も本当は辛かったんだな。と、あの厳しい訓練に対しての怒りが消えていったことを覚えている。
ところで、私は、昼までろう学校の幼稚部、午後からは近くの公立の保育所に通っていた。
だから、保育所でのクラスメートとは言葉が通じないことからしょっちゅう喧嘩をしていたらしいが、今は当時のクラスメートに会うことがあれば、挨拶を交わしたりする。
今では、手話も出来ますが、普通に読み書きも出来ますし、口話も出来るので親に感謝の気持ちでいっぱいです。
もし、親が心を鬼にして訓練をしてくれなかったら話せないままだったかもしれません。
ところで、よく、子供をろう学校に入れるべきか?普通の学校に入れるべきか?で揉める話を耳にしますが
この問題は、非常にデリケートで大変難しいですが、一言でいうならば、そこに「正しい」か「間違い」かという答えは無いでしょう。
特別支援学校、ろう学校とも色々と繋がりながら、お子さんの聴力、学力、理解度なども合わせていかれたらいいと思いますし、「一日体験」をお願いしてみて、子供とどっちが楽しかった?とか色々と話し合ってみてからでもいいと私は思います。
私は、幼稚部から高等部までをろう学校で過ごしましたが、ろう学校でなければ大学に行けるレベルに達していけなかったと、自分の経験からそう思っています。(あくまでも、これは私のレベルでという話です)
インテグレーションも、(普通の学校へ行く)並大抵の努力がなければ、ご両親や周りの方のサポートがなければ決して楽では無いと思いますが、それでも、一生懸命頑張って学んでいる子供たちもいます。
特に、普通の学校では、中学生になると授業の内容も困難になり小学校と比べてスピードも早くなっていくので、理解が出来ないまま進んでいくとどんどんわからなくなり、孤独感を感じていくという話も聞きますので、色々な方のサポートでうまくいけるといいと思います。