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「猫」と戯れる概念筋肉マッチョ💪

最近のSNSのアルゴリズムは恐ろしい。
オススメ欄は癖をブチ抜く正確さで私たちの時間を溶かしてゆく。
ネットサーフィンでカバンを見ればカバンの広告投稿が表示され、何の気なしに猫の動画を見てしまっては、あっという間に画面いっぱいにかわいい〜ネコチャンタチで埋め尽くされる。

しかしある日、労働の合間に脳の活動を停止させ、いつものようにネコチャンタチを眺めていると、大量のネコチャンタチの中に筋肉マッチョが逆説的にも涼しげに埋もれているではないか!

いや、単に今まで気づかなかっただけなのかもしれない。私が高校生のとき父親がフォルクスワーゲンを納車したが、その日を境に街中に大量のフォルクスワーゲンが走るようになった。

当然ながら、ある日を境に特定の車種が大量に世に放たれることはない。ましてやドイツ車。蓋し、認知のフィルターが増えたことで認識の仕方が変わったのだ。

この日もそうだった。

人間の際限のない空虚な欲望を満たすためだけに稼働を止めることができない、排泄物に食らいつくハエにも劣った社会の歯車の一員になって、約1年という月日が過ぎていた。短いようだが私を破壊するには十分で、筋肉は細り、知性は干からびた。その干からびた心身を潤したものは、

「知識を知識としてたのしむ」
「役に立たない知識を愛でる」

そんな態度であった。

具体的にはポッドキャストという形で私に活力を与えたのだが、内容はさまざまで、哲学・文化人類学・コンピュータ科学・歴史学・言語学についての内容は特に興味深い。色々聞いているうちに、かつて大学で哲学徒の端くれをしていた私は、学習についての次のような定理(仮)に気づいたのだった。

「情報の大量摂取は善なのでは?」

きっかけはコンピュータ科学の分野で2012年にディープラーニングと呼ばれる機械学習の技術が発達し、AIが「ネコチャンタチ」を認識できるようになったという話にはじまる。

うろ覚え、不勉強をご容赦いただきたいが、今まではAIに猫を認識させるには、猫の定義(四足歩行、耳が三角で立っているなど)をプログラムすることによって猫を認識させようとしていたが、人間が認識しているような形での認識を再現することはできなかったという。

三毛猫のくるみちゃん
黒猫のトラくん
まるお
もふこ
ニャンちゅう
ハチワレ
ニャース
ジバニャン
トム(トムとジェリー)

私たちは「ネコチャンタチ」一般とその類を猫として認識できるが、それまでのAIにはそれができない。

しかし一転、大量のデータ分析が可能になったことで「ネコ」一般の認識が可能になったらしいのである。

私はこの事実を直感的に正しいと思えただけでなく、哲学的な示唆に富んでいることを元哲学徒として感じざるを得なかった。下記はそう思う理由となる哲学の命題である。

「私たちは対象それ自体を認識することができない」

つまり、ある「モノ」について絶対的な認識を持つことができず、認識は常に相対的であるという。。。
何を言っているのかさっぱりだろう。
ぜひ説明したい。

例えば飲み屋で友人に、
「猫とは何であるか」と突然問われたとする。
気味が悪いなと思いつつも、

「かわいい」
「もふもふ」
「哺乳類で」
「耳が三角で」
「足が4本で」
「ネズミを捕まえる」
「人間のことを奴隷化する」

などとあなたは答えるだろう。
さらにこう問われたとしよう。

「かわいいとは?」
「もふもふとは?」
「哺乳類とは?」
「耳とは?」
「三角とは?」
「足とは?」
「4とは?」
「ネズミとは?」
「人間とは?」
「奴隷とは?」

「“かわいい”はつくれる!」みたいな語感で調子を狂わせてくる概念ソクラテスに延々と詰められた結果、「猫」についての説明は「猫」“以外”の何らかの概念に常に依存していることに気づかないだろうか。

「猫」は「かわいい」であるが、「かわいい」は「猫」ではない。「猫」を形容する諸概念は「猫」自体の認識とはなり得ない。「猫」“以外”を知らなければ、「猫」を知ることはできない。
言い換えれば「猫」でないものを知っているからこそ、「猫」についての説明が成り立っているのだ。

つまり「人間の認識」とは、

無数の『〇〇でない』の集合体から適切なグルーピングを推論すること

とも言えるのではないか。

AIは大量のデータ処理により“猫以外”の情報を取り入れることができたからこそ、初めて“猫”を認識したのである。

このようにAIがディープラーニングによって「ネコチャンタチ」を認識することに成功したという事実は、哲学の認識についての命題と実証主義的な科学がかつてないほどクロスオーバーし、実学としての教育や学習という場面において哲学の方法論的命題が、私にとって役立つ情報として114514年ぶりに寄与したのだ。

哲学のわけわからん問いが科学的論拠を持って役立つのではないかという感覚はベートーヴェンの交響曲第9番にも匹敵するほど歓喜の感覚であった。

先ほどの命題の続きではあるが、

「猫について全てを理解する」とは
「猫“以外”の全てを理解する」ことでもある。

つまり、
「人類がある対象について“全て”を理解することが可能である」
という命題が偽であることを暗に意味している。

「知る」「理解する」「全て」の語句について現象学的な議論する必要があるが、一旦棚上げして、
「猫“以外”の全てを理解する」ことが想像を絶する作業であることは間違いないだろう。

「全て」を理解することとは、
「全て」以外の全てを理解する必要がある。

「『全て』以外の全て」が何であるか仮に理解できたとして、それは無限に巨大化するマトリョーシカのように逆入れ子構造になっていくだろう。

「全て」という文字がゲシュタルト崩壊を起こし始めたところで本題に戻ると、

このように人間の有限性をありありと提起する命題も、コンピュータ科学の知見によってとてもポジティブなものへと転化するように私には思えたのであった。

「情報の大量摂取は善である。」

役に立たなければ立たないほど美しい。
知りたいことと関係なければないほど輪郭がはっきりし、
知れば知るほどわからなくなる。
またいつか出会うのだから忘れてしまってもいい。

基礎研究を軽んずるビッグブラザーに対する皮肉も込められている気がして、干からびた私の心身は少しずつ潤いを取り戻したのだ。このようにして現在私は読書に無性に惹かれるようになったのである。

話をSNSに戻すが、

このようにしてネットサーフィンで面白そうな本を漁りに漁ったことで、ネコチャンだらけだった私のSNSが少しずつ、

「私は年間200冊以上読む社会人!!」

のような投稿に目がいくようになり、オススメ欄は侵食され始めたのである。

年間200冊以上など読めるはずがない。
どのような概念的モリモリマッチョがSNSを更新しているのかと慄いた。
「純粋理性批判」
「プロ倫」
「論理哲学論考」
「存在と時間」
など、そのほかにも歴史学や言語学、文化人類学などについての本を1冊2日かからず読むことができたなら、一般社会人など辞めてさっさと研究者になった方が社会善だ、と断言するにいささかの躊躇もない。

私にとっての読書とは、
わけわからん哲学的っぽそうなことが書いてある古典文献と呼ばれるものとその研究者の解説書を、両乳首を丁寧に口に含めるが如く読むことだった。ちなみに哲学を学び始めて何年も経過したが、いまだに哲学者の本を頭からお尻まで見事に読破したことはない。

しかしそうだ。
「情報の大量摂取は善」なワケだしー。

本屋に行く楽しみを思い出し始めた私は、本屋の人文のコーナーではなく、
ビジネス・自己啓発のコーナーに赴く。

すると読み始めてわずか5分。
私は宇宙ネコとなった。

文字の大きさ
語彙の平坦さ
ページごとの情報量の少なさ

まるで夏場のそうめんのようにスルスルとページが運ばれていく。
もはや目次だけで十分エアプが通じる始末だ。

もちろん内容が薄っぺらーいビジネス書もそうでないビジネス書も、手に取らなければ何が面白く、何がつまらないのか知ることすらできない。「情報の大量摂取は善」という言説は、挑戦や勇気という概念を超えて、面白半分で未知なるものに突入してしまう学習の本質であるように思える。

こうして私は、

初めて斜め読みの意味を、
電車内であり得ない速さでページをめくるサラリーマンを、
年間200以上読む社会人を、

『言葉』ではなく、『心』で理解できた!

荒木飛呂彦 『ジョジョの奇妙な冒険 第5部』

のである。

この世の中、
羊頭狗肉なマッチョもいれば、
温厚篤実なマッチョもいるし、
難攻不落なバッキバキのマッチョもいる。

その傍で「ネコチャンタチ」は掴みどころがないながらも、人間に寄り添ってくれているのかもしれない。

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